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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年10月11日説教(創世記1:1-5、1:26‐2:3、天地と人間の創造)

投稿日:2015年10月11日 更新日:

2015年10月11日説教(創世記1:1-5、1:26‐2:3、天地と人間の創造)

 

1.神は天地を創造された

 

・今日から創世記を読んでいきます。原初史と呼ばれる創世記1章から11章までを8回にわたって読みます。今日は創世記1章ですが、1章は天地創造の記事であり、その1-3節は創造前の世界がどのようであったかを記しています「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(1:1-2)。神が天地を創造される前、「地は混沌であって闇が全地を覆っていた」とあります。世界は闇の中にあって、混沌としていた。そこに「光あれ」という神の言葉が響くと光が生まれ、混沌(カオス)が秩序あるもの(コスモス)に変わっていった」(1:3)と創世記著者は語ります。
・「地は混沌とし、闇が深淵の淵にあった」という言葉は、創世記著者の見た現実世界の有様を表現しています。文献学的研究によれば、創世記1章は紀元前6世紀に書かれた祭司資料から構成されたと言われています。イスラエルはバビロニア帝国により国を滅ぼされ、国の指導者や祭司たちが、捕虜として敵地バビロンに連れて行かれました。その期間はおよそ50年に達しました。このバビロン捕囚時代に書かれ、編集されたのが創世記1章だと言われています。捕囚地での新年祭にはバビロンの創造神話が演じられ、「バビロンこそ世界の中心だ」と宣言され、イスラエル人は屈辱の中でそれを見ました。何故神は、私たちイスラエルを滅ぼされ、敵地バビロンに流されたのか。私たちはこれからどうなるのか。勝利者は彼らに「お前たちの神はどこにいるのか」と嘲笑の言葉を投げつけています。「私たちは滅ぼされた」、「私たちは神に捨てられた」、絶望の闇がイスラエル民族を覆っていました。それが「地は混沌とし、闇が深淵の淵にあった」という表現の背後にあった現実です。

・その彼らが、苦難の中で、「光あれ」という神の言葉を聞きます。そして「神が光あれといわれると光が生じ、闇が裂かれた」という幻を見ます。バビロン捕囚は50年も続きました。父祖や兄弟や同胞は次々に死に、残りの者たちも異国の地で果てようとしている。身に見える現実には何の救いもない。彼らの絶望を示す言葉が詩編の中にあります「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、私たちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。私たちを捕囚にした民が、歌を歌えと言うから、私たちを嘲る民が、楽しもうとして『歌って聞かせよ、シオンの歌を』と言うから。どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で・・・娘バビロンよ、破壊者よ、いかに幸いなことか、お前が私たちにした仕打ちをお前に仕返す者、お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は」(詩編137:1-9)。その闇の中で彼らは「光あれ」という言葉を聞いたのです。

・そして50年もの長い時の後に、解放の日が来ます。それが4節「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分けられた」という言葉の中に反映しています。神は闇の中に光を創造され、光を見て良しとされた。それは闇を否定されたことです。「世界の本当の支配者は自分たちの国を滅ぼし、同胞を苦しめているバビロン王ではなく、私たちの信じる神なのだ」と彼らは告白しているのです。現実の世界がどのように闇に覆われ、絶望的に見えようと、神はそこに光を造り、闇を克服して下さるとの信仰告白は、同じように現実世界の闇の中で苦しむ私たちにも伝わる言葉です。人はどのような闇の中にあっても、そこに「光あれ」と言われる方が共におられるなら、生きていくことができるのです。

・創世記1章は「この世界はどのようにしてできたのか」、「人間とはどういう存在か」を哲学的に思索してできた文章ではありません。それは捕囚の苦しみの中で生まれてきたものです。私たちが今生きているこの世界、この現実、そこには「混沌」があり、「闇」があり、救いようのない「絶望」があっても、私たちを創造された神は、そのような状態に私たちがいることを望んでおられないし、私たちが希望をもって立ち上がる日を待っておられる。そのような信仰のもとに書かれた、「励ましと慰めの書」なのです。

 

2.神は御自分にかたどって人を創造された

 

・創造の業は続きます。二日目には大空=宇宙が造られ、天と地が分かたれました。三日目には地球が造られ、海と陸が分けられ、生物が生きる環境が整えられていきます。そして植物が造られ、魚と鳥が造られました。そして最後の六日目に動物と人が創造されます。創世記は1章26節から、人の創造を記します。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』」(1:26)。人間は自然界を治めるものとして造られた、しかし同時に動物と同じ日に造られた。人間は自然と共存するように造られたと創世記は述べます。

・しかしやがて人間は神のようになろうとして、「食べるな」と禁止された禁断の知恵の実を食べます。その結果、自然は人間と敵対するものになったと創世記3章は語ります。罪を犯したアダムに神は言われます「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる・・・お前は顔に汗を流してパンを得る」(3:17-19)。ここに生かされて生きる人間ではなく、自分の力で自然を支配しようとする人間が生まれ、アダムの子のカインは弟を殺し、カインの末裔から人を支配する王が生まれ、その子孫バビロン王が力で自分たちを今ここに捕らえています。

・創世記は語ります「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(1:27)。ここに「創造された(バーラー)」という言葉が3回も用いられています。人こそが神の創造の目的だったのです。そして神は人を祝福して言われます「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(1:28)。すべての人々は神の祝福の中に生まれてきます。罪を犯し、他国の捕虜となっているイスラエルも神の祝福の中にあり、親が望まない形で生まれてきた人もまた、神の祝福の中にあります。私たちがどのような状況にあっても、神は私たちの存在を肯定しておられる、創世記はそう述べます。すべての人は存在することにより、肯定されている。男も女も、大人も子供も、健常者も障害者もまた、神の肯定の中にあるのです。創世記は私たちに、神は人を「良し」として創造され、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福された事を教えます。

・神はご自分の形に私たちを創造されました。「神の形」とは人格を持つ存在として、人が創造されたことを意味します。人は、神が語りかけられ、それに応えうる存在として造られました。神と私たちの間には、「私とあなた」という人格関係が成立しています。植物や動物は「あなた」ではなく、「それ」、ものに過ぎません。その中で人間だけが創造主と「私とあなたの関係」に入ることが許されています。イスラエル人は捕囚の地で、人間以下の「それ」という奴隷の状態にありました。敗残者として卑しめられ、もののように扱われていた。その中で、神は自分たちを「あなた」と呼んで下さる。そのことの中に、現実の「それ」という関係が、やがて「あなた」という関係に変えられる望みを、イスラエルは見たのです。だから、私たちも現実の闇にもかかわらず、希望を持つことが出来ます。

 

3.創造の完成としての7日目

 

・創世記1章は2章4節前半まで続いています。そこでは神は六日間で創造の仕事をなされ、七日目に休まれたとあります「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(2:1-3)。七日目に休む、ここに安息日の起源があります。神が六日働いて七日目は休まれた故に、私たちも月曜日から土曜日まで六日間働き、七日目の安息日は聖なる日として礼拝に参加します。

・今日の招詞に出エジプト記20:8-11を選びました。次のような言葉です。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない・・・六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。創世記はバビロン捕囚を経験したイスラエルの民が、国の滅亡、捕囚という裁きを通して自分たちの罪を見つめ、悔い改めを文書化した資料です。異国の地に捕囚となった多くの民族はやがて滅びましたが、その中でイスラエルは生き残り、今日までユダヤ人として彼らの信仰を保持しています。それが可能だったのは、彼らが契約のしるしとして身に帯びた割礼と、この安息日の順守だったといわれています。

・七日目に礼拝所(シナゴーク)に集められることを通して、彼らは民族として生き残りました。その安息日の根拠を彼らは創世記2:3の天地創造に求めました。人間は神の赦しの中にあります。捕囚の民は自分たちの罪の赦しを求めて、創世記を記述しました。その創造の初めでは、人間は穀物と果物だけを食べて生きるように創造されたとあります。「神は言われた『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう』。そのようになった」。動物の命を奪って食べる肉食が許されたのは、ノアの洪水後のことであったと創世記は記します「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。私はこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」(9:3)。

・ノアの洪水という人類の裁きの後で神は言われます「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。私は、このたびしたように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」(8:21)。罪ある存在を罪あるままで受け入れられた神の許しの中で自分たちは生きている。だから神は私たちに肉食という罪を許されたという捕囚の民の理解がここにあります。私たちは週に一度聖別された安息日に神の前に出て、罪あるままに生きることを許されていることを感謝する。それが私たちの行う礼拝です。

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