1.偶像に供えられた肉がなぜそんなに問題なのか
・コリント書を読んでおります。今日は10章を読みますが、パウロはここで8章にて取り上げた「偶像に供えられた肉を食べても良いのか」という問題を再び、取り上げます。コリントを含めたギリシア・ローマ世界には多くの神殿があり、神殿では毎日動物の犠牲が捧げられ、その肉の多くは市場に払い下げられ、人々はそれを食べていました。つまり、当時流通していた食肉の多くは「神殿の偶像に供えられた肉」であり、一部のキリスト者はその肉を食べることは、エルサレム教会が禁止していた「偶像礼拝」に当たるのではないかと懸念していました。ユダヤ人は律法の規定により、豚肉や異教の神殿に捧げられた動物の肉等は汚れたものとして食べることを禁じられていたのです。最初の教会の構成員はほとんどユダヤ人でしたので、この食物規定は特に大きな問題にはなりませんでしたが、教会がギリシア・ローマ世界に広がるにつれて、そのような食物規定を持たない異邦人信徒の間で、「神殿に捧げられた肉を食べても良いのか」どうかが、教会を二分する問題になっていきます。そのためエルサレムで使徒会議が開かれ、異邦人も「偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるよう」(使徒15:20)決定され、エルサレム教会の名で、「偶像に供えられた肉は食べてはいけない」と諸教会に通知が出されていたのです。
・コリントにはギリシアやローマの神々を祭った多くの神殿があり、人々は結婚式等のお祝い等を神殿で行い、付属の飲食施設で酒食が振舞われるのが日常でした。また市の公式行事も神殿で行われました。上流階級の異邦人信徒たちは、そのような食事に招待されることがしばしばありました。そのような時、キリスト者は信仰のゆえに招待を断るべきか、しかし断れば、社会生活から締め出されてしまうという問題に直面しました。教会の中の裕福な人たちは、問題を解決するために、自由を主張しました「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」、だから「神殿に捧げられた肉を食べてもなんら汚れない」(8:4)。パウロも彼らの主張を認め、「その通り、食べてもかまわない」とコリント教会に回答します。しかし同時に、「食べることを罪だと考える人がいることをどう思うか」と問いかけます。それが8章の主題でした。その問題をここ10章では、聖餐式との関係で論じています。
・聖餐式(バプテスト教会では主の晩餐式)は、イエスが弟子たちと取られた最後の晩餐を記念する礼典として、初代教会で行われていました。そこにおいてはパンとぶどう酒がキリストの体と血を象徴するものとして用いられ、それらを食し、飲むことによってキリストと一体となると理解されていました。パウロは語ります「私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(10:16-17)。この聖餐式は英語ではCommunionと呼ばれますが、元々はギリシア語コイノニア(交わり)がラテン語コムニオになり、英語のコミュニオンになったものです。そして原語のコイノニアという言葉は、当時のギリシア世界では「神との交わり」の意味で用いられていました。
・つまり、異教の神殿で異教の神々に捧げられた肉を食べることは、世の人々からは「異教の神々と交わることと理解されている。それをキリスト者であるあなた方が行って良いのか」とパウロは語るのです。それが18節以下の言葉になります「肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか」(10:18)。パウロは続けます「私は何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか」(10:19)。偶像そのものには何の意味もない。「世の中に偶像の神などはいない」、だから「神殿に捧げられた肉を食べてもなんら汚れない」とコリント教会の人々は考えていました。パウロもその点には同意します。しかしキリスト者が異教の神殿で催される偶像の祭儀にあずかり、偶像の神に捧げられた動物の肉を食べ、その神と血縁の交わりを結ぶ血としての酒を飲むことは、その偶像の背後にある「悪霊の支配」を認めることであり、キリストを裏切る行為ではないかとパウロは語るのです。パウロは異教の偶像の背後に悪霊が存在すると考えています「私が言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。私は、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません」(10:20)。
2.悪霊はいるのか
・当時ギリシア・ローマ世界で拝まれていた神は、豊穣の神、戦争の神、海と嵐の神、愛と美の神、等々でした。つまり食物が豊かに生産され、戦争に勝利し、航海が安全であり、子供たちに恵まれるようにとの人間の願いが擬人化されていた神々だったのです。ここに偶像の本質、つまり「人間の欲望の神格化」があり、パウロはそれを、天地を創造し世界を支配する唯一の神を否定する悪霊と呼んでいたのです。「神ではなく、人間を拝む」、それが偶像礼拝の本質です。この構造は現代日本でも同じです。伊勢神宮は天皇の祖先である天照大御神を祭り、靖国神社は天皇のために死んだ兵士の霊を祀る場所です。ギリシア・ローマの神々への礼拝がその後「神である皇帝を拝め」に変わっていったように、日本における偶像礼拝も「天皇を神として拝め」という天皇礼拝に発展して生きました。神殿や神社は人間を支配し神を否定する悪霊の支配する場なのです。だからテモテ書では「終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます」と警告されています(1テモテ4:1)。
・問題は悪霊が神殿や神社以外の場所にもいることです。今から20数年前、ユーゴスラヴィアで内戦が起こり、連邦を形成する各民族が独立を目指して、10年間に渡って内戦状態になりました。ユーゴでは、違う民族が長い間、共に暮らしていましたが、ソ連崩壊に伴う民族主義の高まりの中で、ある日、指導者たちが「私たちは誇り高いセルビア人で、隣にいるのは憎むべきイスラム教徒である」と叫び始めると、その声に踊らされて人々が殺し合いを始めました。同じような出来事がルワンダでもインドネシアでも起きています。何故、人々は隣人と殺し合うのでしょうか。何が人間を狂おしいほど残虐にするのでしょうか。聖書はそれを「悪霊」の故と言います。
・ルカ8:32-36に悪霊が乗り移った数千頭の豚が湖になだれ込み、溺死する物語が記されています。そのルカの記事を冒頭に掲げた作品が、ドストエフスキーの小説「悪霊」です。ドストエフスキーは、無政府主義や無神論に走り、秘密結社を組織した青年たちが革命を企てながら、リンチ殺人を繰り返し、自らを滅ぼして行くさまを、悪霊にとりつかれて湖に飛びこみ、溺死したという豚の群の中に見たのです。現代の私たちの中にも自分で制御できない悪霊がいるのではないかと思えます。2008年に秋葉原で一人の青年が17人を殺傷するという事件が起こりました。犯人は「社会に怒りを感じ、人を殺したかった。誰でもよかった」と言っています。普通の人がある日突然爆発し、包丁を持って人を刺し、「殺してみたかった」と告白します。普通の人が同級生に「死ね」と暴言を吐き、同級生がそのいじめで自殺するという事件も起きています。学校の教師は「感情が制御できない生徒が増えている」と感じています。悪霊とは、私たちの心の中にある罪あるいは悪い思いが擬人化されたものではないかと思います。その意味で、今日でも悪霊との戦いは大事なことです。パウロは語ります「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません」(10:21)。だからこそキリスト者は、悪霊を祀るとしか思えない靖国神社国営化の動きにあくまでも反対していくのです。
3.人のつまずきにならないように
・今日の招詞として1コリント10:32-33を選びました。次のような言葉です「ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。私も、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから」。パウロは偶像に捧げられた肉を食べることの議論を10章後半でも続けます。パウロの態度ははっきりしています「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」(10:25)。何でも食べてもよいが、誰かが「これは偶像に供えられた肉だ」と言う場合は、その人の良心のために、食べることを止めなさいと勧めます(10:28)。「人を惑わす原因にならないように」です。
・仏式の葬儀に参加して焼香することは偶像礼拝でなんでもありません。それは死者を悼む儀礼です。しかし、そのことによってつまずく人がいるのであれば、焼香はやめたほうが良い。子どもが生まれてお宮参りに行くのは日本の風習です。夫婦双方がキリスト者であればそうしないでしょうが、片方が信徒でない場合、儀礼上行かざるを得ない場合も出てきます。その場合は行っても構わない、偶像の神などいないからです。しかしそのことでつまずく人がいればどうするのか、難しい問題です。キリシタン禁制時代に用いられた踏み絵を踏むかどうかも、同じ問題を抱えています。踏み絵そのものは板に聖母子を描いたメダルを組み込んだもので、それ自体何の意味もありません。踏んでも構わない。しかし、現実には踏み絵を踏んだ人々の信仰は崩れました。それは人の前で、自分の最も大事に思うものを踏みつけにする、つまり自己の信仰告白を偽りと表明する行為だったからです。
・パウロは語りました「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」(10:23-24)。キリスト者は全ての事に自由です。しかし、その自由はキリストの十字架の犠牲を通して与えられました。そのキリストは他者のために死なれた。ですから、他者への愛が自由を制限します。そのような自由の中で神の栄光を現すために私たちは生きます。最後にパウロの言葉を覚えましょう「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(10:31)。