江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年7月20日説教(ローマ13:1-10、愛は隣人に悪を行わない)

投稿日:2014年7月20日 更新日:

1.ローマ13章を巡る議論

・紀元56-57年ごろ、パウロはローマ教会に当てて手紙を書きました。今礼拝の中で読んでおりますローマ書です。やがて、この手紙は正典の一部となり、権威を持つようになります。パウロは手紙の中で次のように語りました「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(13:1)。初代教会はイエスの「剣を取る者はみな剣で滅びる」(マタイ26:52)という教えを基礎に、キリスト者が兵士になるのを禁じますが、やがてキリスト教がローマ帝国の国教になると、教会はこのローマ13章を基に、キリスト者も国家の命じる戦争には従うべきだとの「聖戦論」を展開するようになります。その後、ローマ13章は宗教改革時において、ルターとミュンツアーの間で農民戦争をめぐって論争された時の双方の根拠とされ(ルターは従うことを強調し、ミュンツアーは改革を強調する)、1930年代のドイツにおいても、ナチス政権の正当性をめぐるルター派教会とバルトを中心とする告白教会の論争においても中心テーマとなります。ローマ13章は教会と国家の問題を論じる上での論争の書になっていきました。今日はこの論争を概観しながら、では現代の私たちはこの書からどのようなメッセージをいただくのかを考えてみます。
・パウロはローマ帝国の首都にいるキリスト者たちに手紙を書き、その中で「上に立つ権威に従う」ように勧めます。ここでパウロは主にある服従を勧めています「あなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(12:18)。平和に暮らすとはなにか、具体的には良き市民として暮らすことだとパウロは語ります「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(13:7)。これはイエスの教えを継承すると同時に、終末時にある神の民としての生き方を教えたものです。ところが、パウロがローマ13章を書いてから、数年もしないうちに、ローマの信徒たちは、最初の迫害にあいます。皇帝ネロによるキリスト教徒の迫害です。U.ヴィルケンスは、ローマ13章の注解(EKK聖書注解)の中で語ります「パウロは『神の奉公人である』である国家権力に服従することを彼等の良心の義務にしていたが、まさにその『国家権力』が、キリスト者たちを『生ける松明』として、町外れで火あぶりの刑に処することを命じたのである」。
・パウロ自身も迫害の中で殉教し、以降200間、教会は迫害の下に置かれました。それにもかかわらず、「進んで服従せよとのローマ書の勧めが、殉教者に満ちた教会の中で、中心的な意義を持ち続けた」とヴルケンスは分析します。しかし、度重なる迫害の中で、当然に異論が出てきます「ただ殺されることを神は求めておられるのか、違うのではないか」。教会はローマ13章の服従要求はペテロの留保条項(使徒5:29「人に従うよりは神に従うべきである」)により制限されていると考え始めます。つまり、官憲が信仰からの離反を図る場合には、キリスト者は抵抗しなければならないとの考え方です。ところが、コンスタンティノス帝によるキリスト教公認(紀元313年)は、ローマ13章の解釈を根本的に変えていきます。教会は、「全てのキリスト者は自分たちの政府に従うべきであり、国家の秩序を守るためであれば死刑も戦争も許される」と肯定するようになります。
・宗教改革者ルターも国家による秩序維持について、従来の考え方を継承しました。そのため近代に至っても、ローマ13章は国家に対するキリスト者のあり方の基本テキストとして用いられていきます。ローマ13章の解釈が大きく揺らいだのは、1933年にナチスがドイツの政権につき、官憲として服従を要求した時です。多くの教会はルターの立場を継承し、ヒトラー政権を神の権威の基に成立した合法的政権として受け入れて行きますが、その中で、カール・バルトを中心とした改革派教会は「政府が神の委託に正しく応えていない場合、キリスト者は良心を持って抵抗すべきである」ことを主張し、ナチスとの武力を含めた戦いを始めます。
・私たちキリスト者は社会の中で生きます。その時、キリスト者は国家に対してどのようにあるべきか、また国家が戦争に参加するように求めた時、どうすべきかが問われる場合が出てきます。戦前の日本では信仰者も徴兵され、イエスが「殺すな」と語られている中で、殺すことを義務付けられ、兵役拒否者は非国民として投獄されていった歴史があります。現在のアメリカでは多くのキリスト者がアフガニスタンやイラクで兵士として徴兵され、死んで行っています。国家に対してどのように向き合うのかは大事な問題です。

2.ローマ書は何故従うことを求めているのか

・では、ローマ13章は国家に対する服従や抵抗を教えているのでしょうか。聖書の言葉は、ある言葉だけを取り出した場合、恣意的に読まれる危険性があります。つまり、自分の思想や価値観の裏付けのために聖書が引用されるのです。その過ちを防ぐためには、聖書は全体文脈の中で読むべきです。ローマ書においては12-13章が一つの文章群になっており、パウロは「キリスト者のあるべき生き方」をいろいろな角度から教えています。直前の12章では、パウロは、キリストに召された者として、世の人々と平和に暮らすことを勧めています「すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(12:18-19)。直後の13章8節後半でも、パウロは「人々と争うな」と勧めます「愛は隣人に悪を行いません」(13:10)。
・このような文脈の中で「この世の秩序維持のためであれば戦争も含めた悪にも従いなさい」という考えは出て来ません。パウロは、イエスが言われた従属の教えをここで考えています「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マルコ12:17)。キリスト者は良心の故に世の秩序に服従し、そのために貢や税や労役も世に支払います「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(13:7)。同時に神のものは神に納めます。だから、パウロは言います「世に倣ってはいけない・・・何が神の御心であり、何が良いことで、神に喜ばれ、また完全であるかをわきまえなさい」(12:2)。
・ローマ13章を当時の時代背景の中で考えれば、パウロは「ローマ皇帝が信仰を捨てよと命令しても、それを拒否しなさい。しかし報復として殺すということであれば、それは受容しなさい」とローマの信徒に勧めているのです。このように見てくると、ローマ13章でパウロは政府に対する絶対服従を教え、キリスト者も政府の命じる戦争には市民として参加せよと教えているのではないことは明らかです。聖書は例え、国家によって命じられた戦争にあっても人を殺すことが正当であるとは言いません。また逆に、戦争を起こすような政府は神の委託に反しているから、これに従うなとも言いません。聖書が語るのは「悪の権化と思えるローマ皇帝もあなたの隣人として愛しなさい」と言うことです。当時のローマ皇帝は迫害者ネロでした。そのネロを隣人として愛しなさい。悪には善を持って立ち向かえとパウロは語ります「悪に対して悪を返すな。悪は神が裁いて下さる。その神の裁きに委ねよ」。

3.あなたが隣人になりなさい

・今日の招詞にルカ10:36-37を選びました。有名な「良きサマリヤ人の譬え」の一節です。「『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか』。律法の専門家は言った『その人を助けた人です』。そこで、イエスは言われた『行って、あなたも同じようにしなさい』」。この言葉は律法学者との問答の中で言われています。律法学者はイエスに問います「何をしたら永遠の命を受け継ぐことが出来るのでしょうか」。イエスは「隣人を自分のように愛しなさい」と答えられます。律法学者は更に問います「私の隣人とは誰ですか」。それに対してイエスは「良きサマリヤ人の譬え」を話され、強盗に襲われた旅人を助けたのは、同胞のユダヤ人ではなく、敵として嫌われていたサマリヤ人であったことを述べられ、あなたもこのサマリヤ人のように敵を愛しなさいと言われました。自分の最も嫌いな人、憎む人こそが神があなたに与えた隣人であり、「あなたがその人の隣人になりなさい」と教えられたのです。
・ローマ13章の文脈の中で読めば、ローマ皇帝がどのような悪逆な人であっても、例えネロ帝のような人であっても、彼を愛し、彼のために祈り、彼を隣人にしなさいということです。イエスは山上の説教の中で言われました「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」(マタイ 5:46-48)。
・私たちは、隣人とは自分を愛してくれる人、自分の兄弟姉妹だと思っています。しかし、聖書が教えるのは、隣人とは自分を憎む人、自分に危害を加える人です。「そういう人とは隣人になれない」と私たちは抵抗しますが、イエスはその私たちに問われます「あなたの信仰はどこにあるのだ」。私たちの周りには、私たちの悪口を言う人、言われなき攻撃をする人が必ずいます。私たちはその人たちが嫌いです。しかし、その嫌いな人にためにキリストは死なれた。その嫌いな人を愛することが神を愛することだと告げられます。「イエスが罪にあるあなたのために死んでくれたから、あなたは新しい命をもらったではないか。それなのに何故嫌いな人のために死ねないのか。パウロはあのネロをさえ隣人として愛せと書いたではないか」。隣人が私たちに悪を働いても報復するな、裁くのは神であって私たちではない。私たちがするべきは自分を憎む者のために祈ることです。その祈りを通して、その人は隣人になっていく。「神の力を信じ通せ、殺されても信じ通せ」、そう命じられています。聖書の教える生き方は理性的に納得できるものではありません。それは信仰を持って従えと語られるものなのです。

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