江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年1月12日説教(ヨハネ6:24-35、命のパン)

投稿日:2014年1月12日 更新日:

1.5千人の養いの後で

・ヨハネ福音書を読んでおります。ヨハネは他の福音書とは異なり、物語そのものよりも、物語の意味を探求する福音書です。例えば、イエスが5つのパンと2匹の魚で5千人を養われた「パンの奇跡」は有名で、4福音書全てに記事が載っています。他の福音書では記事は物語を説明する比較的小さなものですが、ヨハネではこれが6章全体に及ぶ長い物語となっています。物語そのものは15節で終りますが、この奇跡がどのような意味(しるし)を持っているのかが22節以降で詳しく展開されます。
・今日の聖書箇所は物語に続く説話場面ですが、最初に物語を手短に振り返ります。イエスの話を聞くために多くの人々が集まり、夕暮れになったため、弟子たちは食事の心配をします。ヨハネはそこに「男だけで5千人」(6:10)いたと述べており、女や子どもを入れると1万人以上の人がそこにいました。弟子たちは困惑します。弟子の一人フィリポは言います「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(6:7)。1デナリオンを1万円とすれば、200万円分のパンがあっても足りないという嘆きです。その時、アンデレがイエスに言います。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(6:9)。一人の少年が見かねて、自分の持っているものを差し出したのでしょう。しかし、1万人の人の前ではあまりにも少なすぎます。
・しかしイエスはその僅かなものを用いられます。イエスは天を仰いで感謝してパンを分けられ、そのパンは十分な量に増えました。おそらくは子供が自分のパンをみんなのために差し出したのを見て、他の人々も心動かされ、それぞれが持っているパンを差し出し、みんなが食べることが出来たのでしょう。たとえ僅かなものであっても、私たちが喜んで差し出した時、イエスによって祝福され、わずかなものが10倍にも100倍にもなることをヨハネは物語ります。これは人々にとって初めての体験でした。ヨハネは記します「人々はイエスのなさったしるしを見て『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った」(6:14)。みんなの心が一つになった時、奇跡が起きます。当時の人々は食べるものにも事欠いていました。その人々の面前で、イエスは奇跡を起こされ、群集は感激して、イエスを王にしようと迫ります(6:15)。イエスは彼らを避けて対岸のカペナウムに戻られますが、群集はイエスを追ってカペナウムまで来ました(6:24)。
・人々はイエスを見つけ出して言います「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」(6:25)。「先生、何故私たちを避けられるのか」、人々の言葉の中には思い通りにならないイエスへの苛立ちがあります。その人々にイエスは言われます「あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(6:26)。人々はパンを与えたイエスを追いかけて来ましたが、それはもっとパンが欲しいからです。だからイエスは言われます「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(6:27)。人々はイエスが行われた奇跡の中に、しるし(神の働き)を見ていません。

2.命のパンとは何か

・イエスは「永遠の命に至る食べ物」を求めなさいと言われました。原語を直訳しますと「食べてもなくならない永遠の命に至る食べ物」とあります。何のことかわかりません。民衆は問い直します「それは私たちの先祖に与えられた天からのマナのことですか」(6:31)。かつてイスラエルの民はモーセに導かれて、エジプトを脱出し、約束の国へ向かいましたが、その途上で民が導かれたのは荒野でした。荒野で食べ物が無くなった時、神は民に、「マナ」と呼ばれる食べ物を与えられました。出エジプト記によりますと、マナは「荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすい」(出エジプト記16:14)ものであり、人々は「歩き回って拾い集め、臼で粉にひくか、鉢ですりつぶし、鍋で煮て、菓子にした」(民数記11:8)とあります。荒野における自然の産物であり、食べて荒野の旅を生き残った人々は、それを神から与えられたパンとして記憶していました。「このようなパンを私たちに下さるのですか」と人々はイエスに問いかけたのです。
・それに対してイエスは答えられます「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、私の父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(6:32-33)。「あなた方の先祖にパンを与えたのはモーセではなく、父なる神だ。そして神は今マナに勝るパンをあなた方に与えようとしておられる」とイエスは言われました。飢餓に直面していた民衆は感激して言います「主よ、そのパンをいつも私たちにください」(6:34)。イエスがマナに代るパンを与えると約束してくれたと人々は勘違いしたのです。イエスは彼らの勘違いを訂正されます。イエスは言われます「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(6:35)。
・人々はがっかりします。彼らが求めたのは見えるパン、毎日を生かすパンだったのに、イエスが与えようとされているのは「見えないパン、霊の糧」です。「そんなものはいらない」、人々は拒絶します。「私が命のパンである」という言葉を原典のギリシャ語を見ると「エゴーエイミー(私は・・・である)、ホ・アルトス(そのパン)、テ・ゾーエー(命の)」です。問題にされている命は「ゾーエー」としての命です。ゾーエーは魂の命、人格的な命を指します。人間が生きるには生きがいが必要です。誰かに必要とされている、誰かが自分のことを気にかけてくれると思うから生きていけます。老人ホームに入居した人々が、衣食住に不自由がないのに、いつの間にかホームを牢獄のように思うようになることがありますが、それは生きがいの喪失から来ます。「生きていてもしょうがない」という時、動物としての命は生きていても、人格としての命は死んでいるのです。
・群衆は肉の命を養うための地上のパンを求めました。イエスは地上のパンは父なる神が与えて下さるから、もっと大事なもの、命のパンを求めよと言われました。群集は納得しません。そして、私たちも納得しません。地上のパンは神が与えてくださることを信じていないからです。だから、地上の命を支えるためのパンやお金を獲得するために私たちは忙しく生きています。しかし、地上のパンだけを追求して生きる時、本当に必要なもの、魂のパンを失うのだとイエスは言われているのです。

3.神が養われることを知ることこそ福音だ

・今日の招詞にマタイ4:4を選びました。次のような言葉です「イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」。イエスが荒野で誘惑者にお答えになった言葉です。イエスは宣教の始めにバプテスマを受けられ、その時、天が開いて声が聞こえたとマタイは記します「これは私の愛する子、私の心にかなう者」(マタイ3:17)。イエスが、自分が神の子として世に遣わされたことを自覚されたのはこの時でした。神の子として何をすれば良いのか、それを聞くためにイエスは荒野で40日間断食されます。空腹が絶頂に達した時に、声が聞こえます「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4:3)。イエスの内面から来る声であったのでしょう。声はささやきます。「多くの人はパンが無くて飢えている。石をパンに変えれば、みんなが食べられるではないか。それが神の子の使命ではないか」。多くの人が飢えていることをイエスは知っておられました。
・ガリラヤは豊かな土地、乳と蜜の流れる国でした。みんなが食べるだけの穀物を生産する土地の豊かさを持ちます。しかし、金持ちが土地を買占め、農民は土地を奪われて小作農となり、平常でもやっと食べることの出来るぎりぎりの生活に追い込まれていました。多くの人がパンを食べることの出来ないのは、天災ではなく人災であり、従って、今日のパンを与えても明日はまたパンがなくなります。根本的な問題を解決しない限り、石をパンに変えても、問題は解決しません。だからイエスは招詞の言葉を語られました。
・「人はパンだけで生きるのではない」、人はパンがなくても生きることが出来るという意味ではありません。生きるためにパンが必要なことは神はご存知で、父が肉の糧は与えて下さるから、あなたたちは人間として生きるために、もっと大事なもの、霊の糧を求めよとイエスは言われたのです。しかし、人は反論します「人はパンがないと生きることは出来ない。だから、まずパンが欲しいのだ」。まず、パンが必要なのだと思う時、生きるためのあらゆる行為は正当化されます。私たちは言います「この社会は生存競争なのだ。勝たなければパンを食べることは出来ないのだ」。その戦いに勝ってパンを食べても、すぐに空腹になります。石をパンに変えても、何も生まれないのです。
・イエスの言葉は、私たちに生き方の見直しを迫ります。人はパンなしでは生きていくことが出来ません。私たちはパンを求めて、毎日働きますが、いつのまにか人生の大半が、「パンを獲得する」ことに費やされ、本当に必要な霊の糧を忘れてしまっているとの問いかけです。人間を人間にするのは、獲得した給料の多さや地位の高さ、成し遂げた業績ではありません。私たちはお金をかけて子どもたちを教育し、長い年月をかけて住宅ローンの支払いを行います。そして子どもの教育を終え、家を準備し、老後を迎えてしばらくの時を過ごすと、やがて死が迫ります。このような人生で良いのか、何かが欠けているのではないかと聖書は私たちに問いかけます。
・最後にD.ボンヘッファーの言葉を紹介します。「われわれが、われわれのパンを一緒に食べている限り、われわれは極めて僅かのものでも満ち足りるのである。誰かが自分のパンを、自分のためだけに取っておこうとする時に、初めて飢えが始まる。これは不思議な神の律法である。二匹の魚と五つのパンで五千人を養ったという福音書の奇跡物語は、他の多くの意味と並んで、このような意味を持っているのではないか」(「共に生きる生活」から)。この社会は「誰かが自分のパンを、自分のためだけに取っておこうとする」社会です。そのような社会の中で教会は、「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」(12:24)というイエスの言葉を聴いていきます。

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