1.罪の赦し
・ローマ書を読み続けています。今日はローマ6章を読みます。パウロは5章で「救いとは罪が赦されて、神と和解し、神の平和の中に生きることだ」と述べました(5:1-2)。世の人は自分の功績を積むことによって、他の人から認められ、安心を得ようとします。しかし、他の人が認めてくれないとその平和は崩れます。そのような人に左右される平和ではなく、本当の平和、「神との平和」を求めよとパウロは言います。その平和は神からの無条件の赦しとして与えられます。ユダヤ人は「人は律法を守ることによって救われる」として、異邦人キリスト者にも律法を守るように勧めていましたが、それは間違っているとパウロは語りました「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(5:20)。律法の役割は人に罪が何かを知らせることではあり、それ以上ではないと。
・このパウロの意見に対して、ローマ教会内のユダヤ人キリスト者は反論します「律法、戒めがないとしたら、人はいくらでも罪を犯すことが出来るではないか。律法があるからこそ、人は悪い行為を思い留まることが出来る」。それが6:1で展開されている論理です「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中に留まるべきだろうか」。律法は当時のユダヤ人を規制していた法です。今日で言えば法律になります。刑法に罪刑法定主義という考えがあります。法律なしには人は罰せられない、つまり「してはいけない」という法があってそれを破った者を罰することによって、社会の秩序は維持され、外からの規制がないと人間社会は全くの無秩序になるという考え方です。ユダヤ人信徒は、だからこそ律法なしには、人の世の秩序は保てないと主張しました。
・それに対してパウロは「それは違う」と反論します。それが6:2です「決してそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょうか」。キリストが私たちのために死んでくださった、そのことがわかった時に、私たちも共に死ぬのだ、「死んだ者は罪から解放されている」(6:7)ではないかとパウロは言うのです。死んだ者はもう罪を犯すことができなくなっている。罪を犯せない存在にされたのであれば、もう「してはいけない」という律法は不要になったのだと。この罪からの解放を象徴する行為がバプテスマ(洗礼)です。
・パウロは言います「私たちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」(6:4)。「新しい命に生きる」、原文では「新しい命に歩む」とあります。キリストと共に死んだ者はもう以前のような歩み方は出来ないとパウロは語ります。放蕩息子の喩えを考えてみれば、パウロが何を言いたいのか明瞭です。財産を使い果たして帰郷した息子を父親は無条件で赦し、迎え入れます。このような赦しを体験した者はもう以前のような生き方は出来ないのです。だからパウロは語ります「私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」(6:5)。
・バプテスマの語源はバプテゾー(浸す)です。水の中に沈む時、キリストと共に古き自分に死に、水から出る時キリストと共に復活する。バプテスマを通して、私たちはこの世に死に、キリストにあって生きる者となります。この世に対して死んだ者が以前と同じ生活を続けられるだろうか、出来るはずが無いではないかとパウロは言います。「私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています」(6:6-7)。
・しかし現実には、水のバプテスマを受けても、私たちの日常生活は前と変わりません。世の人々は言います「バプテスマを受けて何が変わったのか。あなたのどこが救われたのか」。バプテスマを受けて私たちは罪から解放されたはずなのに、現実には罪を犯し続けていきます。罪はまだまだ私たちを支配しています。ここで焦点になるのは、水のバプテスマを受けただけでは不十分であるということです。水のバプテスマを受け、罪が赦された後、私たちは同じ状態のままでいてはいけない。罪の赦しは聖化、あるいは潔めを伴わなければいけない。あるがままで良いのではなく、変わらなければいけないのです。前に話しましたように、水のバプテスマは神の恵みへの人間の応答であり、救済の第一歩です。しかし、本当のバプテスマとは、やがて与えられる「霊のバプテスマ」です。この霊のバプテスマをいただくために、私たちはキリスト者として歩み続けるのです。
2.赦しから潔めへ
・私たちは罪を赦されました。しかし、体は元のままです。だから肉の欲はなお私たちを襲います。しかし、キリストが肉の欲に勝たれたように、私たちも既に勝利の中にあります。だから、「肉の欲と戦いなさい」とパウロは述べます「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」(6:12-13)。ルターは言いました「聖者も肉の中に悪しき欲望をもっている。けれども彼らはこれに従わない」。聖者だから食欲や性欲がなくなるわけではありません。妬みや物欲もあるでしょう。聖者も人間であり、彼らの中にも悪しき欲望は働いています。けれども、「彼らは悪の支配に自分の命を賭けない」、自分の中にある悪と戦う、そこに聖者の聖者たるゆえんがあります。
・私たちは「土の器」(2コリント4:7)です。土だから脆い、しかしこの器にはキリストという宝が入っています。かつては罪の支配の中にあったが、今は聖別され、新しい生が与えられた。そうであればキリストにふさわしい者として生きなさいとパウロは教えます。しかし聖化=潔くなるとは禁欲することではありません。戒めを守る生活をすることが「潔い生活」ではありません。何故ならば「罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」(6:14)。もう私たちの聖化は始まっている、私たちはもう「~しなさい」、「~してはいけない」という律法の下にいるのではなく、恵みの下にある。私たちが為すべきことはこの恵みを受け続けて行くことです。その時、神が私たちを少しずつ潔い存在へと変えて下さり、時が満ちて「霊のバプテスマ」が与えられる。そのことを信じて行くのです。
3.キリストにふさわしい者として生きる
・今日の招詞にヨハネ3:3を選びました。次のような言葉です「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」。ある時、律法の教師ニコデモがイエスの元を訪れました。ニコデモはファリサイ派に属し、聖書に精通し、律法を厳格に守ってきた教師でした。また最高法院の議員として人々の尊敬も集めてきました。家柄が良く、また裕福でもあったと思われます。熱心に神の道を求め、社会的にも尊敬され、生活にも何不自由はなかったはずです。しかし、お金があっても、人から尊敬されていても、何かが足りないと考えていたのでしょう。「このままで良いのだろうか」、「自分は何のために生きているのだろうか」。多くの疑問がニコデモの中にありました。だから、イエスのもとを訪れます。
・しかし彼がイエスを訪れたのは、夜でした。律法の教師であり議員である者が、ユダヤ教当局から問題視されているイエスを公然と昼間に訪れるわけにはいかない。だから、人目を忍んで、夜に訪ねました。イエスはそのようなニコデモの態度を見て、彼の問題がわかり、すぐさま言われます。「あなたは現在の地位と財産を持ったままで救われたいと望んでいるが、それは無理だ。今持っているものを捨て、新しく生れなければ、神の国を見ることは出来ない」とイエスは言われました。
・ニコデモはイエスに反論します「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(3:4)。しかしイエスは言われます。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(3:5-6)。「肉から生まれたものは肉である」、人は古い自己に一旦死ぬことによって、新しく生まれることが出来るとイエスは言われたのです。そのために私たちは水のバプテスマを受けます。人は全身を水に沈められ、一度死にます。そして水から引き上げられ、新しく生きます。そしてキリスト者としての歩みを続けながら、「霊のバプテスマ」、本当の新生の時を待つのです。
・多くの人は「自分の力で生きている」と思っています。その時、信頼するのは「自己」であり、それ故「自己努力」が求められます。しかし、自己に基準を置く時、自己を超える問題にぶつかれば人生は漂流します。イエスが言われます「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(マタイ6:27)、人生は私たちの思うままにはならないのです。「人は生きているのではなく、生かされている」のです。そのことに気づいた時、人は新しく生れます。その感謝の応答として、私たちは水のバプテスマを受け、聖化の歩みが始まるのです。
・新生とは何か、今まで自分中心で生きていた人生が、神中心の、具体的には「隣人と共に生きる」あり方に変えられて行くことです。そのためには一度古い自分に死ななければなりません。イエスは語られます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(ヨハネ12:24-25)。麦は自らが死ぬことによって、地の中で壊され形を無くして行きます。そのことによって、種から芽が生え、育ち、やがて多くの実を結びます。自分の姿を残す、蒔かれずに貯蔵しておけば今は死なないでしょうが、やがて死に、後には何も残しません。イエスが十字架で死ぬことによって、そこから多くの命が生まれていきました。私たちもその命をいただいた一人です。だから私たちも、自分の形をなくして、イエスのために世に仕えていきます。それがキリスト者としての歩みなのです。