江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年5月26日説教(イザヤ37:1-7,危機の中での祈り)

投稿日:2013年5月26日 更新日:

1.エルサレム包囲の中で

・イザヤ書を読んでおります。今日の箇所はイザヤ37章ですが、イザヤ書36章~39章の記事は列王記下18章~20章とかなり重複しています。そのため、今日は、列王記の記事も参照しながら、イザヤ37章を読んでいきます。37章にあるのは紀元前701年にユダがアッシリアの攻撃を受けた時の記事です。物語は36章から始まり、時の王はヒゼキヤでした(36:1)。世界制覇を目論むアッシリアはパレスチナ諸国を軍事占領し、今はエルサレムを大軍で包囲して無条件降伏を求めています。アッシリアの将軍は言います「ヒゼキヤが、『主は我々を救い出してくださる』と言っても、惑わされるな。諸国の神々は、それぞれ自分の地をアッシリア王の手から救い出すことができたであろうか。ハマトやアルパドの神々はどこに行ったのか。セファルワイムの神々はどこに行ったのか。サマリアを私の手から救い出した神があっただろうか。これらの国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国を私の手から救い出したか。それでも主はエルサレムを私の手から救い出すと言うのか」(36:18-20)。「神に依り頼んでも無駄だ」とアッシリア王は自らの力を誇りました。ヒゼキヤはこの屈辱をイザヤに訴えます。「今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない。生ける神をののしるために、その主君アッシリアの王によって遣わされて来たラブ・シャケのすべての言葉を、あなたの神、主は恐らく聞かれたことであろう。あなたの神、主はお聞きになったその言葉をとがめられるであろう」(37:3-4)。
・それに対してイザヤは主の言葉を伝えます「主なる神はこう言われる。あなたは、アッシリアの王の従者たちが私を冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。見よ、私は彼の中に霊を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される」(37:6-7)。アッシリア軍主力はユダヤの重要拠点ラキシュを落とし、今はリブナの町を攻略しており、アッシリア王はそこから、再度の降伏勧告をユダ王に送ります。「ユダの王ヒゼキヤにこう言え。お前が依り頼んでいる神にだまされ、エルサレムはアッシリアの王の手に渡されることはない、と思ってはならない。お前はアッシリアの王たちがすべての国々を滅ぼし去るために行ったことを聞いているであろう。それでもお前だけが救い出されると言うのか」(37:10-11)。
・ヒゼキヤは怒りと屈辱の中で再び主の神殿に行き、救済を祈ります。そのヒゼキヤの祈りが37:16以下にあります「イスラエルの神、主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です・・・生ける神をののしるために人を遣わしてきたセンナケリブの言葉を聞いてください。主よ、確かにアッシリアの王たちは諸国とその国土を荒らし、その神々を火に投げ込みましたが、それらは神ではなく、木や石であって、人間が手で造ったものにすぎません・・・ 私たちの神、主よ、どうか今私たちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください」(37:16-20)。
・この祈りに神はイザヤを通して答えられます。「イスラエルの神、主はこう言われる。あなたはアッシリアの王センナケリブのことで私に祈った。主がアッシリアの王に向かって告げられた言葉はこうである・・・お前が私に向かって怒りに震え、その驕りが私の耳にまで昇ってきたために、私はお前の鼻に鉤をかけ、口に轡をはめ、お前が来た道を通って帰って行くようにする」(37:21-29)。

2.ヒゼキヤの祈りと神の救済

・その結果何が起こったかをイザヤ書は37:36以下に記します「主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。アッシリア王センナケリブは、そこをたって帰って行き、ニネベに落ち着いた」(37:36-37)。ギリシャの歴史家ヘロドトス「歴史」によれば、この時アッシリア軍にペストが発生し、多くの将兵が死に、彼らは包囲を解いて引き上げたとあります。驕るアッシリアを主が撃たれ、この時の情景を歌ったものが詩篇76編です「あなたが、餌食の山々から、光を放って力強く立たれるとき、勇敢な者も狂気のうちに眠り、戦士も手の力を振るいえなくなる。ヤコブの神よ、あなたが叱咤されると、戦車も馬も深い眠りに陥る」(詩編76:5-7)。人々はアッシリア敗退に神の働きを見ました。
・ヒゼキヤは国を守ることが出来ました。彼の信仰が国を守ったのです。しかしその信仰は、ヒゼキヤが正しく勇敢だったから与えられたのではありません。彼は最初にアッシリアが攻めて来た時は、国の全財産を差し出して命乞いをしました。イザヤ書には省略されていますが、列王記によりますと銀300キカル、金30キカルを差し出したとあります。今日の数量に直しますと、銀10トン、金1トン、まさに国の宝をみな差し出したのです(列王記下18:14-16)。このことにより、一度目の危機は救われました。しかし二度目の危機が来ました。今回は捧げ物をしようとしても差し出すものがありません。またヒゼキヤ王は前703年にはバビロニアと、前702年にはエジプトと軍事協定を結んでいますが、今回の危機には何の役にも立ちませんでした。ヒゼキヤは信仰深いから神に依り頼んで国の救済を願ったのではなく、万策尽きたため、神に求めたのです。何もないから「神に頼らざるを得ない」、ここに信仰の本質があるような気がします。他に頼るものがある時、人は神を求めません。だから人に苦難が与えられ、神以外のものに頼れない状況が与えられます。そこに苦難の意味があります。苦難の中に追い込まれ、もう自分の力ではどうしようも無くなった時、神の働きが始まる、それを知ることが「信仰」なのです。その信仰を持った人は、自分が「生かされている」ことを知り、自分の力ではどうしようもない絶望の中にあっても、希望を持ち続けることができます。人知が尽きた時にこそ、「神が働いて下さる」ことを知るからです。

3.私たちはこの物語をどう聞くのか

・今日の招詞にマタイ5:3-5を選びました。次のような言葉です「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」。イエスが山上の説教の冒頭に言われた言葉です。ここの「貧しい人々」には、ギリシャ語「プトーコス」という言葉が用いられています。ヘブル語=アーニー(物乞い)、ダル(みすぼらしい)のギリシャ語訳で、極貧者、物乞いを意味しています。イエスは物乞いを必要とするような貧しい人々こそ幸いだと言われたのです。そしてイエスは「悲しむ人々」を祝福され(同5:4)、「義に飢え渇く人々」を祝福されました(同5:6)。何故、「貧しい」「悲しい」、「飢え渇く」、この世的に見れば災いとなる事柄を、「幸い」とイエスは言われたのでしょうか。
・山上の説教には、マタイの他にルカ版があり、ルカ版では四つの祝福の後に四つの災いが挙げられています。ルカは記します「富んでいるあなた方は不幸である」(ルカ6:24)、「満腹しているあなた方は不幸である」(同6:25)、「今笑っている人々は不幸である」(同6:25)。ルカでは、この世では幸福と定義付けられるべき、富や豊富な食物や笑いが災いの対象とされています。その理由をルカは言います「あなた方はもう慰めを受けている」(同6:24)。富んでいる者、満たされている者は、多く持つ故に神を必要としません。彼は既に慰め=拠り頼むものを持っている故に、神に叫ばず、その結果神に出会うことはない。だから不幸なのだと言われています。
・他に依り頼むものがないから神を求める、求めざるを得ない、私たちは自分一人の力では生きていけない、それを認めることが必要です。ヒゼキヤは、自国の軍隊に頼れない、エジプト軍にも頼れない、賠償金もない、何もない所まで追い詰められため、「主よ、どうか今私たちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせて下さい」という祈りを祈ることが出来、神の応答をいただきました。それに対して120年後にバビロン軍に包囲された時には切迫感がありませんでした。人々は、エルサレムに主の神殿があり、ダビデの血を引く王家がある以上、この国が滅びることはないと高をくくっていました。この「緊張感」の欠如が、「祈りの真剣さ」を欠如させ、その結果祈りが聞かれませんでした。命をかけて祈ったヒゼキヤ王の時には神が歴史に介入されてユダを守られ、真剣に祈ることをしなかった最後の王ゼデキヤの時には神は沈黙して滅びに委ねられたのです。「主の御名を呼ぶ者はみな救われる」(ヨエル3:5)、しかし呼ばない者、求めない者は救われないのです。
・私たちはこの信仰の緊張感を持って信仰生活をしているでしょうか。ユダは国を滅ぼされ、捕囚とされることを通じて、信仰の民にされていきます。その後も、ユダは再び国家を形成することなく、いつも異民族支配の中に苦しみました。自分たちの民族がいつ滅ぼされるかという緊張感こそが、ユダヤ人を信仰の民にしてきたのです。それこそが、アッシリアが滅び、バビロンが滅び、ペルシャもギリシャも滅んできた中で、ユダヤ人が滅びずに生き残ってきた理由です。緊張感がない時、私たちは、「安全はタダであり、生活の糧は自分で稼いでおり、誰の世話にもなっていない」という考えに陥りやすいものです。日本でキリスト者が少ない理由は、この緊張感の欠如、「生かされている」という意識の欠如にあるような気がします。
・同志社大学神学部の原誠氏が、「戦時下の教会の伝道−教勢と入信者」という調査レポートを書かれています。それによりますと、戦時体制のなかで国家による宗教統制が激しさを増し、キリスト教会が敵国の宗教であるとして疑いの目で見られていた1943年の受洗者は5,929名だったそうです。戦争が終わり、信教の自由が保証され、クリスチャンになっても何の咎めも無くなった時代、1998年の受洗者は1,900名でした。これは何を意味しているのでしょうか。緊張感の欠如です。戦時下のクリスチャンにあった緊張感が平和時に失われてしまったのです。私たち日本人は今、「平和ボケ」的な世に生きています。でも本当に「平和で幸福」なのでしょうか。平和で幸福な民が、年間3万人も自殺し、年間25万組の夫婦が離婚し、授かった子供の1/5である20万人は中絶され、100万人の人が鬱を患い、老人ホームに入れない待機老人が40万人を超え、住宅ローンが払えずに破綻する世帯が年間6万件もあるでしょうか。働いている人の3分の1が非正規の雇用不安の中にあって幸福になれるでしょうか。私たちの隣人は平和でも幸福でもない、多くの人が倒れている、その現実を見つめ、その人々のために真剣に祈り、行動すべき時なのです。「緊張感を持って生きる」、それが地の塩としての私たちの働きです。

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