1.富について思い悩むな
・マタイ福音書を読み進めています。今日、与えられました聖書箇所はマタイ6:25以下、「思い悩むな」です。この箇所の前には「天に宝を積みなさい」(6:19-21)、「神と富とに仕えることは出来ない」(6:24)と語られていますので、今日のテキストが「富についての思い悩み」を語っていることは明らかです。すなわち、「人生の拠り所を富に求め、それを自分の力で確保しなければならないと考えるから思い悩みが生じるであり、所有から自由になれば思い悩みもなくなる」とイエスは言われています。ほぼ同じ言葉がマタイとルカにあり、両者共通の資料(イエス語録資料Q)に依っていることは明らかです。
・イエスは弟子たちに言われます「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(6:25a)。イエスと弟子たちは福音を述べ伝えながら、ガリラヤの町や村を巡り歩いていました。宿のない日は野宿し、食べ物のない時は空腹を抱えて寝る日もあったでしょう。「今日は食べられるだろうか、今日寝るところは与えられるだろうか」、弟子たちはそのような思い悩みを抱きながら、イエスに従って歩いていたのです。その弟子たちにイエスは言われます「空の鳥をよく見なさい」(6:26a)。彼らは「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だがあなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」(6:26b)ではないかと。
・種まき、刈り入れ、倉への貯蔵は代表的な農作業を示します。農耕を始めるようになって、人は安定的に食糧を確保することが出来るようになり、やがて自分の力で食べ物を得ていると思うようになります。しかし実際の農耕においては、天候や災害の有無によって収穫が左右されますので、人間は思い悩むようになります。狩猟採取の時代にはあるものを食べる、空の鳥のような生き方でした。その時には人間が思い悩むことはなかった。「無ければ仕方がない」からです。しかし蓄えの中に将来の安心を見るようになって、思い悩みが生じました。蓄えることによって、すなわち「所有によって思い悩みが生じる」のであれば、「思い悩みからの解放」は「所有から解放」になります。しかし、人間は「所有すること」を止めることができません。所有すれば安心だと思い違いをしているからです。
・思い悩む人間にイエスは言われます「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(6:25b)。神が「命」を与えて下さったのなら、「命を生かすもの」も与えて下さるのは当然ではないか。空の鳥さえ神が養って下さるとしたら、鳥よりも価値のあるあなたがたを養われないことがあろうか。そしてイエスは言われます「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(6:27)。私たちが思い悩む時、私たちは自分の力で事態を変えることができるという前提に立っています。しかし、穀物の成長を規定するのは水と日光であり、「人間は天候を左右できない」という事実を忘れています。この人間の思い上がりが「思い悩み」を生むのです。
・26節から「野の花」が話題になっています。イエスは言われます「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない」(6:28)。働く、紡ぐ、ここでは女性の労働が暗示されています。「野の花は働きもせず、紡ぎもしないのに、あんなに見事な花を咲かせるではないか」。私たちが野の花を見る時、ただ花を見るだけです。しかしイエスはそこに神の働きを見られます。野の花のような人の目にもつかない小さなものにさえ神は配慮して下さるのに、「まして、あなた方にはなおさらではないか」(6:30)とイエスは言われます。
2.一番大事なことは何か
・私たちが思い悩むのは、配慮して下さる父なる神の働きを見ようとしないからです。神の働きを見ようとしない私たちを、イエスは「信仰の薄い者たちよ」(6:30)と言われます。私たちにも信仰はあります。ただ信じきることができないゆえに、「信仰が薄い」のです。信仰の薄い私たちにできることは祈ることだけです「信じます。信仰のない私をお助けください」(マルコ9:23)。そう祈る私たちにイエスは言われます「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(6:31-32)。異邦人(神を知らない者)は自分の力で何とかできると思うゆえに、思い悩む。しかしあなたには薄くとも信仰が与えられているではないか。そうであれば、「神が命を与えて下さったのであれば、命を養う糧を与えて下さることは当然だと知っているではないか」、それを信じるのが信仰ではないかと。
・だからあなたが求めるべきは「神の国と神の義だ」(6:33)。そうすれば「必要なものはみな加えて与えられる」とイエスは言われます。最後にイエスは締めくくられます「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(6:34)。明日何が起こるか、私たちは知りません。知らないことを思い悩んでも仕方がない。「今日、必要なものを神はお与えになった、そうであれば、明日も必要なものもお与えになるだろう。それを信じていけば良い」。「人間の出来ることには限界があり、それ以上のことは神に任せよ」とイエスは言われますが、人間は生かされていることを信じ切る事ができません。その結果、生きるための手段である衣食住が、私たちを苦しめるようになってきます。
・現代の私たちにとって、思い悩みの最たるものが、「住宅」と「老後」に顕著に現れているようにと思います。住宅は数千万円もしますから通常はローンを設定しますが、近年、住宅ローンの返済延滞による住宅競売が急増しているとのことです。不動産協会等の調べでは住宅競売は年間8万件にものぼり、従前の2倍に増えています。年間8万件、世帯人員4人とすれば、毎年30万人の人たちが購入した家を、重い負債を抱えたままで、追い出されている勘定です。「住宅ローン難民」と言われています。住宅ローンは最長35年で、その間一定収入の継続を前提にしますが、低成長が続いて所得は伸び悩み、場合によっては減り、また企業の合理化策により雇用の不安定化も進んでいます。家を持ったがために、「明日のことを思い悩まざるを得ない」状況が生まれています。
・老後の問題も深刻です。1月20日、NHKスペシャルで「老人漂流社会」が放映されました。高齢化の進展の中で80歳代、90歳代の単身世帯が急増し(500万世帯に上る)、介護する人もなく病院や施設をたらい回しにされているとの報告でした。イエスは言われました「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(6:27)。しかし医学の発達によって人間は寿命を延ばすことが出来るようになりました。日本人の平均寿命は男80歳、女86歳です。しかし、自立した生活が可能な健康寿命は男70歳、女73歳であり、平均寿命と健康寿命の差10年余が不健康期間となりました(厚労省調べ)。高寿命化は寝たきりや認知症、要介護という犠牲を伴って生まれているのです。その中で「歳をとることは罪なのか」との思い悩みが生じています。「人間は神によって死という限界を与えられている」ことを忘れたゆえに、思い悩みが生じているのではないでしょうか。
3.良いものを下さる主と共に生きる
・今日の招詞にルカ12:32を選びました。次のような言葉です「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。先に申しましたように、「思い悩むな」について、マタイとルカはほぼ同じ内容を伝えますが、結論部分は違います。マタイには「明日のことまで思い悩むな・・・その日の苦労は、その日だけで十分である」(6:34)と書かれているのに対し、ルカでは「「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12:32)という招詞の言葉が書かれています。イエスは説話の中で、「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33,ルカ12:31)と語られ、それ受けてマタイとルカが自分たちの信仰を付け加えて編集したものと考えられています。
・ルカでは「思い悩むな」という説話の前に「愚かな金持ちの譬え」が置かれています。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と』。しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」(ルカ12:16-20)。人の命が終る時、倉も穀物も財産も終ります。金持ちは自分の命が自分の支配下にあると思っていますが、命は彼の支配下にはありません。また地上の財産は命を贖うためには何の役にも立たちません。イエスは生きるのに食べ物や衣類が不要だと言われているのではありません。しかし、衣食住に囚われることを通して、最も大事な命の問題が疎かになっているのではないかと言われています。
・さらに、ルカは「思い悩むな」という説話の後に「自分の持ち物を売り払って施しなさい・・・富を天に積みなさい・・・あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」(12:33-34)という言葉を挿入しています。もちろん必要なものまで捨てることはありません。必要以上のものを持つから思い悩みが生じるのであれば、必要以上のもの、余分なものを捨てるのです。イエスが来られて「神の国」は既に始まりました。だから私たちは神の国と神の義を求めていけば、生きるために必要なものは与えられる。そして定められた時が来れば、地上の生涯を終えて天に帰る。それが生かされている者の人生であり、その時に思い悩みは無くなる。聖書は私たちにそう告げています。