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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年9月1日説教(マルコ14:1-11、イエスと出会った女性の物語)

投稿日:2013年9月1日 更新日:

1.イエスへの香油注ぎの物語

・今月から3ヶ月にわたって、聖書教育から離れ、マルコ福音書の受難物語を読んでいきます。マルコ福音書は全体が16章で構成されていますが、14章から受難週の日々の出来事が克明に語られていきます。マルティン・ケーラーという聖書学者は、マルコ福音書を「長い序文付きの受難物語」と表現しました。つまり1-13章は序文であり、本当の物語は14章から始まると理解したのです。受難物語は福音書の中心、より広く言えば新約聖書の中心とも言えます。これからの三ヶ月間、この受難物語を共に読み、イエスの十字架と復活はどのようにして起こったのか、それは私たちにどのような意味を持つのかを考えていきたいと思います。
・マルコの受難物語は、「イエスを殺す計画」と、「ベタニアでの香油注ぎ」の二つの物語で始まります。14:1-2に「イエスをどうやって捕らえて殺そうか」という祭司長たちの相談があり、14:10-11にそれに答えるように、イスカリオテのユダが、イエスを「祭司長たちに引き渡す約束をした」旨の記事があります。このイエスの逮捕・殺害という枠に挟まれて、「ベタニアでの香油注ぎ」の物語が語られます。
・イエスはガリラヤ伝道を終えてエルサレムに来られました。祭司長たちや律法学者たちは律法を軽んじ、神殿祭儀を重んじないイエスを異端者、民衆の扇動者として苦々しく見ていました。そのイエスに対する憎しみが殺意にまで変わったのが、イエスの行われた神殿粛清の出来事でした。イエスは神殿で、両替商の台や鳩を売る者の腰掛をひっくり返され、こう言われました「私の家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった」(11:17)。神殿はユダヤ人の信仰の中心であり、神聖な場所でした。その神殿のあり方を批判されたイエスを祭司長たちは許せません。マルコは記します「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」(11:18)。
・「イエスをどのようにして殺そうか」、ユダヤ当局の謀議が始まります。マルコの受難物語はその記事から始まります「過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、何とか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、『民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた」(14:1-2)。その時、12弟子の一人ユダがこの動きに内応し、イエスを引き渡すことを祭司長たちに約束します「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた」(14:10-11)。
・イエスもこのような動きがあることを感じておられ、最後の時、死の時が来たことを予感されています。そのような時に事件が起こりました。マルコは記します「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」(14:3)。異常な行為がここに描かれています。「重い皮膚病=らい病」は恐ろしい伝染病であり、それ故に神に呪われた不浄な病として、病人は人前に出ることを禁じられ、当然他者との会食等も禁じられていました。しかしイエスはあえて、らい病者シモンの招待を受けて、食事の席に着いておられます。
・その食事の席に一人の女が来て、ナルドの香油をイエスの頭に注ぎかけます。この香油はヒマラヤに生えるナルドという植物から取られるもので、この香料をオリーブ油に混ぜて使います。非常に高価ですので、通常は一滴、二滴をたらして体に塗ったり、埋葬の時に遺体や着物に塗ったりします。価格は300デナリもしたと言われています。1デナリは労働者1日分の賃金、300デナリは、今日の貨幣感覚で言えば、200万円~300万円に該当するでしょう。その高価な香油を入れた石膏の壷を女性は壊し、全てをイエスに注ぎました。壷の蓋を開けて数滴を注ぐことも出来ましたのに、女性は壷ごと壊してしまった。もう使い切るしか無い。異常な状況の中で物語が進行していきます。
・部屋の中は香油の香りで一杯になり、人々は唖然としました。異常な事態の中で、人々も興奮して言います「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」(14:4-5)。それに対してイエスは言われます「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ」(14:6)。「どのような良いことをしたのか」、イエスは言われます「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」(14:8)。イエス自身、最後の時が近づいていることを強く感じておられます。そのような時、一人の女性がナルドの香油を入れた壷を持ってきて、壷を壊し、香油全てをイエスの頭に注ぎかけたのです。自分の死を前に、この女性は葬りの準備をしてくれた。イエスはそう思い、この女性の行為を感謝しました。

2.一期一会の出会い

・この女性は誰だったのでしょうか。ヨハネはこの女性は「ベタニアのマリア」だったと言います(ヨハネ12:3)。ルカはこの女性を「罪深い女」と表現します(ルカ7:37)。マルコとマタイは女性の名前を記しません。「マグダラのマリアではないか」と考える人もいます。この女性は、以前は娼婦だったのではないかと聖書学者は想像します。ルカの記す「罪深い女」とは娼婦を指す言葉ですし、何よりも300デナリもする香油を普通の女性が買うことが出来ないからです。かつて娼婦として社会からつまはじきされていた女性を、ある時、イエスが一人の人格を持つ人として対応してくれた。女性は震えるほどうれしかった。その時の感謝が女性にこの異常な行為をさせたのでしょう。ヨハネ8章に姦淫を赦された女性の話がありますが、もしかするとそのような出来事がこの出来事の背後にあったのかも知れません。
・女性は、イエスがシモンの家に滞在しておられる事を聞き、全財産をはたいてナルドの香油を求め、献げたものと思われます。女性の行為は愚かです。しかし、彼女は感謝の気持ちを表すために持っている全てを投げ出してイエスに献げたかった。だから損得抜きに香油を求め、後先を考えずに全てを注いだ。イエスはこの女性の気持ちを受け入れられました。女性をとがめる弟子たちにイエスは言われます「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したい時に良いことをしてやれる。しかし、私はいつも一緒にいるわけではない」(14:8)。
・私たちは日常の忙しさの中で、人生の意味を深く考える機会は多くはありません。ルカは「盛大な宴会の譬え」の中で、日常生活の多忙故に、神を求めようとしない人々が多いことを示します。喩えでは主人が宴席(神の国の食事)に招待しようとすると、「皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った」(ルカ14:18-20)。
・ギリシャ語の時間には「クロノス」と「カイロス」があります。クロノスは流れる時間、日常的・連続的時間です。他方、カイロスは「今この時」の時間です。通常は仕事に追われて神の国の話を聞いている暇はありません。しかしある時、このカイロスが私たちにとって大切になる時があります。1985年8月12日、日航機が群馬県上野村御巣鷹山中に墜落し、520名の方々が亡くなりました。それから28年、8月12日になりますと、遺族の方々は今なお慰霊登山を続けられます。8月12日は彼らに取って「カイロスの時間」となったのです。この女性もイエスと出会って人生が変えられた。今度いつ会えるかわからない。だから彼女は損得を忘れて高価な香油を買い求め、イエスに捧げた。イエスは彼女のひたむきな行為を喜ばれた。彼女はイエスと一期一会の出会いをしたのです。

3.赦された者の生き方

・今日の招詞にルカ7:47を選びました。次のような言葉です「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。ルカ版「香油注ぎ」でイエスが言われた言葉です。香油注ぎの意味をより深く理解するために、ルカの物語を合わせて読みましょう。ルカでは次のような言葉で物語が始まります「あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(ルカ7:36-38)。「罪深い女」とは娼婦や遊女を指す言葉です。
・宴席の主人シモンは罪の女がそのような行為をするのに、イエスが拒絶されないのを見て、心の中で言います「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」(ルカ7:39)。それを推察されたイエスはシモンに言われます「この人を見ないか。私があなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたは私に接吻の挨拶もしなかったが、この人は私が入って来てから、私の足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた」(ルカ7:44-46)。そして言われたのが招詞の言葉です「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる」。そしてイエスは女性に「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました(ルカ7:48-50)。
・この女性はその後どのようになったのでしょうか。ルカは何も語りません。しかし、罪を赦された者はもう罪の生活を続けることは出来ません。彼女はおそらく今までの生活と訣別し、新しい生活を始めたと思われます。もしかすると、エルサレムでイエスが十字架に死なれた時、その処刑場の下でイエスを見守る女性たちの中にいたのかも知れません。イエスとの出会いは人生を根底から変える力を持っています。みなさんもある時、イエスとの出会いというカイロスの時を持たれた。今月の讃美歌はD.ボンヘッファーの「善き力に我囲まれ」です。彼は死刑を宣告された牢獄の中で、「善き力に我囲まれ」と歌うことが出来ました。カイロスの出会いを体験したからです。そのことを覚えながら、これからの人生を「主と共に」歩いていただければと願います。

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