1.自己の責任を認めようとしない捕囚の民
・エゼキエル書を読んでいます。エゼキエルはイスラエルがバビロニアの地に捕囚された紀元前6世紀に立てられた預言者ですが、捕囚の民たちは、「親の罪で自分たちは捕囚となり、不自由な生活を強いられている。自分たちは被害者だ」と言っていました。それを表現したのが、「先祖が酢いブドウを食べれば子孫の歯が浮く」という格言でした。「先祖が罪を犯したから捕囚になった、その被害を自分たちが受けているのは不当だ」という不満の表明です。その背景には自分たちの信じてきた神への失望がありました。「神を信じて何になるのか、神が負けたから我々は苦しんでいる」と彼らは思っていたのです。その人々にエゼキエルは語ります「主の言葉が私に臨んだ『お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。“先祖が酢いブドウを食べれば子孫の歯が浮く”と』」(18:1-2)。
・人は自分の過ちを認めたがらない存在です。2011年3月に起きた東日本大震災において、「想定外の事態が生じたのだから、私たちには責任はない」という東京電力の発言が話題になりました。このことで、神戸女学院大学の教授だった内田樹(たつる)氏は、「中央公論」2011年5月号の論文で次のように述べます「政府や東京電力は原発事故直後から“想定外”を繰り返した。想定外の天災に襲われたための事故であって、自分たちに瑕疵(責任)はないと彼らは言った。この言い分には聞き逃すことのできないことがいくつも含まれている。一つはこの地震が想定外ではなかったことだ。過去に貞観地震(869年)という今回と同じ海底を震源地とする巨大地震が起きている。そんなに大きな地震は来るはずがないという東電側の判断に基づいて、“想定内”と“想定外”の線引きが行われた。想定外を作り出すのは、想定する主体、すなわち人間である」。この東電の主張は、「自分が悪いのではない、父祖が悪かったのだ」と言う捕囚民の姿にそっくりです。
・エゼキエルは言葉を続けます「私は生きていると主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。すべての命は私のものである。父の命も子の命も、同様に私のものである。罪を犯した者、その人が死ぬ」(18:3-4)。イスラエルの律法は「父は子のゆえに死に定められず、子は父のゆえに死に定められない。人は、それぞれ自分の罪のゆえに死に定められる」(申命記24:16)と定めます。エゼキエルはこの申命記法を捕囚民に語り直します。それが5節以下の言葉です「もし、ある人が正しく、正義と恵みの業を行うなら・・・彼は必ず生きる、と主なる神は言われる」(18:5、18:9)。「正しいことを行う人は生きる」、これが聖書の基本的な見解です。では正しく生きた人の子が正しく生きなかったらどうなるのか、それが10節以下にあります「彼に生まれた息子が乱暴者で、これらの事の一つでも行う人の血を流し、自分自身はこれらすべての事の一つですら行わ(なければ)・・・彼はこれらの忌まわしいことをしたのだから、必ず死ぬ。その死の責任は彼にある」(18:10-13)。
・エゼキエルは更にその悪人の子が「父の行ったすべての過ちを見て省み、このような事を行わないなら」(18:14)、「彼は父の罪のゆえに死ぬことはない。必ず生きる」(18:17)と宣言します。問われるのは本人の生き方であって、父が何をしたかは関係がないと彼は言います。「子は父のゆえに死に定められない」のです。この論証を通してエゼキエルは不平を言う捕囚民に語りかけます「あなたたちが今ここにいるのは父祖の罪の故ではなく、あなたたちの罪のためではないか。父祖ではなく、あなたたちの悪が亡国という苦難を招いた、何故それを認めないのか」と。
2.責任を認めた時に救いが始まる
・「あなたたちの悪が亡国という苦難を招いた」のであれば、苦難からの回復は「あなたたちの悔い改めにかかっている」とエゼキエルは述べます。それが21節の言葉です「悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、私の掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない」(18:21)。そして悔い改めた時、父なる神はあなたたちの罪を赦して下さるとエゼキエルは語ります「彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。私は悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか」(18:22-23)。
・「悪人であっても悔い改めれば赦される。義人であっても悪の道に落ちれば裁かれる」、それが聖書の語る自己責任原理です。エゼキエルは自分たちの罪を認めようとせず、逆に本国と呼応してバビロニアからの解放運動をしている捕囚民に迫りました「そのような無益なことはやめよ。罪を認めない限り、滅ぶしかない」。このエゼキエルの問いは現代の私たちにも向けられています。今、私たちの国と中国や韓国との外交が行き詰っていますが、その背景にあるのは私たちの責任回避論です。戦争責任について多くの日本人は言います「侵略戦争をしたのは父祖であり、私たちではない」。その通りです。しかし、子孫である私たちも、戦争の象徴的な存在である「靖国神社に公式参拝」し、「従軍慰安婦などいなかった」という発言を繰り返して、被害国の人々の神経を逆なでするような行為をしています。この行為は、自分たちの責任を認めようとせず早期帰国ばかりを考えていた捕囚民と同じでしょう。私たちが本気で過去の戦争を悔い改め、謝罪をすれば道が開けると思われます。
・エゼキエル書18章が私たちに問うのは、「自己責任とは何か」という問題です。今日の社会でそれが問われている課題の一つが「貧困の連鎖」です。統計によれば、生活保護世帯の4割はその親世代も生活保護経験を持っているそうです。中でも問題になっているのが母子世帯です。母子世帯の生活保護受給率13.3%は他の世帯(2.4%)と比較して著しく高く、福祉現場では子どもの頃に生活保護を受けていた母子家庭の娘が成長し、自分も母子家庭となり生活保護を受けて生活しているという事例が多くみられとのことです。3世代、4世代の連続受給世帯も現れています。かつては貧困家庭に育っても本人の努力で社会的に成功する機会がありましたが、格差固定の現代では、貧困家庭に育つことにより、高等教育を受ける機会が減り、その結果就職が不利になり、自身が貧困層から抜け出すことができないという悪循環があることは事実です。「親が酸いぶどうを食べれば子の歯が浮く」という現実がここにあるのも事実です。エゼキエル書を今、読むということは、同じ課題を持つ現代の問題を考えるということでもあります。
3.なぜエゼキエル書を今読むのか
・今日の招詞にエレミヤ29:7を選びました。次のような言葉です「私が、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」。エレミヤが捕囚地バビロニアの人々に送った手紙の一部です。エレミヤとエゼキエルは同じ時代にそれぞれの場で預言活動をしています。エレミヤは招詞の言葉の前に述べます「捕囚はあなた方の罪のために主が与えた鞭である。それは2年や3年で終らず、70年続く(29:10)。だからその地に家を建て、園に果樹を植えて自立できるようにせよ。また、帰還はあなた方の子や孫の時代になるから、妻をめとり、子を生み、その子たちにも子を生ませ、民を増やして帰還に備えよ」(29:5-6)。この手紙は驚くべき内容を伝えています。捕囚が70年続くということは、手紙の受信人たちは生きて故郷に帰る事はないということです。捕囚地のある人々は、速やかな祖国帰還を熱狂的に確信し、エルサレムに残った人々と共に反バビロニアの画策をしていました。別な人々は前途を諦め、何の気力もなくなり、絶望的になっていました。その人々にエレミヤは勧めます「自分たちの置かれた状況を冷静に見つめよ。あなたたちはすぐには帰れないから、その地で日常生活を営め。絶望や熱狂に陥って、日常与えられた仕事を着実に果たしえないようでは、神を信じているとは言えないではないか。しかしまた捕囚は永遠に続くものではなく、試練の時が終れば祖国に帰ることを主は許される。故にその地で子を設け、子供たちにあなた方の信仰を伝えよ」と。「自分たちの置かれた状況を冷静に見つめ、その中で出来うる最善のことをしなさい」とエレミヤは書き送ったのです。
・エレミヤの手紙は当時の捕囚民には慰めになりませんでした。捕囚民はエレミヤの勧めを無視し、祖国に残った人たちと手を組んで、バビロニアに反乱を起こし、その結果、前587年にはエレサレムの町は再度占領され、イスラエルは完全に滅ぼされました。捕囚民が帰還を許されたのはバビロニアがペルシャに滅ぼされた前538年、最初の捕囚から60年後のことであり、捕囚は70年続くというエレミヤの預言通りになったわけです。
・「自分たちは親の罪によってバビロニアに流された」と考える時、バビロニアは呪いの地になります。しかし捕囚民が開き直って、「この地で生きていこうと決意した」時、バビロニアもまたエデンの園になっていきます。国を滅ぼされ、帰還の道を断たれた時に、捕囚の民は神が何故自分たちを滅ぼされたのかを本気で考え始め、父祖からの伝承を集め、それを編集して行きました。その結果、彼らは「自分たちが神を離れ、奢り高ぶった罪が罰せられた結果が捕囚である」ことを認め、今度こそ心から悔改めました。その時、彼らはエゼキエルの預言を改めて読み直しました「イスラエルの家よ・・・悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私はだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」(18:30-32)。「お前たちは立ち帰って、生きよ」、この言葉に励まされて、彼らはバビロニアで神の民として生きていく覚悟を決めたのです。
・創世記や出エジプト記、レビ記等のモーセ五書(旧約聖書の最初の5書)が最終的に編集されたのは、この捕囚期であると言われています。この地で生きると覚悟を決めた捕囚民により旧約聖書が編集され、イスラエルの信仰は民族宗教から、世界の諸民族の救いのためのものに変えられて行きました。そして2500年後の今、遠い日本の地で私たちがこのエゼキエル書を読み、この書を通して、今私たちが置かれている状況をどうすれば良いのかを考えています。そして、貧困の連鎖も、原発事故も、はたまた中国や韓国との外交摩擦でさえ、エゼキエル書を通して解決の糸口が与えられるような気がします。エレミヤ書やエゼキエル書のような骨太の預言書を読む意味がここにあるのです。