江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年4月21日説教(マルコ5:1-20,疎外からの回復)

投稿日:2013年4月21日 更新日:

1.ゲラサの悪霊つきの男の癒し

・マルコ福音書を読んでいます。イエスはガリラヤ湖畔の町々、村々を訪れて宣教されていましたが、ある日、「向こう岸に渡ろう」と言われて、舟で対岸の地に渡られました(4:35-36)。ガリラヤ湖の対岸は異邦人の地であり、その地方はデカポリス(十の町)と呼ばれ、ゲラサ人(ギリシャ人)が住み、ローマ帝国の直轄領とされていました。今日のシリア地方になりますが、ユダヤ人にとっては、異邦人の地、汚れた地、律法が不浄とみなす豚を飼っている地でした。なぜイエスが「汚れた」とされる異邦人の地に行かれたのか、マルコは説明しません。しかし、イエスはそのゲラサの地で一人の男に出会われます。この出会いから物語が始まります。
・マルコは語り始めます「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た」(5:1-2)。「汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た」、異様な状況で物語が始まります。マルコはこの人の様子を詳しく叙述します「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかった・・・彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」(5:3-5)。「この人は墓場を住まいとしていた」、当時の墓地は山や谷の洞窟を利用して造られていました。この人は死体に囲まれて一人で暮らしていたのです。そして、「これまでにも度々足枷や鎖で縛られた」とありますから、彼は精神の病のために自分や他人を傷つけ、家族もどうしようもなくなり、この人を町の外れの墓場に閉じ込めていたのでしょう。当時は、らい病に罹った人も同様に谷間等の洞窟に強制的に隔離されていたようです。彼は絶望のあまり、夜昼叫び、石で自分の体を傷つけていました。家族から捨てられ、共同体からも追放され、呻いていたのです。当時の人々は、このような状態を「汚れた霊に取りつかれた」と呼んでいました。
・「(この人は)イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい』」(5:6-7)。悪霊たちが叫びだしたのでしょうか。イエスは霊たちに名前を聞かれました。霊たちは答えます「名はレギオン、大勢だから」(5:9)。この言葉は象徴的です。レギオンはローマの軍団(6000人隊)の呼び名で、当時のデカポリスはローマの軍団(レギオン)の占領下にありました。戦争はしばしば集団殺戮や暴行を生み出します。異常な環境の中で、人は狂気に囚われるのです。もしかしたらこの人もローマ軍の残虐行為を受けて狂気になったのかもしれません。
・イエスは悪霊たちに、「この男から出ていけ」と言われました。悪霊たちは「この地に留まらせてほしい、あそこにいる豚の群れの中に入らせて欲しい」と願います。やがて、悪霊たちが乗り移った豚は狂気に駆られて暴走し、2000匹の豚が湖に沈んで死んだとマルコは報告します。何が起こったのか、私たちにはわかりません。この物語は当初の伝承にはなく、マルコが付け加えたのではと考えられています。グニルカという新約学者は「マルコは悪霊の乗り移った豚が次々に溺れ死ぬという物語の結末を提供して、今は圧倒的な力で支配しているかに見えるローマの政治権力もイエスの支配の前に崩壊せざるを得ないと告げている」と理解します(EKK聖書注解)。
・豚の番をしていた豚飼いたちは驚いて町の人々を呼びに行き、町の人々は自分たちの豚が湖に沈み、男が正気になっているのを見ました(5:15)。人々にとって男が正気になったのは何の喜びでもありませんでした。既に棄てていたからです。しかし、人々にとって豚2000匹は貴重な財産でした。ゲラサの人々にとって、イエスは自分たちの大事な財産を犠牲にしても一人の男を救おうとされた得体のしれない男、自分たちの日常を破壊する男、だから「出て行ってくれ」と言いました。

2.この物語は私たちの物語ではないか

・現代においても悪霊は存在するのでしょうか。わかりません。しかし抑圧があれば人は精神を病む存在であることは事実です。悪霊につかれたゲラサの人は、現代では統合失調症(精神分裂)と分析されるかもしれません。この病気の発症率は120人に1人とかなり多く、妄想・幻覚・幻聴が生じ、現代でも治癒は難しい病気です。患者が自分を傷つけたり他人を傷つけたりする恐れがあれば、法律により強制入院させられます。精神病院の大半は閉鎖病棟であり、治療と言うよりも隔離に近い状態です。日本においても精神病棟の中に多くのゲラサの男が隔離されていると考えた時、この物語は私たちの物語になります。日本で精神の病に苦しむ人々は100万人、その内30万人は入院し、一般の入院と異なり、精神の病気の場合、5年、10年、さらには20年と入院期間が長いのが特徴です。治っても帰る所がないからです。ゲラサの男は夜昼叫んで、体を傷つけていました。回復の希望がないからです。同じ状況が今日の日本にもあることを私たちは認識すべきです。
・また今日の競争社会は、抑圧による被害者を次から次に生み出している事実も私たちは知っています。秋葉原で無差別殺傷事件を起こした加藤智大被告は自動車工場で派遣労働者として働いていましたが、派遣契約を中途解約されることを告げられ、自分の居場所がなくなり、絶望して事件を起こしたと言われています。彼は「人ではなく、物のような扱いを受けていた」と告白しています。派遣労働者は景気の調整弁として、その人格が認められていないのです。また、長引く不況の中で企業は人員削減によるリストラを強化し、ソニーやパナソニックのような大企業でさえ、社内の余剰人員をキャリア・ビジネス室という名前の追い出し部屋に集め、仕事を与えず、暗黙のうちに自主退職するように圧力をかけていると新聞記事は報じています(2012/12/31朝日新聞他)。さらに、就職活動がうまくいかず、うつや自殺に追い込まれる学生が増加していると聞きます。何十社も面接を受けて全て断られたことで、「人格を否定された」と思いつめる学生が多いとのことです。現代に「悪霊」がいるかどうかはわかりませんが、私たちの住む社会は「悪霊つき」と言わざるを得ない現象を次々に生み出しているのは事実です。

3.悪霊につかれた男が伝道者になった

・ゲラサの男は墓場に住み、イエスに言いました「かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と。それでもイエスはこの男と関わりを持たれました。「かまわないでくれ」という人に、神は関わりを持たれるのです。今日の招詞に詩編68:7を選びました。次のような言葉です「神は孤独な人に身を寄せる家を与え、捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。背く者は焼けつく地に住まねばならない」。イエスは来る必要のない異邦人の地に来られ、声をかける必要のないこの男に声をかけられました。イエスは土地の人から疎まれる危険を冒して男を憐れまれました。その結果、彼は正気になり、人間社会に復帰する事ができました。癒された男は「イエスに従いたい」と申し出ますが、イエスは「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と言われます(5:19)。さらにマルコはその後の出来事を報告しています「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことを、ことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた」(5:20)。ここの「言い広める」という言葉はギリシャ語「ケッリュソウ」、「宣教する」という言葉が用いられています。
・この物語の事件が起こったのは紀元30年前後、マルコが初めての福音書を書いたのは紀元70年頃、出来事から40年後です。マルコは福音書を書くためにいろいろな地方の教会を訪ね、イエスに関する諸伝承を集めたと思われます。その時、この異邦人の地デカポリスに教会があり、その教会に、「ゲラサの悪霊つきと呼ばれた男がイエスに癒され、その後、伝道者になってこの地に教会を立てた」という伝承が残されていたと推測されます。5章20節に、「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことを、ことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」という後日談の記述があることは、そのことをうかがわせます。
・仮にそうであれば、ここには偉大な物語が記されていることになります。マルコは福音書1章でペテロやアンデレたちが、家や家族を捨てて弟子になったことを記します。そして今ここ5章に「自分の家に帰りなさい」と言われた人が、「主があなたに何をしてくださったかを知らせなさい」というイエスの命に従って伝道者となり、その実りとして教会が立てられたことを、マルコは報告しているのです。「汚れた霊につかれた人が宣教者になった」、まさに詩編68篇が歌うように「神は孤独な人に身を寄せる家を与え、捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださった」のです。
・ここには疎外状態にあった一人の人物の人間回復の物語があります。「死んでいた人が生き返った」、「いなくなっていた人が見つかった」という喜びの知らせがあります。このことは現代の私たちにも勇気を与えます。私たちの周りにも、様々な抑圧の中で外に出ることが出来ず、家に引きこもっている人がいます。安定した職業につけず、将来に希望を失っている人がいます。心身の病気のために礼拝に出ることが出来ない人を覚えます。その人たちに、私たちが「神は孤独な人に身を寄せる家を与え、捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる」との福音を伝え、その人と祈りを共にする時、そこに何かが生まれるのです。前に話しましたように、コロサイからの逃亡奴隷であったオネシモは、パウロの執り成しにより、主人フィレモンに解放され、やがてはエペソの司教にまでなりました(フィレモン1:1-21)。汚れていた霊にとりつかれて石で自分の身を傷つけていた人が、イエスと出会いを通して、イエスに従う者になりました。「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」という言葉に従う時、そこに神の業が現れることを今日は覚えたいと思います。

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