1.コリント教会の設立と紛争の中で
・これまで4ヶ月にわたってマタイ福音書を読んできましたが、3月は聖書教育に従い、パウロの書いた手紙を読んでいきます。パウロは巡回伝道者として広くローマ帝国の諸都市を訪問し、そこに教会を立てて来ました。コリント、エペソ、ピリピ、ガラテヤ等の諸教会はいずれもパウロの伝道によって立てられた教会です。しかし、教会は人の集団ですからいろいろな問題が起こります。パウロはそれらの問題に対処するために、教会宛の手紙を書き、それらの手紙はパウロ書簡として新約聖書に取り入れられてきました。今日読みますコリント教会への手紙もその一つです。
・イエスが十字架で殺された後、弟子たちは逃げ去りましたが、復活のイエスとの出会いを通してまた集められ、彼らは「十字架で死なれたイエスこそ救い主であり、このイエスを信じる信仰により、人は救われる」と伝道を始めます。この手紙を書いたパウロも最初期の伝道者の一人で、「自分は復活されたイエスと出会い、このキリストを異邦人に伝える使命を与えられた使徒である」との自覚を持っていました。そして三回にわたる伝道旅行を通して各地に教会を立てていきます。しかしパウロに対する諸教会の見方は、必ずしも好意的なものではありませんでした。パウロはイエスの直弟子ではなく、以前は厳格な教えを奉じるユダヤ教徒として、キリスト信徒たちを迫害する立場にいたからです。そのパウロが復活のイエスとの出会いを通じて、迫害者から伝道者に変えられて行きました。そのため、イエスの直弟子とその流れを汲むエルサレム教会の人々の一部は、「パウロは直弟子ではないから使徒ではない。またキリストを信じる信仰さえあれば救われるという教えは、ユダヤ教の教えを否定するものだ」と非難していました。パウロが手紙を書いたのは、紀元55年頃ですが、この当時の教会はまだユダヤ教の枠内にあり、神殿で犠牲を捧げ、律法を守ることは当然だと思っていたのです。
・コリント教会はパウロが設立し、心血を注いで牧会した教会でしたが(紀元50年頃)、やがてパウロはエペソ伝道のためコリントを離れ、後をアポロに託して去り、そのアポロもやがてコリントを離れ、教会は無牧師の状況になります。そこにエルサレム教会からの推薦状を持った教師たちが来て、パウロと異なる福音、具体的には「救いはユダヤ人にのみ与えられており、あなた方も救われるためには割礼を受け、律法を守らなければいけない」と教え、また「パウロは使徒ではない」と非難しました。そのため、コリント教会の中に、パウロに否定的な考えを持つ人たちが増え、中にはコリントを再訪したパウロの使徒的正当性を会衆の面前で否定する者さえ現れるようになりました。パウロは悲嘆の中にエペソに帰り、その後、弟子のテトスに「涙の手紙」と呼ばれる手紙を持たせてコリントへ送り、コリント教会の反省を求めました。コリント教会はその詰問の手紙に深く悔い改め、それをテトスから聞いたパウロは和解の手紙を書きました。それが今日、読みます「コリント人への第二の手紙」です。パウロはコリント教会宛に少なくとも4通の手紙を書いたとも思われますが、現在残っているのは第一の手紙と第二の手紙の2通のみです。
2.キリストの手紙
・コリント教会への第二の手紙にパウロは書きます「私たちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、私たちに必要なのでしょうか」(3:1)。コリント教会を訪れて異なる福音を伝えていた伝道師たちは、エルサレム教会からの推薦状を携えていたようです。「自分たちは使徒である直弟子たちからの推薦状を持っている。何の推薦状も持たないパウロとは違う」と彼らは言っていました(10:12)。コリントの一部の人たちもパウロには推薦状がないことを問題にしていたようです。しかしパウロは自分には推薦状はいらないと言います。彼は「私たちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています」(3:2)と語ります。エルサレムから来た教師たちは直弟子からの推薦状を持っているかしれないが、私はそれにまさる推薦状を持っている。「それはあなた方だ。あなた方は私たちの語る言葉を聞いて、自分の罪を悔い改め、今後はキリストに従って生きていくという決心をした、それこそ神が働かれたしるしであり、あなた方に信仰が与えられたことこそ、何よりの神からの推薦状ではないか」とパウロは語ります。伝道者たちは人からの権威を誇りましたが、パウロは神を誇ります。彼は言います「誇る者は主を誇れ。自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです」(10:17-18)。
・パウロは続けます「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」(3:3)。パウロの推薦状はコリント教会です。この教会を立てたのは人間的にはパウロかもしれませんが、その背後にあって働かれたのは神です。パウロは第一の手紙の中で書いています「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(1コリント3:6-7)。「神が私を用いてこの教会を立てられた、だから私を推薦して下さるのは神なのだ」とパウロは語ります。パウロは人によってではなく、「神によって自らが使徒とされた」のだと語っています。
・人は本当の意味では律法を守ることが出来ません。「敵を愛せ」と言われても私たちは愛せない。文字で書かれた契約、律法は人の罪を暴き、人を死に至らせるものです。だからこそキリストが来られ、十字架の血を通して新しい契約、霊で書かれた契約が与えられました。その契約の使信、福音は罪を赦し、命に至らせます。私たちは古い契約(律法)ではなく、新しい契約(福音)を述べ伝えているとパウロは語ります。だからパウロは手紙の中で語ります「神は私たちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」(3:6)。
・パウロはコリント教会への思いを手紙の後半部で語ります「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いを私も抱いています。なぜなら、私はあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています」(11:2-3)。パウロはコリント教会を自分の娘のように愛しています。自分が生み、育て、確かな人キリストと婚約させた娘が、誘惑者の言葉に乗って道を踏み外そうとしています。その結果、何が起こるかは明白です。悪い男は娘に飽きると捨てるでしょう。娘は駆落ち相手に捨てられ、いまさら婚約者の所にも帰れないため、死を選ぶか、身を落とすかしかなくない。「あなたがたは滅びの瀬戸際にいる」とパウロは叫んでいます。教会はあるべき方向からそれてしまい始めました。ユダヤ主義者の影響を受けて、割礼を受けなければ救われないとか、戒めを守らなければいけないとか、キリストが教えられたことと違う方向に教会が行き始めたのです。それをパウロは「異なったイエス、違った霊、違った福音」と述べています(11:4)。
・「違った福音」のどこが悪いのでしょうか。それは神の教えではなく、人の教えだからです。人が求めるのは幸福です。人は、病気や老いや貧しさから解放されて幸福になりたいと願っています。その願いに応えて、「割礼を受ければ救われる、戒めを守れば祝福される」という幸福宗教の教えが出てきます。それは救いの決定権を人間が持つことです。割礼を受け、戒めを守れば、救われるのであれば、神は不要です。しかし、人には命の決定権はありませんから、そこに救いはない。真の福音とは、神が私たちを愛し、救ってくださる事を信じていくことです。私たちを愛される神が、苦難を与えられたのであれば、その苦難を受け入れていくことによって、苦難は祝福になって行きます。病気が治らないこともまた祝福として感謝するようになります。それが正しい福音なのです。その「正しい道に帰れ」とパウロは呼びかけているのです。
3.私たちはこの手紙をどう読むか
・「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています」とパウロは語りました。その言葉は、ここに集められた私たち一人一人も、キリストの手紙であることを示しています。世の人々は聖書を読んでキリスト者になるのではなく、「私たち教会に集うキリスト者を読んで」、福音が何かを知ります。「この人は何故、困難の中でも希望を失わないのだろうか」、「この人は何故損をしてまで人のことを心配するのだろうか」、そしてその人を動かしているのが「キリストに生かされている喜び」であることを知った時、人は聖書を読み始めます。
・今日の招詞にマタイ5:16を選びました。次のような言葉です「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。ここに伝道の極意があります。伝道するのは言葉ではなく、私たちの生き方なのです。ヘンドリック・クレーマーというオランダの聖書学者が1960年に「信徒の神学」を書きました。彼は著書の中で言います「現在の教会は教職者が教会の管理者・代弁者であり、信徒の姿は見えない。しかし、歴史的には信徒が教会形成に重要な役割を果たしてきた。教会は世にあって、世に仕える。その世で働くものこそ、信徒である。神は世と関わりを持たれる方であるゆえに、教会もまた世のために存在する。しかし、現実には、教会の関心は、それ自身の増大と福祉に注がれてきた。教会は信徒を通じて、この世にキリストのメッセージを伝えていく。信徒こそが世に離散した教会である。そのことを確認することこそ、信徒の神学なのである」。
・彼の使信は日本の教会に大きな波紋を呼び、1961年に日本基督教団に招かれて来日します。彼は2ヶ月間にわたってさまざまな人と会い、意見交換を行い、日本の教会への伝言を残して去りました。彼は伝言します「日本の教会は制度主義という病患に冒されているのではないか、教会堂と牧師がいれば教会は成立すると考えている。信徒は献金によって牧師を支える母体としか見られていない。また、日本の教会は、地上の教会は天の教会(エクレシア)の一部であるという意識が薄いように思える。その結果、キリスト者の一致がない」。クレーマーはさらに語ります「日本の教会は現代日本の中でどう宣教すべきかの視点が少なく、日本的風土に根を下ろさず、西欧教会の模倣になっている。また伝道や教会形成には熱心であるが、教会の預言者的役割、世の塩たらんとする気概が少ないのではないか」。「教会は世にあって、世に仕える」、「あなた方はキリストの手紙である」、「教会は世の塩である」。私たちはこの3月に教会総会を開き、今年を反省し、次年度の希望を語ります。その時に与えられた御言葉が「あなたがたはキリストの手紙である」というものでした。私たち一人一人が「キリストの手紙」であることを世に証していく、それが今の私たちに必要な御言葉であると思います。