江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年3月10日説教(フィレモンへの手紙1:1-21、多く赦された者の生涯)

投稿日:2013年3月10日 更新日:

1.フィレモンへの手紙

・3月に入り、パウロ書簡を読んでいますが、今日与えられた書簡は「フィレモンへの手紙」です。フィレモン書は非常に短く、また公の手紙と言うよりも、パウロの私信に近いものです。そのような手紙が何故聖書正典に組み入れられたのでしょうか。今日はフィレモン書を通じて何が見えるのかをご一緒に考えていきたいと思います。
・フィレモン書はコロサイ教会の執事であるフィレモンに宛てられたパウロの個人書簡です。パウロは書きます「キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、私たちの愛する協力者フィレモン、姉妹アフィア、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ」(1:1-2)。パウロは自分自身を「キリスト・イエスの囚人」と呼びます。それはパウロが文字通り獄中にいるからであり(エペソとされています)、同時にキリスト・イエスを宣教した罪により、捕らえられているからです。
・宛先はコロサイ教会の執事フィレモンです。姉妹アフィアはフィレモンの妻、戦友アルキポは夫妻の子供であろうと推測されています。コロサイ教会はエペソ東部にあり、パウロの弟子エパフラスの宣教によって立てられました。フィレモン家の人々ははパウロのエペソ伝道の折にか、あるいはエパフラスのコロサイ伝道を通して洗礼を受けたのでしょう。そのエパフラスは今パウロとともに獄中にあります(1:23)。フィレモンは奴隷を所有する裕福な人で、自宅を開放して集会を執り行っていたようです。そのフィレモンの働きについてパウロは感謝の言葉を書きます「私は、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつも私の神に感謝しています。主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです・・・兄弟よ、私はあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです」(1:4-7)。
・8節からパウロは本題に入ります「それで、私は、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが、監禁中に設けた私の子オネシモのことで、頼みがあるのです」(1:8-10)。パウロはオネシモの件で手紙を書いています。彼はオネシモを「監禁中に設けた私の子」と呼びます。オネシモはフィレモン家の奴隷でしたが、おそらくは主人の財産を盗んで逃亡し、アジア州の州都であるエペソに来ました。そのエペソに主人が尊敬している使徒パウロが投獄されていることを聞き、今後の身の振り方をパウロに相談に行ったのでしょう。当時の牢獄では、囚人の面会や手紙は許されていたようです。何度もパウロに会い、その話を聞くうちに、オネシモはパウロの内に働く神の恵みを知り、洗礼を受け、今は獄舎にいるパウロの世話係として仕えるようになりました。
・パウロはエパフラスを通してコロサイ教会を設立し、その後も教会と関わって来ました。フィレモンもパウロを使徒として尊敬していたと思われます。そのパウロが頭を下げて、オネシモのことをフィレモンに執り成しています。「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにも私にも役立つ者となっています。私の心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、私の元に引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません」(1:11-14)。オネシモはフィレモンの元から逃亡した奴隷であり、フィレモンから見れば信頼を裏切った人間です。パウロはそのオネシモを「私の心」と呼びます。今のオネシモは昔とは違う、今はあなたに代わって私に仕えてくれる大事な人になっており、出来れば今後も私の仕事を手伝ってほしいとパウロは言います。しかし、「逃亡奴隷は持ち主のもとに返さねばならないため、今オネシモをあなたの所に送る」とパウロは書いています。

2.他者の負債を引き受ける愛

・パウロはフィレモンに懇願します「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです」(1:15-16)。オネシモはフィレモンの所から逃げ出したが、それは「あなたの代わりに私に仕えるために、神がオネシモをそのように用いて下さったのだと思う。だから今はオネシモを奴隷以上のものとして、信仰の兄弟として、受け入れて欲しい」とパウロは書きます。この社会では「自由人と奴隷」の身分の区別はあっても、キリストにあっては「奴隷も自由な身分の者もなく・・・あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つ」(ガラテヤ3:28)なのだとパウロは語っています。
・オネシモは逃亡する時に、主人のお金を持ち出していたのでしょう。彼は赦されるためには賠償金を払う必要がありますが、そのお金は彼にはありません。そこでパウロは言います「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それは私の借りにしておいてください。私パウロが自筆で書いています。私が自分で支払いましょう」(1:18-19)。パウロはオネシモの連帯保証人になると言っています。連帯保証人は本人が債務を返せなくなった時、その債務を肩代わりする義務を負います。現代の日本では、連帯保証人になったばかりに、数千万円の弁済を迫られ、自己破産したり、自殺したりする事例が絶えません。そのため、日本では今、民法改正の作業が進められています。連帯保証とはそれほどまで重い負担ですが、パウロはその負担を喜んで負うと言明します。
・そしてパウロは手紙を締め括ります「あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。私が言う以上のことさえもしてくれるでしょう」(1:21)。フィレモンがオネシモを赦して受け入れたかどうかは不明です。ただその後に書かれたコロサイ人への手紙には、オネシモがパウロの使者としてコロサイに行くということが書かれており、おそらくオネシモはフィレモンにより解放され、その後、パウロの下で働いていたと思われます。また、紀元110年頃に書かれたイグナティウスの「エペソ教会への手紙」の中で、「エペソの監督オネシモ」という名前が登場します。市川喜一という聖書学者はこの間の事情を次のように推測しています「パウロの死後、その活動拠点であったエペソ教会を中心にパウロ書簡の収集活動が為され、その中心になったのが、オネシモであったと思われる。収集活動の責任者であったオネシモは自分の命を救い、伝道者として育ててくれたパウロの気持ちを伝えるために、書簡集にこのフィレモンへの手紙を編入し、それがやがては正典になっていったのではないか」と。

3.赦された者の生涯

・今日の招詞にルカ7:47を選びました。次のような言葉です「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。ある時、パリサイ人シモンがイエスを食事に招来ましたが、その食事の席に一人の婦人が入ってきて、イエスの足に香油を塗り始めました。その婦人は娼婦だったようです。人間社会は娼婦を罪人と卑しめますが、イエスは婦人の過去を含めて受け入れられました。しかし、同席のシモンはイエスを批判しました。そのシモンにイエスは言われたが今日の招詞の言葉です「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。この女性は前にイエスに出会って赦しを経験していると思われます。もしかすればヨハネ8章の姦淫の女性かもしれません。その赦しが女性に後先を考えない感謝の行為を取らせました。多くの罪を赦された人はもう以前の生活をすることはできず、赦しに応えて生きるのです。
・オネシモは主人の元を逃げ出した逃亡奴隷です。しかし彼はパウロに出会って変えられ、パウロの執り成しで元の主人フィレモンも彼を赦し、その後、パウロに仕える者になったと思われます。パウロの死後はエペソ教会の監督になり、パウロ書簡の収集活動を行い、彼の尽力でパウロの多くの手紙が聖書正典として残されました。そして彼は、自分がどのように赦されて福音に生きる者になったのかを証しする手紙を、パウロ書簡に編入しました。フィレモン書は、今はエペソの監督として尊敬される身になったオネシモが、かつてはどのような罪人であったかを明らかにするもので、人間的に見れば公表したくないものです。しかしオネシモは書簡を公表し、神が一人の奴隷にどのように大きな恵みを与えて下さったかを証ししました。
・今、「レ・ミゼラブル」という映画が大ヒットし、話題になっています。あるキリスト者が映画のレビューを書いています「昨年12月25日のクリスマスに『レ・ミゼラブル』が公開され、先日、家内と観てきました。圧倒的な映像と俳優たちの魂がこもった歌、いくつかの場面で私たちは涙を流しました。映画に対するレビューを観ましたが、「最初から涙が止まりませんでした」とか、「映画館のあちこちから嗚咽が聞こえました」というようなコメントが多く見受けられました。それぞれ心に触れる場面は異なることでしょう。しかし、この映画の中心にはジョン・バルジャンに対するミリエル司教の赦しと受容、それに対するバルジャンの回心と、彼が後の人生を無償の愛と共に生きるその姿にあります。そして、彼の人生を変えたのは神父の赦しの背後にあるキリストの十字架の愛であったということ、それがこの映画の根底に流れています。それゆえに、この映画はイエス・キリストが人間になしてくださったことに対する、クリスマスの日をキリストに贈られた人からの賛歌ではないかと思うのです。人がジョン・バルジャンの生き様に心が揺さぶられるのなら、そのジョン・バルジャンの生き方を変えたイエス・キリストの生涯というものがどれだけ私たちにとって大切なものであるかということ、自分はまだこのキリストの生き様を十分に伝えきれていないのだと反省しました」。
・オネシモの生涯とジャン・バルジャンの生涯はとても似ています。オネシモは使徒であるパウロが自分のためにフィレモンに頭を下げ、なおかつ連帯保証までする愛を通して神に出会いました。ジャン・バルジャンは司教館から盗んだ銀の食器を「彼にあげたのだ」とするムリエル司教によって逮捕を免れ、なおかつ更生のために銀の燭台まで差し出す愛に泣き、正直な人間として生きていくことを誓います。まさに人の赦しを通して神の愛に触れたのです。「多くの罪を赦された人は愛の人生に入る」、その偉大な物語を私たちはフィレモン書から、また「レ・ミゼラブル」から読むことが出来ます。ルターは言いました「私たちはみな神のオネシモである」。私たちの負うべき負債をイエスが代わりに負って死んで下さった、このことを知る時、私たちも他者の負債を担って生きる者になります。学者の中にはエペソ書もオネシモが恩師パウロに代わって書いたのではないかと推測します。エペソ書の著者は言います「私たちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(エペソ1:7)。フィレモン書を共に読めましたことを感謝します。

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