江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年2月3日説教(マタイ7:21-23,25:31−46、信仰と行為)

投稿日:2013年2月3日 更新日:

1.聞いて行う

・マタイ福音書を読み進めています。マタイでは5章から7章まで「山上の説教」が語られ、今日の聖書箇所7:21以下はそのまとめで、そこでは、「私に向かって、主よ、主よという者がみんな天の国に入るのではない」という厳しい言葉が記述されています。「主よ、主よ」と呼ぶ人たちは教会に所属するキリスト者です。洗礼を受けて教会員になってもそれだけでは駄目なのだと語られています。何故なのでしょうか。それを考える記事がマタイ25章「最後の審判」にあるとして、聖書教育はマタイ7章と25章の双方を読むように指示します。今日は7章と25章の記事を関連づけながら、「誰が救われるのか、救いとは何か」について、考えて行きたいと思います。
・最初にマタイ7章を見ていきます。5-7章の山上の説教ではイエスの教えを「聞く」ことが主題になっていますが、8-9章ではイエスの癒しを中心にした「行為」が記述されています。マタイによれば、救いは「主よ、主よ」と叫ぶ(=教会に属する、礼拝に参加する)だけでは十分ではなく、「聞いて、行う」ことが決定的重要性を持つとされているのです。マタイが「山上の説教」を編集したのは、教会の人々が、それを「聞いて行う」ためでした。マタイにとって実践から分離された教えは何の意味もなかったのです。
・「聞いて行う」ことの意味を提示するテキストがマタイ25章の記事です。ここには「最後の審判」の説話が展開されています。マタイは述べます「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(25:31-33)。聖書では右は救いを、左は滅びを意味しています。左に選別された山羊は屠殺のために選び別れたと理解されます。同じように最後の審判に臨む人々も、裁きの時に「祝福されて神の国に入る人」と、「呪われて永遠の火に焼かれる人」に選別されます。
・その選別基準についてマタイは記します「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(25:34-36)。祝福を受けるのは、「飢えた人に食べさせ」、「喉が渇いている人たちに飲ませ」、「裸の人に着せ」、「病気の人を見舞い」、「牢に囚われている人を訪ねる」等の行為をした者、「隣人に愛の業を行った人たち」が称賛されています。そして言われます「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(25:40)。ここで「私の兄弟」、「小さな者」と言われているのは誰でしょうか。マタイは他の所で「私の弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(10:42)と書いていますから、「小さな者」はイエスの弟子たち、具体的には、各地を巡回しながら伝道している者たちを指すと考えられます。イエス亡き後、弟子たちはイエスの宣教を継承しましたが、その伝道は困難なものでした。パウロは巡回伝道者としての自らの体験を次のように語っています「苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(2コリント11:7)。そのような苦労をしながら伝道する者たちを受け入れて、水や食料や宿泊場所を提供する行為こそ、主が喜んで下さることなのだとマタイは語ります。

2.主よ主よと叫ぶだけでは十分ではない

・私たちはここで教会論が展開されていることに留意する必要があります。それは41節から始まる後半を読むと明らかです。そこでは「呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ」(25:41-43)。それに対して教会の人々は反論します「主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」(25:44)。王であるキリストは答えます「この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」(25:45)。「お前たちは私の教えを伝える伝道者たちを快く迎え入れてくれなかったではないか」と責められています。
・この箇所と先のマタイ7章の箇所を読み比べると、同じ響きがあることに気づきます「かの日には、大勢の者が私に『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、私はきっぱりとこう言おう『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ』」(7:22−23)。「教会の中で説教を聞き、礼拝を捧げても、隣人のために働こうとしない者は神の国に入ることは出来ない」とマタイは教会の人々に告げているのです。
・救われないとされた人々に罪責感はありません。彼らは特に悪いことをしたのではありません。ただ何にもしなかった、その「何もしない」、つまり「不作為」こそが問題だと理解されているのです。初代教会は貧しく、日毎のパンにも事欠いていましたから、彼らはパンを与えて下さるように祈り、与えられればそれを裂いて分け、みんなで食べました。主の祈りは生活の祈りであり、聖餐とは共にパンを分け合う行為でした。その時、自分たちだけが食べて他の人々が飢えても知らぬ顔をしていれば、それは教会においては責められる行為になるのです。

3.最後の審判を超えて

・今日の招詞にヤコブ2:15−17を選びました。次のような言葉です「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」。ヤコブの時代、教会では社会的な地位があり裕福な人々は丁重に扱われ、貧しい人々は軽視されるという現実がありました。ヤコブは立派な身なりの人を良い席に案内し、貧しい人には「あなたは立っていなさい」と差別する、教会の人々を叱責しています(2:2-4)。そのような人々にヤコブは言います「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には憐れみのない裁きが下されます」(2:12-13)。あなた方は最後の時に神の前に立つのだ、それを忘れているのかと。そして彼は招詞の言葉を言います。貧しい人々に支援を求められ、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさいと言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら何の役に立つだろうか」。「それが信仰の行為と言えるだろうか」と。そして「行いが伴わないなら信仰はそれだけでは死んだものだ」とさえ言います。
・宗教改革者ルターはヤコブ書を「わらの書簡」と呼んで嫌ったそうです。ルターにとって人が救われるのは「信仰のみ」であり、行いや功績は要らないと理解したからです。私たちも同じ考えに立ちます「人を救うのは信仰」です。しかし、マタイやヤコブは「行為」を求めます。「信じれば救われるのに何故行為が必要なのか」。それに対してボンヘッファーは手紙の中で言います「われわれが、今日、キリスト者であるということは、ただ二つのことにおいてのみ成り立つだろう。すなわち、祈ることと、人々の間で正義を行うことだ」(ボンヘッファー獄中書簡集「抵抗と信従」)。彼はユダヤ人や戦争反対者たちを抑圧し虐殺するナチスの悪をやめさせるためにヒットラー暗殺計画に加わり、未遂に終わって処刑された牧師です。この言葉は彼が処刑前に獄中から出した手紙の中にあります。「祈るだけでは駄目なのだ」、何故駄目か。ナチスの時代、教会はヒットラーが全世界のユダヤ人たちを捕らえて強制収容所に送り込み、そこで大量虐殺を行なっていたことを知っていました。しかし、見て見ぬふりをしていました。それに対してボンヘッファーは、「それでは教会ではない」と批判したのです。何もしない「不作為」、何の感動もない「無関心」こそが、罪なのではないかと。
・今日の日本でも多くの人が困難を抱えています。働く人の4割は「非正規労働者」と呼ばれ、その収入では家庭を形成し、子どもたちを育てていくことさえ困難です。他方正規労働者は過重勤務に疲れています。高齢者を抱える世帯では介護負担で落ち込んでいる人がいます。癌の再発に怯えている人も、障害を持つ子の将来に不安を持っている人もいます。私たちの周りには支援を必要とする多くの人々がいます。だからマタイやヤコブは福音書や手紙の中で、「小さい者たちのために働く」ことこそが教会の使命だと伝えました。
・「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」という言葉は、多くの人々を動かして来ました。レフ・トルストイはこの言葉を読んで、「愛あるところに神あり」(靴屋のマルティン)という民話を書きました。トルストイは目の前にいる、困っている人こそイエスなのだと気づきました。マザーテレサは言います「この世で最大の不幸は、戦争や貧困などではありません。人から見放され、自分は誰からも必要とされていないと感じる事なのです」。
・今の私たちにとって、自分の救いはもう解決済みです。最後の審判の裁き主は、私たちのために命を投げ出して下さった主イエスなのですから。信仰者の命はもう贖われている。そうであれば隣人のために何が出来るかが私たちの課題となります。「飢えた人に食べさせ、喉が渇いている人に飲ませ、裸の人に着せ、病気の人を見舞い、牢に囚われている人を訪ねよ」と言われています。私にとって、「飢えている人はだれか、渇いている人はだれか」、多くの人の顔が思い浮かぶはずです。その人のために祈っていく時、道が示されます。私たちの教会の2012年度の主題聖句は「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ(詩篇37:3)」です。この言葉の具体化のために、今日私たちはこの教会に集められているのです。

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