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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年12月8日説教(ヨハネ13:1-11、弟子の足を洗うイエス)

投稿日:2013年12月8日 更新日:

1.弟子の足を洗うイエス

・ヨハネ福音書を読み始めています。ヨハネは他の福音書と異なり、イエスの生涯を描くのではなく、イエスの言葉を中心に記述が為されます。今日読みますヨハネ13章はイエスと弟子たちの最後の晩餐の記事です。他の福音書ではイエスがパンとぶどう酒を弟子たちに与えて、「私の記念としてこのパンを食べ、ぶどう酒を飲みなさい」と言われた事柄を中心に出来事が展開されます。しかし、ヨハネでは、「イエスが弟子たちの足を洗われた」というヨハネ独自の記事を伝えます。
・ヨハネ13章を読んで行きましょう。ヨハネは記します「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13:1)。イエスは世を去る時が来たことを感じられ、残される弟子たちへの愛惜の思いから、弟子たちの足を洗われます。ヨハネは記します「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」(13:3-5)。師が弟子たちの足を洗うというのは、異常な行為です。客の足を洗うという仕事は、古代では奴隷の仕事であり、弟子たちがイエスの足を洗うならまだしも、先生と呼ばれるイエスが跪いて弟子たちの足を洗うことは、前代未聞の出来事でした。弟子たちは戸惑ったことでしょう。イエスが何故このような行為をされるのか、理解できなかったと思われます。しかし黙ってイエスのされるままに任せていました。
・ペテロの番になった時、彼は抗議します「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか」(13:6)。イエスはそのペテロに答えられます「私のしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(13:7)。ペテロはなおも抗議します「私の足など、決して洗わないでください」(13:8a)。それは「師たる者が為すべきことではありません」とペテロは言ったのです。それに対してイエスは強い口調で言い返されます「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもないことになる」(13:8b)。「今日があなたたちと過ごす最後の日である。今日を外したらもうあなたの足を洗う機会はないであろう」とイエスは言われました。ペテロはイエスの言葉に驚き、口走ります「主よ、足だけでなく、手も頭も」(13:9)。ペテロらしい口調です。それに対してイエスは答えられます「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」(13:10)。
・ここには二つの意味が込められているように思われます。一つは「既に体を洗った者は全身が清い」、水の洗い=洗礼を受けたものは既に清くされているという意味です。もう一つの意味は「皆が清いわけではない」、洗礼を受けても脱落すれば清くなくなるという意味が込められています。直接的にはイスカリオテのユダの裏切りが示唆され、同時に当時のヨハネ教団内での脱落者に対する警告の意味も込められています(ヨハネはイエスの時代と今の時代を同時に描く独特の表現方法を取ります)。ヨハネは記します「イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで「皆が清いわけではない」と言われたのである」(13:11)。
・イエスはユダの足も洗われました。ユダは拒みもせず、問いかけもしないで、イエスを見つめていました。この時、ユダはイエスに決定的につまずいたと思われます。ユダにとってメシアとは白馬に乗ってエルサレムに入城し、その強い力で民衆の心を掴み、やがてはイスラエルからローマを追放して独立に導く栄光のメシアでした。ユダはイエスに神の力が宿っていると信じたからこそ、三年間も従ってきました。しかしイエスはユダの求めるような栄光のメシアではありませんでした。白馬ではなくロバに乗ってエルサレムに入城し、人々をひれ伏させるのではなく、自分が弟子たちの前に膝を屈めてその足を洗っています。この人はメシアではない、ユダは確信しました。この時、「サタンが彼の中に入った」(13:27)とヨハネは記します。そしてユダは部屋から出ていきます。ヨハネは記します「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」(13:30)。

2.イエスは何故弟子たちの足を洗われたのか

・イエスは何故食事の前に弟子たちの足を現れたのでしょうか。ヨハネは12節以降でその解き明かしをします。「イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。『私があなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、私を先生とか主とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。私はそうである。ところで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない』」(13:12-14)。
・世の人々の栄光とは、人の上に立ち、人から賞賛されることです。しかし神の子の栄光とは、人を愛し、その救いのために自分の命を投げ出すことです。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10:11)。飼い葉桶というこの世で最も低い所に生を受けられたイエスは、今、死を前に、弟子たちの足を洗うという最も低い仕事をすることによって、弟子たちに「どう生きるべきかの模範」を示されたのです。だからイエスは言われます「主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」。
・イエスが弟子たちの足を洗われた契機の一つはユダのためであったと思われます。イエスはユダの心の中に疑念が、イエスは本当にメシア、神の子なのだろうかとの疑念が芽生えていることを承知されていました。そのユダに悔い改めを求めるために、イエスは弟子たちの足を洗い始められました。しかしイエスの思いは届かず、ユダは部屋を出て行きました。ユダが出て行った時「夜であった」(13:30)とヨハネは記します。ユダは心の暗闇を抱えて、夜の闇の中に出て行ったのです。

3.仕えることの意味は何か

・今日の招詞にルカ22:27を選びました。次のような言葉です「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、私はあなたがたの中で、いわば給仕する者である」。ルカの伝える「最後の晩餐」の時にイエスが言われた言葉です。最後の晩餐はイエスが弟子たちとお別れの食事を取られた時です。ルカ福音書のイエスは万感の思いを込めて弟子たちに言われます「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと私は切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、私は決してこの過越の食事をとることはない」(22:15-16)。「今日があなた方と食事を共にする最後の日である」とイエスは言われたのです。そして席上でユダの裏切りを懸念して言われます「しかし、見よ、私を裏切る者が、私と一緒に手を食卓に置いている」(22:21)。これは告発ではなく、懸念の言葉です。何とかユダに思い直してもらいたいとの思いが込められています。しかし、弟子たちはそれを告発の言葉と聞いてどよめきます。「誰だ。誰がそんなことをしようとしているのか」、「お前ではないか」、「いや私ではない」。言葉が席上を飛び交います。やがてその議論が「何故あなたは私の上席にいるのか」、「弟子になったのは私のほうが先ではないか」という、食卓の席順を争うものに変わり始めたとルカは記します(22:24)。
・イエスが最後の別れの言葉を述べられた直後に、弟子たちは「自分たちの中で誰が一番偉いか」という議論をしています。イエスが弟子たちの足を洗わねばならないと思われたのはこの時かもしれません。彼らは議論に夢中で、誰も他の人の足を洗おうとは考えていない。そのため、イエス自らが立ち上がって弟子たちの足を洗い始められたのです。イスカリオテのユダの足は汚れていましたので洗わなければいけない。しかし他の11人の足も汚れていたので11人も洗われる必要がありました。弟子たち全ても清められる必要があったのです。
・しかしこの清めによっても何も変わりませんでした。イスカリオテのユダは悔い改めることをせずに出ていき、他の11人もその後イエスが捕縛されると逃げ去りました。イエスは十字架で神にも人にも見捨てられたかのように、死んでいかれました。しかし、神は行為され、死なれたイエスを起されました。起されたイエスに再会した11人は戻って来て、「互いに足を洗い合いなさい」というイエスの教えに従って、教会を形成していきました。
・彼らは教会の指導をする人を、「ディアコニア」と呼びました。ディアコネオウ=食卓の給仕をするが原語です。イエスは「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席につく人が偉い。しかし私はあなた方に給仕をする」と言われました。弟子たちはその時は理解できず、誰が上席につくかを議論していました。しかし、イエスの復活に接した弟子たちは、言葉の意味を悟り始めます。そして「給仕する者」(ディアコニア)という言葉が「教会に仕える者」、さらには「執事」の意味になっていきます。イエスは弟子たちの足を洗う時に言われました「私のしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」。イエスの十字架と復活を経験して、教会はやっと「仕えることの意味」を理解したのです。その偉大な物語の発端が今日のヨハネ13章洗足の記事なのです。
・最後にマザーテレサの言葉を聞いて行きましょう。ヨハネ13章のイエスの奉仕(ディアコニア)の最も良い注解だと思います「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行うと、利己的な目的でしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい。・・・善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、し続けなさい・・・助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい。あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい・・・最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです」(マザーテレサ「日々のことば」より)。

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