江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年11月3日召天者記念礼拝説教(ピリピ3:10-14、後ろのものを忘れ、前のものに全身を傾け)

投稿日:2013年11月3日 更新日:

1.後ろのものを忘れ

・今日、私たちは召天者記念礼拝を覚えてここにいます。教会の礼拝においては召天者(死んだ方)の供養はしません。死後のことは神に委ねるからです。従って、今朝は「よく生きるために、よく死ぬ」ことの意味を聖書から聞いていきます。しかし「よく死ぬ」ことは容易ではありません。音楽評論家の吉田秀和氏は地下鉄サリン事件に関して一文を新聞に寄稿しました「TVで地下鉄サリン事件の一周忌ということで、殉職した職員を弔う光景をみた。実に痛ましい事件である。あの人たちは生命を賭けて多くの人を救った。(中略)年をとって涙もろくなった私はそのまま見続けるのが難しくなり、スイッチを切った。切った後で、あの人たちの魂は浄福の天の国に行くのだろうか、そうであればいいと思う一方で、『お前は本当にそう信じるのか』という自分の一つの声を聞く。そういう一切が作り話だったとしたらあの死は何をもって償われるのか。この不確かさの中で、彼らがより大勢の人の危難を防いだ事実を思い、私はもう一度頭を下げる」(1996年4月18日朝日新聞夕刊)。
・吉田氏のように、現代日本人の多くは、神や超越者の存在を信じたいと思い、また死後の浄福や天国を渇望しています。しかし、既成宗教の提示する天国や永世は信じられないというのが共通した心情ではないかと思えます。最新の統計によれば日本人で「信仰がある」と回答する人は30%弱であり、多くの人は「自分は無宗教である」と答えます。しかしその人々も、正月には初詣に行き、お盆にはお墓参りをします。日本人は無宗教と言うよりも、何かを信じていても、その対象を明確にできていないと言えます。
・今日の礼拝で、石居基夫著「私たちの死と葬儀」という小冊子をお配りしました。その中で石居先生は「日本人は、かつては死ねば自然に帰る、あるいは死後も共同体の中に生き続けるという死生観を持ち、平穏の内に死についていたが、今やその命を預けるべき自然はなくなり、所属する共同体も無くなって、死の受容が難しくなっている」と語られます。死後に帰るべき場所が無くなってしまった、死の受容が難しくなっている中で、現在を「よく生きる」ために、死の問題を何らかの形で解決することが必要です。その解決のヒントが使徒パウロの書いた「ピリピ人への手紙」の中にあると思います。パウロはローマの獄中からピリピ教会に手紙を書いています。彼はエルサレムで捕らえられ、皇帝の裁判を受けるために、ローマに護送されてきました。パウロがローマの獄中にいると知らされたピリピの教会は、パウロを慰めるために教会員のエパフロデテに贈り物を託して送り、ローマでパウロに仕えるように手配しました。そのエパフロデテが病気になってピリピに帰ることになり、彼に託して、パウロはピリピの人々に手紙を書きました。
・手紙の中でパウロは今の心情を語ります「兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(3:13-14)。パウロの目標とは何でしょうか。神から与えられる賞、永遠の命です。パウロはその前に書いています「私はキリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(3:10-11)。キリストは十字架上で苦しみ、殺されましたが、神はそのキリストを起こしてくださった、キリストは死者の中から復活されることによって、「眠りについた人たちの初穂となられた」(1コリント15:20)。だから私たちも復活の希望を持ち、その完成の日のために、今は「後ろのものを忘れよう」とパウロは言います。
・「よく生きるためには後ろのものを忘れる事が必要だ」とパウロは語ります。パウロはかつてユダヤ教の律法(神の戒め)による救いを熱心に求め、努力して律法学者となり、律法への熱心のあまり、異端と思えたキリスト信徒の迫害者にさえなりました。その彼がダマスコ途上で復活のキリストに出会い、キリストに捕らえられてしまい、教会の迫害者から伝道者になります(使徒9:1-9)。パウロはかつて教会の迫害者であった記憶を忘れようとしますが、忘れることはできません。人は過去を簡単に償却することはできないのです。その中で偉大な「忘れ」があるとティリッヒは説教集「永遠の今」で指摘します。それが「悔い改め」です。悔い改めとは人を向いていた方向性を転換し、神の方を向き、神の前に自分の罪を差し出すことです。罪を正面から認めることによって、人は罪にもかかわらず受容されるという経験をします。この偉大な忘れ、罪の赦しが人を立ち直らせます。
・パウロはユダヤ教の教師からキリスト教の伝道者になりました。そのことによって彼は教師という職を失い、ユダヤ教側から「裏切り者」として、命を狙われるようになります。今、投獄されているのもユダヤ教当局からの告発によるものです。彼はすべてを失くしましたが、キリストに出会って命を見出しました。命を見出した人はこれまで大事だと思っていたものさえ捨てます。パウロは過去の罪を忘れることは出来ませんでしたが、それにもかかわらず、「後のものを忘れる」ことが出来ました。この「罪の忘れ」、「罪の赦し」こそが、挫折し絶望する人を再び起き上がらせる力を持ちます。赦しとは「忘れていないにもかかわらず忘れる」ということです。罪が赦されて、その罪が忘れ去られるが故に、人は新しい関係を生きることが出来るようになります。

2. 前のものに全身を傾け

・パウロは「前のものに全身を向けつつ」と言いますが、何が前にあるのでしょうか。ここに別の「忘れる」ということ、あるいは「忘れ去られる」ということ、すなわち「死」が関係するとティリッヒは語ります。「生あるものは全て死ななければいけない」、人間はそのことを認識します。しかし、死はあまりにも怖く、それを考えまいとし、忘れようとしますが、いくら忘れようとしても、人間の死の苦悩は取り除かれません。死ななければならないという不安は、「忘れ去られる」という不安です。自分がかつて存在したことが全て忘れ去られてしまう恐怖が死の恐怖です。この忘れ去られることの象徴が「葬り」です。葬りは意識の領域から取り除かれる、地上からの除去を意味します。死の不安は死ぬ時の過程にあるのではなく、「永遠に忘れ去られる」ことの不安なのです。
・イエスも死んで墓に葬られました。パウロは語ります「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと」です(1コリント15:3-4)。キリストは死なれ、葬られました。そのままであれば忘れ去られたでしょう。しかしそれだけでは終わりませんでした。パウロは教会の伝承を伝えます「(キリストは)聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(同15:4-5)。そしてそのキリストは「最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」(同15:8)と証言します。

3.主にある平安

・今日の招詞としてピリピ1:21-24を選びました。次のような言葉です「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、私には分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」(1:21-24)。
・パウロは獄中にいます。裁判の結果、自分が無罪放免されるのか、あるいは有罪として処刑されるのか、知りません。しかしどちらの結果になるにせよ、神の導きに委ねようと考えています。パウロの考える救いは牢獄からの解放ではなく、あくまでも永遠の命、究極的な霊の救いです。人にとって「生きるか死ぬか」は大問題ですが、パウロにはそれほどの重要性を持ちません。彼にとって「死ぬことは利益なのです」。この時のパウロはおそらく50代後半でしょう。平均寿命が50歳に満たない当時、「もう十分に生きた」という感慨は持っていたでしょう。「戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜いた」(2テモテ4:7)という思いもあります。彼にとって死は休息であり、キリストと共なる生に入ることでした。他方、自分が死ねばピリピや他の教会の行末はどうなるのかという心配もあります。だから生きるべきだとも考えています。彼には死の不安や恐怖はありません。自分の死を神に委ねているからです。人が自分の死にこだわる時、人は死の不安から逃れることはできません。しかし、死を神に委ねた時、人は自分の死の不安から解放され、解放された者は他者の生死を励ますために生きることができるようになります。ですからパウロの気がかりは自分ではなく、ピリピの人々です。パウロは最終的にはローマで殉教して死んでいきます。処刑されたのです。しかしパウロ自身はそれを不幸とか残念とか思っていなかったでしょう。死の問題は解決していたからです。
・ティリッヒは「私たちを忘れ去られる不安から解放するもの、それは“永遠なる存在”に“永遠に知られる”ことだ」と言います。永遠なる存在、聖書はそれを「神」と呼びます。私たちの根源的問いは「私たちはどこから来たのか」、「私たちが今存在する意味は何か」、「私たちは死んだらどこに行くのか」です。これに対して聖書は「私たちは神によって創造され」、「私たちは神によって生かされ」、「私たちは死ねば神の元に戻る」と語ります。それを信じる時、「私の肉は死によって失われ、私が生きてきた足跡も消えるだろうが、私の本質は永遠なる存在によって覚えられ、忘れ去られることはない」という希望を持つことができます。「より良く生きるため」には、「より良く死ぬ」ことが必要であり、そのためには「永遠なる存在に出会う」ことが必要です。イエスは語られます「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(ルカ11:9-10)。死の準備とは唯一つ、「神を求める」ことだけです。

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