1.神の見捨ての中のイエスの死
・マルコ福音書を読んでおります。イエスは木曜日の夜に捕らえられ、死刑宣告を受け、金曜日の朝9時に十字架にかけられました(15:25)。十字架刑はローマに反逆した者に課せられる特別な刑です。受刑者はむち打たれ、十字架の横木を担いで刑場まで歩かされ、両手とくるぶしに鉄の釘が打ち込まれて、木に吊るされます。手と足は固定されていますので、全身の重みが内臓にかかり、呼吸が苦しくなり、次第に衰弱して死に至ります。マルコはその残虐刑にあわれたイエスの死を、感情を入れないで淡々と書き記します。
・彼は記します「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(15:33)。聖書においては、闇や暗黒は神の裁きを象徴します。ここでは、実際に天変地異が生じたというよりも、マルコがイエスの十字架死を終末の、神の裁きの出来事と理解したゆえの表現でしょう。アモス書には「その日が来ると・・・私は真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする」(アモス8:9)という預言があります。「神の子が十字架で殺される」、「これは主の裁きの日だ」とマルコは「全地は暗くなり」という表現で語っています。
・3時になった時、イエスが大声で叫ばれます「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」(15:34)。イエスの十字架刑の時、ガリラヤから来た女性たちが立ち会っていました。彼女たちはイエスの断末魔の叫びをゴルゴダで聞き、それを聞いたままに弟子たちに報告し、やがてそれが伝承となり、マルコ福音書の中に取り入れられたものと思われます。この言葉はイエスが日常話されていたアラム語で残されています。おそらく、イエスの肉声を伝える言葉です。その意味をマルコは「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」とギリシャ語に直して掲載します。
・イエスの最後の言葉「わが神、わが神、どうして私を捨てられたのか」は、初代教会の人々に大きな衝撃を与えました。「神の子が何故絶望の叫びを挙げて死んでいかれたのか」、「神の子は私たちのために身を捧げるために来られたのではないのか」、弟子たちはイエスの言葉を理解できませんでした。そのような思いがこの叫びを、イエスは詩篇22篇の冒頭の言葉を語られたのだという理解に導きます。マタイはイエスの叫びをヘブル語に修正します「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(27:46)。ヘブル語で書かれた詩篇の言葉に近づけるためでしょう。詩篇22篇は4節からは讃美に転じており、イエスは神を賛美して死んでいかれたのだという理解です。ただこの解釈には無理があります。何故ならば、引用句自体が絶望の叫びであることは否定出来ないからです。
・ルカは、イエスが死を前にこのような絶望の叫びをされるはずがないという視点から言葉を削除し、「父よ、私の霊を御手に委ねます」(23:46)という従順の言葉に変えました。ヨハネはイエスの十字架死は贖いのためであったと理解し、最後の言葉を「成し遂げられた」(19:30)という言葉にします。それぞれの福音書記者の信仰によって、イエスの最後の言葉の修正が加えられていきました。このような修正を経ることによって、イエスの十字架死の意味が、「神の見捨て」から、「栄光のキリスト」に変えられていきます。
・しかし、イエスの死の美化はゲッセマネで悶え苦しむイエスの姿を無視しています。マルコは死を前にして悶え苦しむイエスの姿を隠しません。ゲッセマネのイエスは「私は死ぬばかりに悲しい」(14:34)と言われ、「この杯を私から取りのけて下さい」と父なる神に切望されます(14:36)。またヘブル書もイエスの苦しみを証言します「キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブル5:7)。イエスは苦しんで、絶望の中で死んでいかれた、私たちはこの事実を直視する必要があります。
・私たちは歴史の真実を私たちの思いで変えてはいけない。変えることによって、十字架の本当のメッセージが見えなくなってしまうからです。「わが神、わが神、どうして」、多くの人がこの体験をします。先の大震災では無念の内に2万人の人が亡くなりました。原爆で殺されていった人たちも、「何故」と問いながら死んでいかれました。人生には多くの不条理があります。もしイエスが平穏の内に、神を賛美されながら、死んでいかれたとしたら、そのイエスは私たちと何の関わりもない人です。ある牧師は語ります「イエスもわれわれと同じように生きて、同じように死の苦しみと不安を覚えられた。この事実がイエスとわれわれの距離感を縮める。神の前では全てが受け入れられる。嘆き悲しむ時は嘆き悲しんでも良い。イエスですら死に臨み、悲鳴し、絶望したのだから、死に直面した時のわれわれの弱さとて義とされる。これは何よりも慰めになり、癒しになるのではないか」。
2.弟子たちもその場にいなかったが、婦人たちがいた
・イエスの叫びを聞いて、周りにいた人々は言いました「そら、エリヤを呼んでいる」(15:35)。預言者エリヤは生きたまま天に移され、地上の信仰者に艱難が望むとこれを救うと信じられていました。そのため、人々はイエスの「エロイ、エロイ」という叫びを、エリヤの助けを求める叫びと考え、「エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いました(15:36)。しかし、エリヤは来ませんでした。ローマの番兵は海綿に酸いぶどう酒を含ませてイエスに飲ませようとしますが、イエスは拒否されます。このぶどう酒には没薬が混ぜてあり、飲むと痛みが軽減されます。しかし、イエスは苦痛を軽減されることなく、苦しみをそのままに受けられました。そして最期に大声で叫ばれて息を引き取られます。何の奇跡も起来ませんでした。
・その時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」とマルコは報告します(15:38)。神殿の垂れ幕、神殿の聖所と至聖所を隔てる幕のことです。これも象徴的な意味を持ちます。イエスの死によりユダヤ教の神殿祭儀はもはや不要になった、そのことをマルコはこの表現を用いて語っているのです。マルコ福音書の読者は紀元70年にエルサレム神殿がローマ軍によって破壊され、今は廃墟となっている歴史を知っております。読者たちは神殿の垂れ幕が裂けたことを通して、神ご自身が神殿を破壊されたと理解しています。39節にイエスの処刑を指揮していたローマ軍百卒長が「本当にこの人は神の子だった」と告白する記事をマルコは挿入します。この出来事が史実であるか不明です。ただイエスの死の真実を深く言い表した言葉だと思えます。絶望の中でなお神の名を呼んで死んでいかれたイエスに、彼は「神の臨在」を見たのです。
・イエスの十字架刑の時、ただ婦人たちのみが立ち会ったとマルコは記します(15:40)。弟子たちは逃げ去っていました。イエスの仲間として捕えられるのが怖く、また十字架上で無力に死ぬ人間が救い主であると信じることが出来なかったのです。弟子たちはイエスを捨てました。しかし、婦人たちはそこに残り、細い糸はなおつながり、やがてこの婦人たちがイエスの埋葬を見守り、復活のイエスの目撃者になり、その出来事を通して弟子たちに信仰の回復が起こります。
3.イエスの十字架の中に神の臨在を見る
・今日の招詞に�コリント7:10を選びました。次のような言葉です「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。マルコは、イエスが十字架上で、大声を出して死んでいかれたと記します。この点に関し、聖書学者の廣石望氏は語ります「イエス自身は、自らの死をどのように理解したのでしょうか。詳細は不明です。はっきりしているのは、『イエスは人々の罪の贖いとして自らの命を捧げるという自覚をもって十字架についた』という理解は、復活信仰をふまえた原始キリスト教における再解釈だということです。この理解はそのままイエス自身の理解には遡りません・・・ではイエスはその死にどのような意味を見出したのか、この点について意見はさまざまです。私に最も本当らしく思われるのは、イエスは十字架刑で処刑されることに積極的な意味を見出せなかった、つまり絶望とともに死んでいったというものです」。(2008.3.16代々木上原教会説教)。
・イエスは大声で、ほとんど非難するように、神に叫ばれました。神は見えません。闇が全てを飲み込んでいます。それにもかかわらず、イエスは「わが神、わが神」と叫ばれました。苦難がなぜ与えられるのか理解できない、神がなぜ沈黙されておられるのか分からない。しかし神はそこにおられ、この叫びを聞いておられる。その確信がイエスに「わが神、わが神」と叫ばせたのです。この叫びは信じるゆえの叫びであり、極限の中の信仰の叫びなのです。ヨセル・ラコーバーという人がいます。1943年にワルシャワで殺されたユダヤ人です。1939年ドイツ軍はポーランドに侵攻し、ワルシャワ市内にいたユダヤ人50万人はユダヤ人居住区(ゲットー)に押し込められ、周囲と隔離されました。当初はユダヤ人の隔離と強制労働が中心でしたが、やがて民族絶滅に方針が変わり、ゲットーから大勢の住人が絶滅収容所に移送されていきます。「このまま死を待つよりは戦おう」としてゲットーのユダヤ人たちは叛乱を企てますが、ドイツ軍に制圧され、住民は殺されます。その中の一人がヨセル・ラコーバーです。彼は死を前に手記を書き、それをガラス瓶の中に入れ、レンガ石の裏に隠しました。戦後、その手記が発見され、出版されました。その中で彼は書きます「神は彼の顔を世界から隠した。彼は私たちを見捨てた。神はもう私たちが信じることができないようなあらゆることを為された。しかし私は神を信じる」(Yosel Rakover,Talks to God,by Zvi Kolitz)。このラコーバーの気持「しかし私は神を信じる」が、十字架のイエスの気持ちに最も近いように思えます。
・神はイエスを十字架で見捨てられました。しかし、墓に葬られたイエスを神は起されます。ペテロは証言します「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました」(使徒2:24)。絶望の中で「わが神、わが神、どうして」と叫んで死んで行かれたイエスを、神は復活させてくださった。そこに私たちの希望の源泉があります。その時、私たちは叫びます「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせる」と。イエスの十字架上での絶叫こそ、神の御心に適った悲しみであり、私たちが本当に聞くべき言葉なのです。