江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年10月20日説教(マルコ14:66-72、弱さから強さへ)

投稿日:2013年10月20日 更新日:

1.ペテロの否認

・マルコ福音書から受難物語を読み続けています。イエスがゲッセマネの園で捕らえられた時、弟子たちは自分たちも捕らえられることを恐れて逃げ去って行きます。ペテロも一旦は逃げましたが、しかしイエスのことが心配になり、イエスが連行された大祭司の屋敷まで後を追いかけていきます。しかし、その屋敷で大祭司の女中から「あなたもあのナザレ人の仲間だ」と問われ、思わず否定します。しかしさらに追求され、最後は「誓って知らない」と強く否定し、その時にイエスが先に言われた言葉、「鶏が鳴く前に三度私を知らないと言うだろう」(14:30)という言葉を思い起こし、外に出て激しく泣き出します。「ペテロの否認」物語は多くの人々に、「これは私の物語」だと思わせる真実性を持って迫ります。人は信じていてもその人のためには死ねない存在だからです。だれでも、多かれ少なかれ、他の人を裏切った苦い経験を持っています。多くの画家がこの物語を絵画表現しましたが、レンブラントはルカ福音書に基づいて「聖ペテロの否認」という絵を描きました。罪を犯したペテロをイエスが遠くから悲しげな目で見つめる構図になっています。
・イエス捕縛の折、弟子たちはみな逃げてしまいましたが、ペテロはイエスのことが気にかかり、「遠く離れてイエスに従った」(14:54)とマルコは記します。ペテロは「イエスに従いました」、それはイエスを愛していたからです。しかし、「遠く離れて」、自分が捕えられることを恐れていたからです。ペテロは恐れながらもイエスの後を追って大祭司の屋敷に入り込み、人々が火にあたりながらイエスの判決を待っている所まで行きました。彼は目立たないように身を潜めて、イエスの様子をうかがっていましたが、門番の女中はペテロを怪しんで中庭までついて来て、「あなたもあのナザレのイエスと一緒にいたのではないか」(14:67)と問責します。前にペテロがイエスと一緒にいた時に見かけたのでしょう。ペテロは本能的に反応します「あなたが何を言っているのか分からない」(14:68)。最初の否認です。
・市川喜一という聖書学者はこの記事について次のように言及します「初期のキリスト者たちはナザレ派と呼ばれ、ナザレ派であることがわかれば会堂を追放されていた。会堂追放は村八分を意味する。大祭司邸で女中の放つ『あなたもあのナザレ人と一緒だった』という告発の言葉の中に、『お前もナザレ派の者か』と会堂で問い詰められていた初期ユダヤ人キリスト者たちの苦悩が二重写しになっている」。初代教会の人々が経験したイエスの否認がペテロの言葉の中に投影されていると言うのです。初代教会の人々はユダヤ教徒から迫害を受け、「お前はナザレ派の者ではないか」と詰問されましたが、やがてキリスト教徒が優勢になると、今度はユダヤ人が「お前はユダヤ人ではないか」と迫害され、ユダヤ人がイスラエル国家を形成すると今度はパレスチナ人に対して「お前はテロリストではないか」と問い詰めていきます。少数者が、弱者が、常に傷めつけられていく構図がここにあります。

2.ペテロの涙

・ペテロは臆病ではありません。イエスのためであれば死んでも良いと心底から思っていました。その証拠に、他の弟子たちが逃げ去っていった中で、彼一人、危険を冒して大祭司の邸まで来ました。そのペテロの勇気がこの女中の一言で吹き飛んでしまいます。私たちも危機に直面し、頭の中が真っ白になり、自分が何をしているのかわからなくなる時があります。この時のペテロがそうだったのでしょう。女中に指摘されて、身の危険を感じたペテロは、人々の目を逃れるために出口の方へ身を寄せます。いつでも逃げられるように、です。しかしイエスのことが気になり、門の外には出ることができません。女中はそのペテロを見つめ続け、「この人はあの人たちの仲間です」とそこにいた人々に告発します(14:69)。ペテロは自分に言われているわけでもないのに、重ねて否定しました。二度目の否認です。
・女中の言葉を受けた人たちがペテロを見つめて言います「確かにお前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」(14:70)。ガリラヤ人には独特の訛りがあったと言われています。その訛りでペテロがガリラヤ人であることがわかりました。エルサレムの正統派ユダヤ教徒から見れば、イエスの宣教の業はガリラヤから生まれた異端運動であり、危険なものと映っていたのです。ペテロは呪いの言葉を吐きながら否定します「あなた方の言っているそんな人は知らない」。「呪いの言葉」、ヘブル語「ヘーレム」は殺す、滅ぼすという意味を持つ強い言葉です。そのヘブル語がギリシャ語に翻訳されて「アナテマ」になります。後には破門や異端を糾弾する言葉になります。ペテロはそのような強い言葉を用いて「そんな人は知らない」と言っているのです。三度目の否認です。否認のたびにその調子は激しくなり、嘘はどんどん拡大して行きます。
・「するとすぐ、鶏が再び鳴いた」とマルコは伝えます(14:72a)。その鳴き声でペテロは我に帰ります。そしてイエスが言われ言葉を思い出しました「にわとりが二度鳴く前に、三度私を知らないと言うであろう」(14:30)と。ペテロはいまや自信も信仰も全く無くなり、外に出て泣き出します(14:72b)。自分の惨めさに泣いているのです。ほんの数時間前にペテロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言いました(14:31)。そのペテロが今や「あなたなど知らない」と呪いながら否定しています。人間的な忠誠心も勇気もいざという時には無力です。その無力を知った時、人はどうするか。ある人は「弱さを人に見せない、自分の力で何とかしよう」とします。イスカリオテのユダが取った方法です。しかし、ユダは最後には自殺に追い込まれていきます。他方、その弱さを神の前に、人の前に告白する人もいます。ペテロがそうです。その結果、「ペテロの否認」という物語が私たちに残され、私たちはそれを自分の物語として、それぞれの立場で、聞いています。普通、どのような集団も指導的人物の弱さや失敗は隠そうとします。しかし、初代教会は、師に対する裏切りとも言えるほど深刻なペテロの否認の物語を詳しく語り続けます。何故ならば、この物語の中にこそ、福音(良い知らせ)があるからです。

3.ペテロの復活

・ペテロはイエスを裏切り、外に出て、大泣きしました。しかし、死を選びませんでした。その結果、彼は復活のイエスに出会い、教会の指導者として生かされていきます。そのペテロが自分の過ちを告白した文章が聖書の中に残されています。今日の招詞として選びました第一ペテロ2:24がそれです。ペテロは告白します「そして(イエスは)十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。
・ペテロはイエスを裏切りました。しかし復活されたイエスは最初にペテロに顕現されます。パウロは証言します「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペテロ)に現れ、その後十二人に現れたことです」(�コリント15:3-5)。ペテロはイエスとの再会によって、自分の過ちにも関わらず、イエスが自分を赦して下さったことを知り、新しい命に生きます。
・彼はその後、命がけで信徒の群れを守り、紀元67年、ネロ皇帝迫害下のローマで殉教したと言われています。マルコは紀元70年頃書かれたと言われますので、ペテロの殉教を知っています。殉教者ペテロでさえ、若い時にはイエスを否定したことがあった、それは弱い私たちへの慰めの物語だとして、マルコはあえてペテロ否認の物語を受難物語の中に組み込んでいきます。ペテロは生前に何度も、自分がイエスを裏切ったこと、それにも関わらずキリストは彼を赦して下さったことを、教会の信徒たちに話したのでしょう。「(イエスは)十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」という告白は、ペテロの生々しい体験から生まれた証言の言葉なのです。そしてペテロは言います「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。イエスの恵みはあなた方にも同じように与えられるとペテロは力説します。
・イエス捕縛の時に逃げ、大祭司の女中の一声に我を忘れてイエスを否認したペテロが、後にはイエスのために殉教するほどの者に変えられていきます。殉教のペテロはもはやイエスを否認したペテロではありません。打ち砕かれて新しく生まれたペテロです。これはペテロの努力や修行による成果ではなく、ただ神の恵みによるものです。人が自分の能力や道徳や誠意とかに依存している時、その信仰は必ず挫折します。イスカリオテのユダのように、です。人はそれほど強くないのです。一度犯した罪や過ちを消すことはできません。しかし、それを浄化することはできます。それが悔い改めです。悔い改め、ギリシャ語「メタノイア」はヘブル語「シューブ」のギリシャ語訳です。意味は方向転換して神に立ち戻る、神の前に自分の罪を明らかにして差し出すことです。ペテロは自分の罪を神の前に差し出した。神はそれを見て、ペテロを起こしてくださった。罪とその苦しみを正面から認めることによって、罪にもかかわらず受容されるという経験をもたらします。人が挫折した所から神の業が始まります。ペテロのように、です。私たちはそれを信じても良い、ペテロのイエス否認物語はそれを私たちに伝えます。

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