1.ゲッセマネから大祭司の邸へ
・マルコ福音書の受難物語を読んでいます。イエスは木曜日の深夜、オリーブ山のふもとにあるゲッセマネの園で捕縛され、大祭司の邸に連れて行かれました。そこには祭司長、長老、律法学者が既に集まり、イエスの裁判が始まったとマルコ福音書は記します(14:53-55)。祭司長、長老、律法学者は最高法院(サンヘドリン)の構成員でした。当時のユダヤはローマの支配下にあり、ローマ総督の管理下に最高法院が自治権を与えられて統治し、その議長は大祭司でした。イエスは大祭司の命令によって捕えられ、その大祭司が議長を務める最高法院で裁かれたとマルコは伝えます。捕えた者が裁くのであれば、最初から有罪は決まっています。裁判の席には裁判官と告発者だけがおり、弁護者も群衆もいません。そのような中でイエスは審問を受けます。
・多くの者がイエスの罪を明らかにする為に偽証する中で、イエスは沈黙を守られ、一言も弁明されませんでした。しかし大祭司が「あなたは神の子、メシアなのか」と尋ねた時には、はっきりと「私がそれである」と答えられたとマルコは伝えます。イエスが自分は神の子、メシアであると公に認められたのはこれが始めてです。そしてイエスが神の子、メシアであるとすれば、人間は神を被告席につけて裁いたことになります。マルコは、神が人間によって裁かれ、有罪とされ、死刑を宣告されるという出来事が起こったとここに記します。それは、どのようにして起こったのか、それが現在の私たちにどうかかわるのかをご一緒に考えて見たいと思います。
・イエスが捕えられて連れて行かれたのは大祭司の邸であり、そこには祭司長たちや律法学者たちがイエスを待ち受けていたとマルコは記します。しかし最高法院の審理は夜中には開かれず、朝を待って開かれるのが通常です(15:1)。おそらくイエス逮捕を命じた大祭司カヤパとその父アンナス等、何名かのユダヤ教側主力メンバーがイエスを尋問し、死刑を言い渡し、夜明けと共に開かれた最高法院の正式な審議でその決定を追認したというのが史実に近いと思われます。その大祭司の屋敷の中庭にはペテロが忍び込んで、裁判の模様を窺っていました。
2.被告席に立つ神
・祭司を中心としたユダヤ教指導者たちは、律法を軽視し、自分たちの権威を認めないイエスを苦々しく思っていましたが、その敵意が殺意に代わったのは、イエスの神殿批判と神殿崩壊預言でした。イエスは祈りの家である神殿を商売や金儲けの場所に変えてしまった祭司たちを批判し(11:17)、神殿に参拝すれば救われるという彼らの偽善を告発し、そのような神殿は神により崩されるであろうと預言しました(13:2)。そして実際に神殿の前庭から両替商や商売人を追い出すという過激な行為もされています。神殿当局者にとっては自分たちの権威に対する挑戦と思えたことでしょう。今日的に言えば伊勢神宮や明治神宮に参拝し、それは偶像の社に過ぎず、真の神はそこにおられないと批判されたようなものです。いや当時のユダヤは宗教指導者たちが社会の実権を持つ時代でしたから、今以上に衝撃的な出来事でした。マルコはその状況を次のように記します「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」(11:18)。
・今日の審問の場面でも、神殿冒涜罪が大きな罪状でした。祭司長たちは告発します「この男が、『私は人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、私たちは聞きました」(14:58)。神殿崩壊をイエスが預言されたのは事実です。最高法院を構成する者たちの主力は祭司であり、彼らにとっては神殿こそ聖なるもの、信仰の中心でした。その神殿を侮辱した、それだけで死罪に当たると祭司たちは考えたのです。かつて同じように神殿批判をした預言者エレミヤも逮捕されて死刑判決を受けていますし、後に同じように神殿を軽視する発言をした初代教会のステパノも石打ち刑で殺されています(使徒7:54-60)。
・もう一つの罪名は「神名詐称」です。神殿を批判されたイエスに祭司長たちは迫ります「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」。人の権威で答えれば「神殿冒涜罪」になり、神の権威でと答えれば「神名詐称」です。イエスは何も答えられません。苛立つ大祭司はイエスに尋ねます「お前はほむべき者の子、メシアなのか」(14:61)。それに対してイエスは答えられます「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(14:62)。このイエスの答えは後の教会の信仰告白がここに挿入されていると多くの聖書学者は考えています。後半部分は詩篇110:1,ダニエル7:13からの引用です。しかしイエスがこのような趣旨の発言をされたこと、少なくとも「お前は神の子か」との問いを否定されなかったのは事実でしょう。イエスは自分が神から遣わされてここにいることは固く信じておられました。当時のユダヤ人たちは神の名を口にするのをはばかるほどに神を恐れ、敬っていました。ですから彼らは神の名を直接に言わずに「ほむべき者」と敬って言いました。その彼らにイエスは「自分は神から遣わされた」と明言されます。これはユダヤ人にとっては許すことの出来ない神への冒涜です。イエスの言葉を聞いた大祭司は衣を引き裂いて怒りを現しました「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか」」(14:63-64)。モーセは律法で「主の名を汚す者は必ず殺されるであろう。全会衆は必ず彼を石で撃たなければならない」(レビ記24:16)と定めています。集まった者たちはこの律法の規定に従ってイエスに死刑の判決を下しました。しかし最高法院には死刑の執行権がありませんでしたので、イエスの身柄をローマ総督の下に送ります。先週見ましたようにイエスの逮捕には神殿警備兵と共にローマ軍も出動しています。イエスは単なるユダヤ教の異端者として逮捕・処刑されたのではなく、ローマに反乱を起こしかねないメシア運動首謀者としてローマ軍によって処刑された。そのところを知ることは大事です。イエスは死んだのではなく、殺されたのです。
3.人間の権威と神の権威
・イエスは「おまえは神の子、メシアか」と問われ、「私がそれである」と答えられ、これが直接の証拠となり、イエスは死刑を宣告されます。イエスの死後、弟子たちもまた同じ様な一方的な裁判にかけられて、有罪を宣告されています。今日の招詞に使徒言行録4:18-19を選びました。次のような言葉です「そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた『神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください』」。
・イエスの死後、弟子たちは「あなた方が殺したイエスを神は死人の中からよみがえらせた。私たちはその事の証人である」(使徒3:15)と宣教し、ユダヤ当局に捕えられ裁判にかけられました。弟子たちを裁いた者たちはイエスを裁いた者たちと同じ顔ぶれです。ルカはその裁判の模様を記します「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて『お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか』と尋問した」(使徒4:5-7)。この大祭司一族こそイエスに死刑を申し渡したユダヤ教指導者です。
・彼らはイエスの弟子たちに言いました「今後イエスの名によって語ることも説くことも相成らぬ」(使徒4:18)。イエスの逮捕・処刑の折、自分たちも捕えられることを恐れて逃げた弟子たちであればこれくらい脅せば十分だろうと当局者たちは考えました。ところが、臆病だったはずのペテロが言います「人間に従うよりは神に従うべきである」。彼らは言ったのです「私たちを殺したければ殺しなさい。私たちは主が命じられたように“体を殺しても魂を殺すことの出来ないものは恐れない(マタイ10:28)”」。
・イエスの逮捕時に逃げ出し、大祭司の中庭で「おまえもイエスの仲間だろう」と言われて三度イエスを知らないと言ったペテロが、何故このように勇敢になれるのでしょうか。聖書はペテロが復活のイエスに出会って変えられたからだと言い、私たちもそう信じます。イエスが裁判を受けて一方的に有罪にされたように、ペテロたちもまた有罪とされました。しかし彼らはくじけませんでした。釈放された彼らは仲間が待つ所に帰ると、共に祈ります「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」(使徒4:29)。彼らは「自分たちをこの苦難から救って下さい、大祭司たちから守って下さい」とは祈りません。そうではなく、「大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と祈ります。その結果、自分たちが殺されても構わないと彼らは思い始めているのです。この信仰が教会を形成しました。
・「神はイエスを通してご自身を啓示してくださった、私たちはイエスを通して神に出会うことができる」。それが初代教会の信仰であり、私たちの信仰でもあります。しかし大祭司たちはそのイエスを被告席に立たせ、死刑判決を下し、殺してしまいました。C.S.ルイスの書いた「被告席に立たされる神」という本があります。その中でルイスは言います「古代人は鋭い罪意識を持ち、被告人が裁判官に近づくように神に近づいていった。しかし現代人は罪の意識を持たずに自分が裁判官となり、神が被告席につく」。現代人は言います「もし神がいるならば、600万の人がアウシュビッツで殺された時、神は何もしなかったのか」、「もし神がいるなら3.11の大津波で2万人の人が溺れ死ぬのを放置されたのか」。「もし神がいるなら、本当にいるのならば、それを証明して見せよ」、現代人は神を被告席に立たせ、裁いているのです。
・前にロバート・スチーブンソン(「宝島」を書いた小説家)の祈りをご紹介したことがあります。スチーブンソンがらい病者を隔離した島を訪問した時の祈りでした「このところには哀れなことが限りなくある、手足は切り落とされ、顔は形がくずれ、苛まれながらも、微笑む、罪のない忍苦の人。それを見て愚か者は神なしと言いたくなろう。一目見て、しり込みする。しかし、もう一度見つめるならば、苦痛の胸からも、うるわしさ湧ききたりて、目にとまるは歎きの浜で看取りする姉妹たち、そして愚か者でも口をつぐみ、神を拝む」。人間を差別し、嘲笑し、心に深い傷を与えるのは人間です。しかし、同時に心に傷を持った人々のために、祈り働くのもまた人間です。ペテロのように神によって変えていただいた人間です。
・大祭司はイエスを「神を冒涜した」として告発し、議員たちは死刑に価するという判決を下しました。大祭司の下役たちはイエスをあざ笑い、弟子のペテロはイエスを知らないと否認しました。こうしてイエスは十字架で殺されて行かれました。前途に何の光も見えない闇の世界でした。しかしイエスを否認したペテロは今、大祭司の前で言います「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えて下さい」。そして「思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と祈ります。ペテロは変えられました。神が変えてくださったのです。ですから、私たちもこの悪の世で祈ることができます「大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」。この祈りから世の中は変わっていきます。