江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年9月29日説教(マルコ14:32-42、ゲッセマネの祈り)

投稿日:2013年9月29日 更新日:

1.ゲッセマネにて

・マルコ福音書から、イエスの受難物語を読み続けています。今日は14章「ゲッセマネの祈り」を読みますが、物語には弟子たちの裏切りと見捨てが暗い影を及ぼしています。マルコは記します「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った・・・ユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた」(14:10-11)。木曜日にイエスは弟子たちと過ぎ越しの食事を持たれますが、この最後の晩餐においてもユダの裏切りがイエスの心の痛みになっています。席上でイエスは語られます「あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」(14:18)。食事を終えた一行はオリーブ山に向かいますが、途上でイエスは弟子たちに「あなたがたは皆私につまずく」と預言されます(14:27)。ユダはすでに一行から離脱し、イエスは今夜にも捕り手たちが来て、その時、他の弟子たちも逃げ出すであろうと予期されています。そのような重苦しさの中で、一行はオリーブ山に到着しました。
・オリーブ山はエルサレム郊外の小高い丘で、そのふもとにゲッセマネ(油絞り)の園がありました。オリーブの油を絞る設備があったところからその名がつけられましたが、イエスは以前にもよくこの場所に来ておられました。イエスは三人の弟子を連れて、園の奥深くに進んで行かれます。マルコはその時の情況を次のように記します「一同がゲッセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、『私が祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた『私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい』」(14:32-34)。
・エルサレム入城後、ユダヤ教指導者たちとの対立は日に日に強まり、その結果殺されるかも知れないとイエスは感じておられました。しかしいざその時が近づいた時、イエスはたじろがれ、不安になられ、もだえ苦しまれました。私たちが驚くのは、イエスが心の動揺を弟子たちにお隠しにならなかったこと、またマルコ福音書がそれをありのままに記していることです。私たちが苦しみの中にある時、その苦しみを人に知られまいと隠し、自分の力で何とかしようと思います。人は他者に対して弱さを見せることを嫌がり、自分を閉じるのです。しかし、苦しみを解決できない時、その苦しみは人を押しつぶします。イエスは自分の苦しみをありのままに弟子たちに示され、共に祈ってほしいと言われます。他者に対してその苦しみを見せることは、他者に自分を開くことです。
・「私は死ぬばかりに悲しい」、この言葉を弟子たちも聞き、彼らも共に祈り始めます。イエスは祈られます「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください」(14:36a)。「死の杯を取り去って下さい、今死ぬことの意味が理解出来ません」とイエスは祈られます。しかし、神は何の応答もされません。イエスは神の沈黙の中に、その御心を見られました。だから彼は続けて祈られます「しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(14:36b)。「理解できないことであっても、それがあなたの御心であれば受け入れていきます」とイエスは言われました。
・イエスは死を受け入れる決心をされると弟子たちの所に戻られます。しかし、イエスと祈りを共にするはずだった弟子たちは、睡魔に負けて眠り込んでいます。人は自分のためであれば、徹夜で祈ることができます。しかし他者の苦しみや悲しみのためには徹夜できない。イエスはその人間の弱さを知っておられるゆえに、ペテロを叱責されません。イエスはペテロに言われます「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(14:37-38)。
・イエスは再び奥の方に進み、祈られます。見ると、弟子たちはまた眠り込んでいます。イエスは弟子たちを起こさないように、祈りを続けられます。三度目の祈りを終えて帰ってきても、弟子たちはまだ眠り込んだままです。イエスは弟子たちを起こして言われます「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た」(14:41-42)。下の方から、ユダに率いられた捕り手が来るのが見えたのでしょう。もうイエスには迷いはありません。三度の祈りを通してイエスは父なる神の御心を受け入れられた、「誰かが苦しまなければ救いはないのであれば、私が苦しんでいこう」。その決意が「立て、行こう」という言葉の中に現れています。

2.私たちを赦される主

・この物語を通して私たちは人間の弱さを見ます。最初の弱さはイエスの弱さです。イエスは「死を前におののかれた」。人は言うでしょう「ソクラテスは不当な判決であるのにそれを平然と受け入れ、毒薬を飲んで死んでいった。それなのにイエスは死を前におののくのか」。しかし私たちはイエスの弱さに慰めを覚えます。私たちもまた、苦しみの杯を飲まなければいけない時があります。重い病に冒された、生涯をかけた事業が破産に追い込まれた、愛する人が亡くなった、人生には多くの波風があります。その中で私たちは必死に祈りますが、神が答えて下さらない時があります。どうして良いのか分からず、私たちは「もだえ苦しみます」。その時、私たちはイエスさえおののかれたことを知り、慰められます。私たちのために弱さを隠されなかったからこそ、この人は私たちの友となられるのです。
・二番目の弱さは弟子たちの弱さです。ペテロはイエスが「今夜、あなたがたは皆私につまずく」(14:27)と言われた時に大見得を切りました「たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません」(14:29)。そのペテロはイエスが血の汗を流して祈っておられた時、目を覚ましていることができずに眠りこけ、捕り手たちが来た時は恐ろしくなって逃げ出しました。イエスが大祭司の屋敷に連行された時、ペテロは後を追いますが、屋敷の人々に「おまえもイエスの仲間だ」と問い詰められると、「そんな人は知らない」と三度否認します(14:71)。イエスが十字架につかれた時も、ペテロはそこにはいませんでした。聖書はペテロが挫折したことを隠しません。

3.私たちにとってのゲッセマネ

・今日の招詞としてマルコ15:34を選びました。次のような言葉です「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』。これは、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」。最初に書かれた福音書マルコは、イエスの最後の言葉を「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、アラム語で「わが神、わが神、どうして私をお見棄てになったのか」と記しました。初代教会の人々はこのイエスの最後の言葉に戸惑ってきました。「神の子が何故絶望の叫びを挙げて死んでいかれたのか、神の子は私たちのために身を捧げるために来られたのではないのか」。そのような思いがこの叫びを詩篇22篇の冒頭の言葉をイエスが語られたのだという理解に導きます。詩篇22篇は4節からは讃美に転じており、イエスは神を賛美して死んでいかれたのだという理解です。
・そのような理解から、マタイはイエスのアラム語の叫びをヘブル語に修正します「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(27:46)。より詩篇の言葉に近づけるためでしょう。ルカはイエスが絶望の叫びをされるはずがないという視点から言葉を削除し、「父よ、私の霊を御手にゆだねます」(23:46)という従順の言葉に変えました。ヨハネはイエスの十字架死は贖いのためであったと理解し、最後の言葉を「成し遂げられた」(19:30)という使命達成の言葉にしました。このようなイエスの死の美化を通して、イエスの受難が、「神と人からの見捨て」から「栄光のキリスト」に変えられていきます。
・しかし、イエスの死の美化は「ゲッセマネで悶え苦しむイエス」というマルコの記述を無視しています。マルコは死を前にして苦しむイエスの姿を隠しません。私たちは歴史の真実を私たちの思いで変えてはいけない。そのことによって本当のメッセージが見えなくなってしまうからです。シモーヌ・ヴェーユは言います「十字架上での断末魔の苦悶は復活よりもいっそう神的であり、この苦悶こそがキリストの神性が収斂する一点である」。イエスが十字架上で苦悶されたからこそ、イエスは私たちの救い主たりうるのです。
・人間は死に向かって生きます。イエスも私たちと同じように生きて、同じように死の苦しみと不安を覚えられた。この事実がイエスと私たちの距離を縮めます。神の前では全てが受け入れられます。嘆き悲しむ時は嘆き悲しんでも良いのです。イエスですら死に臨み、悲鳴をあげ、絶望したのですから、死に直面した時の私たちの弱さを神は受け入れてくださいます。ユルゲン・モルトマンはその説教集「無力の力強さ」の中で、イエスの十字架上の最後の言葉「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」を取り上げて言います。「イエスはなぜ『わが神、どうして、どうして』と叫びながら死んでいかれたのか。なぜ神はイエスを見捨てたのか。キリスト教神学はこの問いに対して多くの答えを展開してきた・・・多くの贖罪論が展開されたが、どれも適切ではないと思える。『わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』という問いに対する唯一つの満足ゆく答えは『復活』である」。
・モルトマンは続けます「キリスト教信仰の中心にはキリストの受難史が立っている。この受難の中心には、神に見捨てられ、神に呪われたキリストの神経験が立っている。私にとってはこれこそ真の希望のはじまりである。何故ならばそれは死を後ろに追いやり、もはや地獄を恐れる必要のない、新しい生の始まりなのである。人間が希望を失う所、無力になってもはや何一つすることができなくなる所、そこでこそ、試練にあい、一人見捨てられたキリストは、そういう人々を待っておられ、ご自身の情熱に預からせて下さる。自分から苦しんだことのある者のみ、苦しんでいる人を助けることができるのである」。イエスの十字架死を美化し、あるいは正当化しようとする時、見えなくなる聖書の真のメッセージがあることを、モルトマンは見事に表現しているのではないかと思えます。私たちも失敗し、挫折します。その失敗や挫折の出来事の美化や言い訳をやめた所から、神の救いの業が始まることを覚えたいと思います。

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