江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年6月30日説教(エレミヤ33:10−16、絶望から希望へ、希望から回復へ)

投稿日:2013年6月30日 更新日:

1.拘留されたエレミヤ

・6月はエレミヤ書をシリ−ズで学んできました。今日が最終回です。33章ではエレミヤは獄舎につながれていました。その理由は32章にある通り、エレミヤが王を批判したからです「ユダの王ゼデキヤの第十年、ネブカドレッアルの第十八年のことであった。そのとき、バビロンの王の軍隊がエルサレムを包囲していた。預言者エレミヤは、ユダの王の宮殿に拘留されていた。ユダの王ゼデキヤが『なぜ、お前はこんなことを預言するのか』と言って拘留したのである」(32:1-3)。エレミヤの預言した内容は次のとおりでした「主はこう言われる。見よ、私はこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこの町を占領する。ユダの王ゼデキヤはカルデヤ人の手から逃げることはできない。彼は必ずバビロンの王の手に渡され、王の前に引き出されて直接尋問される。ゼデキヤはバビロンに連行され、私が彼を顧みる時まで、そこにとどめ置かれるであろうと、主は言われる。お前たちはカルデヤ人と戦っても、決して勝つことはできない」(32:3-5)。エレミヤは権力者に対して、「あなたは戦争に負け、奴隷にされるだろう」言います。王は怒ってエレミヤを獄舎に拘留します。「王にこれだけのことを、はっきり言える」、そこに預言者の預言者たるゆえんがあります。
・エレミヤは預言者に選ばれた時、「ああ、わが主なる神よ。私は語るべき言葉を知りません。私は若者にすぎませんから」(1:6)と弱音を吐きましたが、神は頓着せず、彼を預言者として召します。神の側からみれば、預言者は若く純粋で、神の言葉を曲げたり削ったりせず、まっすぐ伝える者でなければならない。その点、エレミヤは若く、純真で自ら語る言葉を持ちませんでした。エレミヤは預言者の器として最適だったのです。エレミヤが最初に預言したのは、北からの災いでした。「主は私に言われた。北から災いが襲いかかる。この地に住むすべての者に、彼らはやって来て、エルサレムの門の前に、都を取り巻く城壁と、ユダのすべての町に向かって、それぞれ王座を据える」(1:14-15)。災いの預言には必ず、災いの原因が述べられます。「私は、わが民の甚だしい悪に対して、裁きを告げる。彼らは私を捨て、他の神々に香をたき、手で造ったものにひれ伏した」(1:16)。

2.エレミヤの滅亡預言

・エレミヤは北からの災いだけでなく。多様な預言をしています。イスラエルの人々は空しいものを追い、神を嘆かせるほどの不信仰になっていたからです。「ヤコブの家よ。イスラエルのすべての部族よ、主の言葉を聞け。主はこう言われる。お前たちの先祖は私にどんな落ち度があったので、遠く離れて行ったのか.彼らは空しいものの後を追い。空しいものとなってしまった」(2:4−5)。イスラエルの人々は偶像礼拝で神をないがしろにしました。北からの災いの預言は30年にわたり続けられました。彼らの回心を神は30年間も待たれたのです。「私のはらわたよ、はらわたよ。私はもだえる。心臓の壁よ、私の心臓は呻く。私は黙していられない。私の魂は、角笛の響き、鬨の声を聞く。『破壊に次ぐ破壊』と人々は叫ぶ。大地はすべて荒らし尽される。一瞬のうちに、その幕が荒らし尽される」(4:19−20)。身分の上下、教養の有る者も無い者も不信仰になっていました。「私は思った。『これは身分の低い人々で、彼らは無知なのだ。主の道、神の掟を知らない。身分の高い人々を訪れて語ってみよう。彼らなら主の道、神の掟を知っているはずだ。』と、だが、彼らも同様に軛を折り、綱を断ち切っていた」(5:4−5)。
・エレミヤは30年間も預言活動をしましたが、そのかいなく、人々は悔い改めず、北からの災いが現実となります。紀元前597年、新バビロニア帝国のネブカドネザル王が南ユダ王国を占領し、王と重臣たちが捕囚として連れ去られました。第一次バビロン捕囚です。ただこの時は、ダビデ王家はゼデキヤ王に継承され、神殿も無事でした。王がいて神殿があるかぎり、国威と神の守護を期待することが可能だったので、人々は真剣に悔い改めようとはしませんでした。その彼らに約10年後、再び災いが降ります。紀元前587年、バビロニア軍が攻め込み、エルサレムは徹底的に破壊され、神殿も破壊されます。ユダ王国は滅ぼされ、エルサレムはバビロニア軍に直接統治され、貴族、軍人、工人ら1万人以上が捕囚としてバビロ二アに連れ去られたといいます。

3.絶望から希望へ

・エレミヤ書はユダの荒廃で終わりますが、その中で33章は、絶望から希望への間奏曲となっています。エルサレム陥落後にエレミヤは預言します「主はこう言われる。この場所に、すなわちお前たちが、ここは廃墟で人も住まず、獣もいないと言っているこのユダの町々とヱルサレムの広場に、再び声が聞こえるようになる。そこは荒れ果てて、今は人も、住民も、獣もいない。しかし、やがて喜び祝う声、花婿と花嫁の声、感謝の供え物を主の神殿に携えて来る者が、『万軍の主をほめたたえよ。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』。それは私が、この国の繁栄を初めのときのように回復するからである。万軍の主はこう言われる。人も住まず、獣もいない、荒れ果てた、この場所でまたすべての町々で再び羊飼いが牧場を持ち羊の群れを憩わせるようになる、山間の町々ネゲブの町々、ベニヤミン族の所領、エルサレムの周辺、ユダの町々で、再び羊飼いが、群れをなして戻ってくる、羊を数えるようになる」(33:10−13)。
・羊飼いが町々に戻り、婚礼の列がまた戻ってくる、破壊の後に復興が来るとエレミヤは預言します。「見よ、私が、イスラエル家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。その日、その時私はダビデの為に正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日にはユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう」(33:14−16)。「正義の若枝の約束」は、ダビデの末裔は滅びても、「主は我らの救い」という方が来られるという希望がまだあるのだと語ります。このエレミヤの預言を初代教会の人々は、救い主イエスの降誕預言だと理解しました。マリアの夫ヨセフへの受胎告知の中で、天使は「生まれてくる子の名前をイエスと名づけなさい」と命じます(マタイ1:21)。イエス、ヘブル語「ヨシュア」のギリシャ語名です。そしてヨシュアとは「主は救いである」という意味なのです。

4.希望から回復へ

・今日の招詞に創世記1:27−28を選びました。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」。有名な人間創造の記事です。神は人を祝福して創造されたことが語られています。
・この人類創造の前に天地創造の記事があり、創世記1:2には創造前の世界が描かれます「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。神が天地を創造される前には、「地は混沌であって闇が全地を覆っていた」、口語訳聖書では「地は、形なく、虚しい」状態の中にありました。そこに「光あれ」という神の言葉が響きます。すると光が生まれ、闇が光によって裂かれました。この「形なく、虚しい」と言う言葉、ヘブル語「トーフー・ワボーフー」という言葉は聖書に三箇所出てきます。一つは創世記1:2、次にはイザヤ34:11、最後がエレミヤ4:23です。なぜ「形なく、虚しい」という特殊な言葉が後代のイザヤ書やエレミヤ書にあるのでしょうか。文献学的研究によれば、創世記1章は紀元前6世紀に書かれた祭司資料からなるといわれています。イスラエルはバビロニア王ネブカデネザルによって前587年に征服され、首都エルサレムは廃墟となり、王族を始めとする主要な民は、捕虜として敵地バビロニアに連れて行かれました。この捕囚の地での新年祭にバビロニアの創造神話が演じられ、イスラエル人は屈辱の中でそれを見ました。何故神は、選ばれた民である私たちイスラエルを滅ぼされ、敵地バビロニアに流されたのか。捕囚期の預言者エレミヤは歌いました「私は見た。見よ、大地は混沌(トーフー・ワボーフー)とし、空には光がなかった」(エレミヤ4:23)。「大地は混沌とし、空には光がなかった」。「自分たちは滅ぼされた、神に捨てられた」、絶望の闇がイスラエル民族を覆っていたのです。しかし、神が「光あれ」といわれると光が生じ、闇が裂かれました。ここにイスラエル人の信仰告白があります。現実の世界がどのように闇に覆われ、絶望的に見えようと、神はそこに光を造り、闇を克服して下さるとの信仰の告白です。「主よ、あなたは私たちに再び光を見せて下さるのですか。私たちを赦して下さるのですか」。そのような祈りが創世記1章の記述の中に込められています
・すべての人々は神の祝福の中に生まれてきます。罪を犯したイスラエルもまた神の祝福の中にあり、親が望まない形で生まれてきた人もまた、神の祝福の中にあります。私たちがどのような状況にあっても、神は私たちの存在を肯定しておられる、だから私たちもまた自己を肯定することが出来るのです。すべての人は存在することにより、肯定されています。男も女も、大人も子供も、健常者も障害者もまた、神の肯定の中にあるのです。現在の社会では多くの人が自分を肯定できなくなっています。日本では年間3万人の人が自殺しています。一日100人の人が自分を肯定できずに、自らの命を断っています。しかし、創世記は私たちに、例え現在が希望のない闇のように見えても、その闇は神の「光あれ」と言う言葉で分断されるということを伝えます。
・神はご自分の形に私たちを創造されました。神の形とは人格を持つ存在として人が創造されたことを意味します。人は、神が語りかけられ、それに応えうる存在として造られました。神と私たちの間には、「私とあなた」という人格関係が成立しているのです。イスラエル人は捕囚の地で「あなた」ではなく、「それ」という奴隷の状態にありました。敗残者として、ものとして、卑しめられた。その中で、神は自分たちを「あなた」と呼んで下さる。そのことの中に、現実の「それ」という関係が、やがて「あなた」という関係に変えられる望みを、イスラエルは見たのです。
・イスラエルの捕囚民が帰還を許されたのは、最初の捕囚から60年後の紀元前538年でした。捕囚を通して、イスラエルの民は、神の言葉=聖書を中心にする信仰共同体に変えられていきました。その共同体の信仰告白の言葉を、私たちは今、創世記と言う形で与えられており、その創世記は国を滅ぼされ、絶望したが、やがて希望を与えられたたイスラエルの人々によって書かれたものであることを今日は覚えたいと思います。どのように暗い闇の中にあっても、私たちが神の名を呼び求めれば、神は聞いて下さる。そのイスラエル人の信仰が創世記1章2−3節「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』。こうして、光があった」との記述の中に息づいています。創世記は天地がどのようにしてできたのかを問う科学書ではありません。従って、創世記の記事をもとに、進化論その他の科学的真理を否定するのは愚かな行為です。また、それは単なる民族の起源神話、非科学的な記述として無視するのも同じように愚かです。私たちは創世記を、苦難の中に置かれた民が、人とは何か、神とはどなたかを追い求めた信仰の書として読みます。それがこの5回にわたるエレミヤ書の学びから教えられたことです。

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