江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年12月15日説教(ヨハネ20:19-29、復活の命に生きる)

投稿日:2013年12月15日 更新日:

1.弟子たちと復活のイエスとの出会い

・クリスマスを前にヨハネ福音書を読んでいます。今日が三回目で、与えられた聖書箇所はヨハネ20章、復活のイエスが弟子たちに現れた記事です。福音書の復活顕現伝承には、弟子たちはガリラヤでイエスに出会ったことを伝える記事(マルコ、マタイ)と、エルサレムで出会ったことを伝えるルカと二つの流れがありますが、ヨハネは双方の顕現伝承を伝えます。その記事が20章(エルサレム顕現伝承)と21章(ガリラヤ顕現伝承)にあります。今日は20章のエルサレムでのイエスと弟子たちの出会いを、クリスマスという視点から見ていきます
・20章はイエスが埋葬されてから三日目に、マグダラのマリアが墓に行きますが、墓は空であったという出来事から始まります。びっくりしたマリアは弟子たちに報告し、ペテロたちが墓に急ぎ、墓が空であったことを確認します。しかし、それが何故かはわからず、家に帰ります(20:10)。マリアは一人墓に残り、泣いていました。イエスの遺体が盗まれたと思ったからです。そのマリアにイエスが現れ、彼女は驚き、そして喜び、弟子たちに報告します(20:18)。しかし弟子たちは半信半疑で、イエスが復活されたとは思っていません。それが日曜日の午前中の出来事でした。
・その日の夕刻、イエスが弟子たちに現れます。ヨハネはその時の光景を次のように記します「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(20:19)。弟子たちはイエスこそ、イスラエルを救うメシア、救世主だと信じて従って来ましたが、そのイエスは十字架で無力に殺されていきました。神はイエスを救うために何の行為も取られなかった。弟子たちは「イエスはメシアではなかった」と落胆し、生きる目標を失くし、打ち沈んで、家に閉じこもっていました。彼らは、イエスのために死ぬ覚悟を決めていましたが、いざとなると怖くなり、イエスを見捨てて逃げました。「自分たちはイエスを見殺しにした」、その自責と後悔の思いが彼らを苦しめています。また、イエスを捕らえた勢力が自分たちにも追求の手を伸ばしてくるのではないかと恐れてもいました。イエスが現れる前、弟子たちは、体は生きていましたが、魂は死んでいました。
・その日の朝、復活のイエスがマグダラのマリアに現れたことを、彼らは聞いてはいました。しかし、イエスが復活されたとは信じていません。並行箇所のルカには「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ24:11)とあります。誰が「死人のよみがえり」など信じることが出来ましょう。その弟子たちにイエスが現れます。その時弟子たちは「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(ルカ24:37)とルカは報告します。その彼らにイエスはご自分の手とわき腹をお見せになられました。そこには十字架につけられた時の釘穴と、刺された槍の跡が明白に残っています。弟子たちはその傷を見て、ここにおられる方が、十字架で死なれたイエスであることをやっと信じることが出来、喜びに包まれます(20:20)。
・イエスは十字架で傷ついた手と脇腹を弟子たちにお見せになりました。そのことを通してイエスは言われているようです「あなた方は私を見捨て、そのために私は苦しみを受けた。しかし今、ここに帰ってきた。私はあなた方の罪を赦す。だから安心しなさい」と。その言葉に弟子たちは生き返ります。ここに二つの復活があります。「死からよみがえられたイエスの復活」と、「絶望と恐怖からよみがえった弟子たちの復活」の二つです。復活とは死んだ者をよみがえらせるだけでなく、今生きている者を、根底から変える力をも持つのです。

2.その場にトマスはいなかった

・イエスが弟子たちに最初に現れられたた時、トマスはそこにいませんでした。他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言ってもトマスは信じません。彼は言います「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」(20:25)。トマスはイエスのために死のうとさえ思った人物です。イエスが危険の待つエルサレムに行こうと言われた時、トマスは言います「私たちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ11:16)。しかし、イエスが捕らえられると、怖くなって逃げました。彼は自分の弱さを責め続けていました。安易に赦されるとは思えません。他の弟子たちのように、単純に信じることも出来ません。その彼のためにイエスが再び体を示されたとヨハネは伝えます。復活から8日目の日曜日、イエスは再び現れ、トマスを見つめて言われます「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい」(20:27)。
・この度のイエスはトマスだけを目指して来られました。そして、「私の傷に触れよ」と言われました。「私はお前が神を信じることができることを願って十字架に死んだ。まだ信じることが出来ないならば、私はもう一度十字架にかかる。お前のためであれば、何度でも十字架につく」とイエスはトマスに言われたのです。この言葉を前にトマスはひざまずき、告白します「わが主、わが神」。ここに初めて、イエスを神と認める信仰告白が為されています。イエスを神と信じ、彼の前に最初にひざまずいたのは、弟子の代表格に当たるペテロでもヨハネでもなく、疑い深いトマスでした。
・伝承によれば、トマスはインドにまで伝道に行ったとあります。南インドには「聖トマス教会」があり、トマスが立てた教会だという伝説が残っています。一番弱いと思われた弟子が、ひとたび復活のイエスに出会うと、当時としては、地の果てと思われたインドにまで出かけていきます。どのような不信仰の存在であっても、復活のイエスとの出会いにより、変えられるのです。復活は、出会った人に命と力を与える出来事なのです。トマスは多く罪を犯しましたから、多く赦され、多く赦されたから、多く愛しました。

3.復活の命に生かされる

・今日の招詞にヨハネ1:18を選びました。次のような言葉です「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。私たちは神を見ることはできません。神は霊だからです。しかし、イエスを通して、私たちは神を知ることができるとヨハネは言います。そして私たちが「イエスが神の子である」ことを知るのは、イエスの復活を通してです。つまり、復活を通して私たちは、イエスの生誕の意味を理解し、だからこそクリスマスを前にして、イエスの復活物語を読むのです。よみがえったイエスは復活を信じることができなかった弟子トマスに言います「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)。イエスの復活顕現物語は、復活は信仰の目がなければ見えないことを伝えます。マリアは最初に復活のイエスと出会った時、その方がイエスだとはわからず、「マリア」という声を聴いてイエスが見えました(ヨハネ20:14)。エマオに向かう弟子たちも、イエスが同行されてもわからず、食卓のパンを裂かれるイエスの祈りを聴いて、わかりました(ルカ23:30-31)。信仰は見るのではなく、聞くことから始まるのです。それが「見ないで信じるものは幸い」だとの意味です。
・ヨハネ福音書は紀元100年頃に書かれています。イエスの十字架と復活から70年経過し、イエスに出会った弟子たちも、その後継者たちもすでに亡くなり、教会を形成していたのは三代目、四代目の信徒たちです。彼らはもはや復活のイエスに会い、彼を見ることはできません。しかし礼拝の中で、彼らはイエスが復活されたとの福音を聞き、信じていくのです。イエスが最初に弟子たちに現れたのは三日目、主日の日曜でした。次にトマスに現れたのは次の主日、同じく日曜です。それが示唆しますことは、私たちは教会の礼拝の中で福音を聞くことにより、イエスに出会うのです。だから礼拝は大事です。ある人たちは「信仰さえあれば教会はいらない」と言います。しかし私たちの経験では、教会を離れた人々はやがて信仰を失っていきます。礼拝の中でこそ、イエスと会い、イエスに会うことを通して、神に会う事が可能なことを今日のヨハネのテキストは示します。
・そして復活のイエスに出会った者はどのような生き方をするのか、八木重吉の詩は復活の命を生きることはどのような生き方かを私たちに示します。彼は歌います「キリストわれによみがえれば/よみがえりにあたいするもの/すべていのちをふきかえしゆくなり/うらぶれはてしわれなりしかど/あたいなきすぎこしかたにはあらじとおもう」(八木重吉「春の水」)。八木重吉は英語教師をしていましたが、結核により29歳でなくなります。苦労の多い生涯でした。代々木上原教会の村上伸牧師はこの詩を次のように解説します「キリストが復活した。彼の命が私のなかに受け継がれる。キリストが私の内によみがえる。そうすると、私の中でよみがえりに値するもの、こころざしや愛や祈りはすべての命を吹き返して行く。どんなに不幸で惨めな過去を持っていたとしても、私はもうその過去に縛られることはない。私のなかによみがえられたキリストと共に先に向かっていく」(代々木上原教会2008.3.23説教から)。主に結ばれているならば、挫折してもまたやり直すことが出来ます。イエスを裏切った弟子たちも復活の命をいただいて、新しく立ち上がりました。病気と貧困の中にあった八木重吉も29年の生涯を実り多く生きることが出来、そして私たちに素晴らしい詩を残してくれました。復活信仰こそ、人を本当に生かすものなのです。クリスマスはイエスの誕生をお祝いする時、そしてイエスこそ私たちに与えられた最高のクリスマス・プレゼントです。このプレゼントをいただき、イエスの復活を信じることを通して、私たちは永遠なる方、命の源である方と出会うのです。

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