江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年12月1日説教(ヨハネ10:7-18、囲いの外の羊をも)

投稿日:2013年12月1日 更新日:

1.クリスマスの光のなかで

・9月から3ヶ月間にわたり、マルコ福音書からイエスの受難と復活を学んできました。今日から12月、クリスマスを前にして、ヨハネ福音書がテキストとして与えられました。ヨハネ福音書はイエスの降誕物語を書きませんが、「ロゴス(言)の受肉」という独特な語を用いてイエスの降誕を象徴的に記します。1章14節は記します「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。「イエスの恵みと真理」にふれた人々は教会を形成していきますが、多くの人々はイエスが「神から来られた」ことを信じませんでした。ヨハネは書きます「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1:10-11)。信じない人々、イエスを認めない多数派の人々は、イエスを信じたキリスト者を少数者、異端として迫害し、会堂から追放し、捕らえて殺すことさえしました。ヨハネ福音書はユダヤ教からの激しい迫害の中で書かれています。そのような迫害者に対し、ヨハネはイエスこそ「真の光、良い羊飼いである」と主張します。それが今日読みます「良い羊飼いの譬え」の場面です。
・良い羊飼いの譬えは、9章からの?がりの中にあります。9章では生まれつきの盲人がイエスによって目の障害を癒されますが、その癒された日が安息日であったため、ファリサイ派の人々は「イエスは、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」として、目が癒やされた人にイエスを否定するように迫ります(9:16)。それに対して癒やされた人は抗議します「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(9:32-33)。ファリサイ人たちは彼を会堂から追い出します。
・ファリサイ人たちは盲人の目が癒やされたことを喜ぶのではなく、その日が安息日なのにその掟を破ったと批判しています。その彼らにイエスが語られたのが、良い羊飼いの譬えです。ユダヤ社会の指導者であったファリサイ派の人々は、救いは人間が神から与えられた戒め=律法を守ることによって為されると説きました。そのため、律法の細部に至るまで守ることを求め、人々が律法違反をしないかどうかを監視するようになりました。律法は本来的には「神を愛し、人を愛しなさい」という福音ですが、時代が経つに従い、その精神が失われ、規定だけが先行するようになっていきます。「神を愛するためには一日3回祈らなければならない」とか、「安息日を守らない者は神を愛さない者だ」とか、人間的な思いで、神の戒めが曲げられていき、人々を幸せにするはずの律法が、重荷を負わせるものになっていました。盲人の目が癒やされるという素晴らしい神の業が為されたのに、それが安息日に為されたとして喜ばない人々がそこにいたのです。
・そのような人々に向かって、イエスはこの譬えを語られています「私は羊の門である。私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった」(10:7−8)。パレスチナでは羊が野獣や強盗に襲われるのを防ぐために、夜は石を積んだ囲いの中に羊を休ませます。羊飼いは朝、羊を囲いから連れ出し、牧草地に導いて草を食べさせ、夜は囲いの中に導きます。他方、泥棒や強盗たちは柵を乗り越えて羊を奪い、これを殺そうとします。イエスは、羊を飼う役割を与えられながら、羊を貪り、弱めるファリサイ人たちを、「盗人であり、強盗である」と批判されています。
・イエスは言われます「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。私が来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(10:10)。社会の指導者であるべきファリサイ人たちが羊のことを考えずに自分たちの利益だけを求めるゆえに、人々が「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」(マタイ9:36)とイエスは批判されたのです。そして言われます「私は良い羊飼である。良い羊飼は、羊のために命を捨てる」(10:11)。羊の雇い人、お金のために羊を預かる者は、狼が来ると羊を捨てて逃げます。羊より自分の事のほうが大事だからです。しかし、良い羊飼い、本当の羊飼いは群れを守るために命がけで戦います。良い羊飼いとは「羊のために命を捨てる」者です。イエスはご自分の群れを守るために、十字架に死なれました。そのことを神は「良し」とされ、イエスを死から復活させられました。17節はそのことを示しています「私は命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父は私を愛してくださる」。

2.ヨハネ教会の置かれた苦難

・ヨハネ教会はユダヤ教からの迫害の中にありました。「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」(9:22)にありますという言葉は、紀元70年のユダヤ戦争によって神殿を失ったユダヤ教がファリサイ派を中心にして再形成され、彼らはキリスト教徒を異端としてユダヤ教会堂から締め出すことを決定していたことが背景にあります(シェモネ・エスレ第12祈願「ナザレ人たちと異端の徒を瞬時に滅ぼし給え」)。そのため、ヨハネの教会の中で、会堂から追放される(村八分になる)、あるいは捕らえられることを恐れて、教会の指導者から脱落する人たちが出たようです。ヨハネはその人々に「あなたたちが教会から脱落したら残された羊である信徒はどうなるのか。それでは自分自身の利益のために羊を飼う、雇われ羊飼いと同じではないか」と警告しているのです。現代、教会分裂の多くは牧師と執事の間の教会運営に関する意見の違いが原因で起こります。納得できないとして執事が教会を出る時、多くの場合に同調者である信徒の人も連れて出ます。ヨハネの教会でそのような事例があったと推測されますし、私たちの教会でもかつてそのような事がありました。そこでは教会の本当の牧者(羊飼い)はキリストであり、一人一人がキリストから羊飼いとして使命を与えられていることが忘れられています。
・イエスはまた言われます「私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(10:16)。「囲いの外にいる羊を探しに行く」。元々の文脈では、「囲いの外」、神の民=ユダヤ人ではない人々を指すのでしょう。ユダヤ教から迫害を受けていたヨハネの教会が、イエスを受け入れないユダヤ人たちへの宣教から、異邦人伝道にも取り組んでいった事情を背景にした言葉でしょう。その異邦人伝道の結果、私たちの教会がこの日本の地に立てられました。今の私たちの教会にとって「囲いの外にいる羊」への伝道とは何を指すのでしょうか。

3.囲いの外にいる羊のために

・囲いの外にいる羊とは誰か、その意味を知るために、招詞として、ルカ15:4を選びました。次のような言葉です「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」。迷った羊の話はマタイとルカがありますが、両者の記事は微妙に異なります。マタイでは教会から迷い出た羊がいたら、九十九匹を安全な所に残して羊を探しに行きなさいとあり、主体はあくまでも迷わない九十九匹です。ところが、ルカでは取税人や罪人がイエスと食事をすることを批判したパリサイ派の人々に対して、喩えが語られています。つまり、ルカの九十九匹は自分を正しいと批判するファリサイ派の人々で、「九十九匹を野原に残してでも見失った一匹を探しに行く」のです。ここにある「野原」の原語エレノスは「荒野」です。ルカでは「自分は正しいとする九十九匹を荒野という危険な場所に残してでも、失われた羊である罪人や取税人を探しに行く」という意味になります。多くの聖書学者はルカの方が原意に近いと考えています。私たちの社会は一匹を見殺しにしても九十九匹を大事にする多数決社会ですが、あなたたちの間ではそうではないはずだ、一匹を大事にするはずだと問われています。
・ここにおいて、「囲いの外に出る」ことの意味が、明らかになります。単に伝道するのではなく、「飼う者のない羊のように弱り果て、倒れている」人たちを探し出しに行くことです。イエスは私たちに要請されます「お前たちは、私が飢えていたときに食べさせてほしい、私ののどが渇いていたときに飲ませてほしい、旅をしていたときに宿を貸してほしい、裸のときに着せてほしい、病気のときに見舞ってほしい、牢にいるときに訪ねてほしい」(マタイ25:35-36)。そして続いて言われます「私の兄弟であるこの最も小さい者に一人にしたことは私にしたことだ」(同25:40)。私たちの社会は「九十九匹が優先され、一匹が切り捨てられる」社会です。私たちの社会において多くの人々が疎外され、困窮しています。彼らこそ「囲いの外にいる」方たちです。私たちは彼らを教会に招きたい。そのために大事なことが二つあります。一つは、囲いの中にいる私たちが、囲いの門を開くことです。「私たちと違う価値観を持っている人も来てください」という姿勢を明確にすることです。もう一つは、この囲いの中が、本当の安らぎの場になることです。ここにくれば心が満たされる、外の世界と違う、一人ひとりが大事にされる。少数意見であっても聞いていく教会です。
・キリストが羊のために命を捨てられたように、他の人々のために働く決意をした人たちがいる場所が教会です。そのためには、私たち一人一人が、自分を養わないで群れを養う牧会者になる必要があります。皆さんが「良い羊飼いの譬え」が自分たちに向けて語られていることを知った時、この教会は変わって行きます。私たちそれぞれに羊飼いとしての使命がイエスから与えられている。私たちの役割は「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」(10:10)に、働くことです。自分はもう羊ではない、羊飼いだ。教会のゲストではなく、ホストだ。その決意を皆さんに是非持っていただきたいと思います。

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