2013年1月6日説教(マタイ4:1-11、荒野の誘惑と私たち)
1.荒野の試み
・2013年の年の初めに,マタイ福音書4章「荒野の誘惑」の記事が与えられました。「人はパンだけで生きるものではない」という言葉で有名な箇所です。この誘惑物語はマルコ,マタイ、ルカの三福音書にありますが,その中でマルコの記述は非常に簡略です「それから、"霊"はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」(マルコ1:12-13)。マルコは伝承をその短い形で伝えられたのでしょう。それに対して,マタイとルカでは、誘惑の内容が詳細に記された複雑なものになっています。マタイはおそらく、マルコを原型とし、そこにマタイ・ルカの共通資料である語録資料Qを加えて、記事を編集したと聖書学者は考えています。従って,この誘惑物語は史実そのままを記述したものではなく、核になるイエスの体験物語を基本にして、教会が「イエスをどのような方として理解したのか」という信仰の物語として形成されています。
・物語に入ります。イエスは宣教の始めに洗礼を受けられましたが、この時、天から声が聞こえたとマタイは記します「これは私の愛する子、私の心にかなう者」(3:17)。イエスが、ご自分が「神の子として世に遣わされた」ことを自覚されたのはこの時であったと思われます。「神の子として何をすれば良いのか」、イエスはそれを聞くために荒野に導かれました。荒野は水も食べ物も乏しく、野獣もいる危険に満ちた場所です。同時に神の声を聞くために人々が出かけた場所です。モーセもエリヤも荒野で神に出会っています。イエスの最初の試練は、40日の断食の後に来ました。断食は人間の精神を鋭敏にします。断食して空腹になられたイエスの耳に、声が聞こえました「神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ」。声はささやきます「多くの人が、パンがなく飢えている。石をパンに変えれば、みんなが食べられるではないか。それが神の子の使命ではないのか」。「神の子なら」、内心の声はイエスにささやきます。しかし、イエスは言われます「人はパンだけで生きるものではない」(4:4)。
・二番目の誘惑は、「神の子なら、神殿の屋根から飛び降りたらどうだ」というものでした。奇跡を起こして、神の子であるしるしを人々に見せよと言う誘惑です。イエスの時代、多くの偽メシアといわれる人物が奇跡を起こして人々を引きつけていました。イエスは奇跡を行う力を持っておられました。現実に、イエスは多くの病人をいやされています。その力を自分のために用いればよいのです。「神の子なら力を用いよ」という誘惑に、イエスの心は動いたでしょう。しかし、イエスは答えられます「あなたの神である主を試してはならない」(4:7)。
・三番目の誘惑は、「私を拝むならば、世の栄光をお前に上げよう」という誘いでした。当時の人々が求めていたのは、イスラエルをローマの支配から解放する栄光のメシアでした。国の独立を人々は求めている、お前は人々を束ねる力を持っている、人々を束ねてユダヤの独立を勝ち取ることこそ、メシアの為すべきことではないかとサタンは誘います。イエスは、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言われて、この誘惑を退けられました。
2.荒野の試みの背景にある申命記を読む
・イエスが体験された荒野の試練は、いずれも「神の子なら」という問いかけで始まります。マタイ福音書が書かれたのは紀元80年代ですが、その少し前の時代(紀元66年~70年)、ユダヤはローマに対して武装蜂起を行い,完全に敗北し,多くの人々が殺され、エルサレムは廃墟とされています。ユダヤ人たちはメシアを待望していましたが、そのメシアは現れず,ユダヤは戦争に負け、国を滅ぼされました。「神の子なら何故我々を救えなかったのか」、マタイ時代の人々は教会に迫りました。「イエスは本当にメシアだったのか」、その批判に答えるためにマタイはこの物語を書いているのです。
・イエスは誘惑に対して、いずれも申命記の言葉を引用して答えられました「人はパンだけで生きるものではない」(申命記8:3)、「あなたの神である主を試してはならない」(申命記6:16)、「ただ主に仕えよ」(申命記6:13)。申命記の背景にあるのは、イスラエルの出エジプト体験です。エジプトで奴隷だった民はモーセに導かれてエジプトを出ますが、彼らが最初に導かれたのは荒野でした。荒野だから、食べ物に乏しい。食べ物がなくなると民は神を疑い、つぶやきます「我々はエジプトの国で、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられた」(出エジプト記16:2-3)。その不平を言う民に、神は天からマナを与えて養われました。その経験の中から生まれてきた言葉が「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)という告白です。エジプトを出たばかりの民は、恵みが与えられれば讃美しますが、困難が来れば神を疑う存在でした。あてにならない神の約束よりも、パンをくれるならエジプトの奴隷が良いとする存在でした。だから神は彼らを荒野に導かれ、飢餓を経験させ,そしてマナを与えられました。誰が彼らを生かしているのかを知らせるためです。
・申命記をもう少し読んでいきますと、約束の地に入った民がどうなったのかが書かれています。イスラエルの民は約束の地に入ると、定住して農耕生活を始めます。そうすると人は倉を建て、作物を蓄えるようになります。その時、人々は自分の蓄えに頼り、神を忘れ始め、偶像崇拝を始めます。神がいなくとも生きられるからです。やがて、豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますます貧しくなるという社会的不公平が生じてきます。そこから振り返った時、人々は、「荒野の方が良かったのではないか。そこには神との生き生きした交わりがあり、人と人が助け合う生活があった」ことに気づき始めます。物質的な豊かさが人を幸福にしないことに気づいたのです。イエスは石をパンに変えられませんでした。変えてはいけないのだと思います。労苦なしに与えられたパンは、人を養う力を持たない。パンがないことを通して、荒野の厳しさの中で、私たちは神と出会うのです。
・八木誠一という聖書学者は「イエスと現代」(平凡社ライブラリー)という著書の中で、この物語を分析します「荒野の誘惑の物語はイエスのイメージを全体としてよく表現している。それはイエスが栄光への道を選ばなかったという意味である・・・私たちは、神は全知全能の支配者であり、最高で完全な存在であると考える。そして私たちが神を信じるという時に、神によって生活を保障され、危険から守られ、幸福と栄光を与えられることを期待するのである。しかし、荒野での誘惑の物語は、このようなイエス・キリスト理解を、ひいては神理解を、断固として否定する」。石がパンに変えられるということは食べるものに事欠かない、生存の基本条件が保証されていることを意味します。高所から飛び降りて傷つかないとは、どんな危ない橋を渡ってもいつも奇跡的に神に守られて安全であることに他なりません。世界の国々とその栄華を手に入れるとは、権力や名声・栄光を一身に集中させ、独占することです。私たちはイエスに,そして神に,「私たちを幸せにしてくれる」ように求めています。しかしイエスはそのようなものは「信仰では無い」ことを示されました。それは信仰では無く、自分のために神を利用しようとするエゴにすぎないのです。そのエゴから解放されない限り、人は本当の自己を見出すことは出来ません。「自我(エゴ)に死んで自己(セルフ)に復活する」ことこそ聖書のメッセージです。
3.荒野の試みの背景にはイエスの十字架死がある
・今日の招詞にヨハネ第一の手紙3:16を選びました。次のような言葉です「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです」。イエスの弟子たちはイエスの生前、イエスを本当には理解していませんでした。彼らもまた他の人々と同様、イエスこそイスラエルを救うメシアだと理解していたのです。その彼らに取ってイエスの十字架死は衝撃でした。しかしその彼らが復活のイエスに出会って根本的に変えられます。そして理解します「イエスはその奇跡を行う能力の故に神の子であったのでは無く、力を自己のために用いることを拒否して、最後まで神の意志に従われたことを通して神の子であったのだ」と。
・人はパンだけで生きるものではありません。これはイエスが十字架上で証しされたことです。イエスは十字架にかかって死ぬ必要などありませんでした。危険が迫っているのであれば国外に逃げることも出来たし、当局ににらまれないように言動を控えることも出来ました。しかし、イエスは敵の中心地であるエルサレムに行かれ、ユダヤ教当局を批判し、捕らえられ、十字架上で罵られました「神の子なら自分を救え。今すぐ十字架から降りるが良い。そうすれば、信じてやろう」。この言葉は荒野の誘惑と同じ言葉です「神の子なら石をパンに変えよ」、「神の子なら奇跡を起こせ」。しかしイエスは力を自分のために用いることをされませんでした。
・もし、イエスが誘惑に負けて、十字架から降りられたら、何が起こったでしょうか。人々は驚き、イエスを崇めたかも知れません。しかし、それだけで、神の国は来なかったでしょう。そしてイエスは私たちとは無縁の存在だったでしょう。イエスは十字架で死なれる事によって、私たちの救い主となられました。「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました」。その感動が人にイエスに従うことを促すのです。「だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです」。本当の奇跡とは「力を自己のために用いることを拒否して、最後まで神の意志に従われた」ことです。イエスは私たちに言われます「パンが足りないという現実から逃げるな。石をパンに変えても何も生まれない。何故パンが足りないか,そのパンのためにあなたは何が出来るのかを考えよ。そのために今あなたにパンの不足という試練が与えられているのだ」と。石をパンに変えるのは私たちの仕事なのです。キリスト教海外医療協力会はアジア地方の医師や看護師養成のための事業を行い、ペシャワール会はアフガニスタンの農業支援のために井戸を掘り、水路を開発しています。みな、「力を自己のために用いることを拒否して、最後まで神の意志に従われた」イエスに動かされて、「兄弟のために命を捨てる」活動をしています。私たちは何が出来るか,何をすべきか、この1年を考えるために,年初にこの箇所を読むように指示されたのではないかと思います。