江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年1月13日説教(マタイ5:13-20、あなたがたは地の塩、世の光である)

投稿日:2013年1月13日 更新日:

1.あなた方は地の塩、世の光である

・マタイ福音書を読み進めています。今日与えられた箇所は「地の塩、世の光」という御言葉を含んでいます。この言葉は多くの人々に強い感銘を与えてきましたが、元々どのような意味で語られたのでしょうか。今日はそれを考えていきます。マタイではこの言葉が「山上の説教」の後に語られていることに留意すべきです。イエスはヨルダン川で洗礼を受け、ヨハネの元を立ち去って、ガリラヤに戻り、会堂で教え、福音を宣べ、病気や患いの人をいやされました。大勢の群集がイエスに従って来ました。イエスはその群集を見て、山に登られ、人々に教えられました。その山上の説教がマタイ5章に記されています。イエスの周りを弟子たちが取り囲み、その弟子たちを囲むようにして群衆がいました。その人々にイエスは語られます「あなたがたは地の塩であり、あなたがたは世の光である」。
・塩は生活に不可欠なものです。塩がなければ食物は腐りますし、塩を入れない料理はおいしくありません。イエスは「あなたがたはこの世において、そのような塩の働きをする。この世にしっかりとした味付けをし、またこの世の腐敗を防ぐ役割をする」と言われています。また光は闇を照らし、ものの形を明らかにします。「あなたがたは、この世の闇を照らすものであり、あなたがたによってこの社会は明るくなる」と言われています。しかし、聞く私たちは困惑します。私たちは、地の塩、世の光といえるような活動はしていない、そんな立派な生き方はしていないからです。
・私たちはイエスの言葉の時制に留意する必要があります。イエスの言葉は「塩になりなさい」という命令形でではなく、「あなたがたは地の塩である」と現在形で語られています。あなた方は既に塩なのだ、だから塩になろうとするのではなく、塩の本質である塩気を失うなと警告されています。パレスチナの塩は死海で取れる岩塩です。塩の塊は多くの不純物を含み、水分を吸うと塩が溶け、ただの塊になってしまいます。「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(5:13)。あなたがたが世の人と同じように生きるならば、あなたがたは塩としての役割を失うと警告されています。
・同じように、福音を聞いたあなたがたは、既に神の光をいただき、その明かりを持つ者となったのに、そのあなたがたが、明かりをますの下に隠したら何の役にも立たないではないかと言われています。「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」(5:15)。せっかく明かりをいただいたのに、それを隠すことをするなと言われています。
・このイエスの言葉は多くの人たちに行為を迫りました。ある人は、「地の塩になる」とは、この社会の腐敗や不正を指摘し、改善していく行為ではないかと思いました。戦前のクリスチャンたちはそう考えて、社会改革運動に乗り出して行きました。賀川豊彦は貧しい人々も連帯すれば豊かになれると考え、消費生活運動や共済運動に力を入れました。今日の生活協同組合や農業共同組合は賀川の遺産です。また海外の宣教団体は教育や医療を通じて世の光になろうとして、ミッションスクールや病院を建設していきました。それらは、「地の塩,世の光」としての生き方の一つではありますが、時代と共に聖書的理想が失われ,世俗化してきました。
・別の人は、「世の光になる」とは伝道に励むことだと考えました。教会の本来の役割は伝道であり、伝道が実を結び、クリスチャンの数が増えていけば、この世は良くなり、その時、地の塩、世の光としての役目を教会は果たすと。しかし、クリスチャンの数が増えれば世の中は良くなるのか。アメリカはキリスト教を建国の土台に据えたキリスト教国ですが、同時にベトナム戦争やイラク・アフガン戦争を主導した戦争大国です。そう考えますと、クリスチャンの数を増やすことが、求められていることでもないようです。

2.理想をもって

・私たちは、ここでの言葉が個人に対してでは無く、共同体に対して言われていることに留意すべきです。「あなた方(複数)は地の塩(単数)」だと言われています。マタイは明らかに教会に対して呼びかけているのです。教会が教会であり続けためには,その塩味を失ってはいけない、教会は世を照らす光であり続けよということです。言い換えれば,教会はその理想を見失うなと言われているのです。
・青山学院は「地の塩、世の光」という言葉を建学の精神にしています。学院は言います「地の塩は味をつけ、腐れを防ぎ、清める役割を果たします・・・隠し味的に、目立たぬ行いで人のため社会のため、意味を与え腐敗を防ぎ、汚れを清めていく人材を学院は輩出していきます。世の光は誘導燈・燈台の灯のように導き、明るさと暖かさを与えるのが光です・・・その如く、目立つ行いで希望の光として励ましと力、エネルギーを周囲に発していくことを本学院はつとめとします」。今日の青山学院がミッションスクールとしての役割を果たしているか、「塩味を保ち続けているか」、青山関係者はいつも考えているのでしょう。
・またアメリカでは「丘の上の町」(マタイ5:14)という言葉が特別の意味を持っています。アメリカ建国の指導者ジョン・ウィンスロップは、英国から新大陸を目指す船上で「丘の上の町」と題する説教を行いました。「主が『ニューイングランドの植民地を造られた』と人々が言うようになるとき、イスラエルの神が私たちの間におられることを知るであろう。そのために我々は、全ての人々の目が注がれる『丘の上の町』とならなければならない」。アメリカ建国の父祖たちは、「自分たちが世の光となり、新しい土地で神の国、すなわち『丘の上の町』をつくり、全ての人々の手本となって神の栄光を世に示そう」としたのです。
・ウィンスロップの説教から400年後の今日でも、建国の理想は、アメリカ社会に生き続けています。1961年ジョン・F・ケネディは、大統領就任演説で述べています「今日、全ての人々の目はまさに私たちに注がれている。政府の全ての機関は、連邦、州、各自治体の全てのレベルにおいて『丘の上の町』とならなければならない。その町を構成しそこに住む者は、大いなる信頼と大いなる責任を備えていなければならない」。またロナルド・レーガンは、大統領演説(1986年)で語っています「この町は今も自由を求める人々の灯台であり、失われた場所の暗闇の中から安住の地を求める全ての旅人たちのためにある」。そして2011年にオバマ大統領は一般教書演説の中で言います「アメリカが世界のリーダーシップを摂り続け、単なる地図上の国でなく、『世の光』であり続けられるかどうか、そのすべてが我々の手にかかっている」。
・「選ばれた神の民としてこの世に対して果たすべき使命がある」というアメリカ建国の理想は今も生きているのです。組織や団体は時間の経過と共に,その理想が色あせ,腐敗していきます。しかし、それでも理想を持つことは必要です。自分たちは塩味を保っているのか,自分たちは光としての存在であり続けているのかを客観的に振り返ることが出来るからです。では私たちの教会はどのような理念、理想をもって,ここにいるのでしょうか。

3.私たちにとって、地の塩、世の光とは何か

・今日の招詞にマタイ5:11-12を選びました。今日の聖書個所の直前にある言葉です。「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。イエスは集まってきた人々を祝福されました。「心の貧しい人々は幸いである。悲しむ人々は幸いである。柔和な人々は幸いである」と言う言葉の最後に、「迫害される人々は幸いだ」という言葉があります。
・迫害されることが何故幸いなのでしょうか。イエスに「地の塩、世の光」と呼びかけられた人々は、社会の有力者でもなく、信仰のあつい人々でもありませんでした。普通の人々、むしろ普通以下の、社会的影響力を持たない人たちでした。貧乏人や罪人や障害者として、社会から差別され、疎外されていた人々でした。そういう人たちがイエスの周りに集まり、彼らに対してイエスは言われました「あなたがたこそまさに地の塩であり、あなたがたこそまさに世の光である」。
・「貧しい人は幸いだ」。何故なら、貧しい人は、「明日も食べ物を与えてください」と神に祈ってから床に就きます。翌日、食べ物が与えられた時には、養って下さった神に感謝します。豊かな人にとって、食べ物があるのは当たり前で、与えられても感謝などしません。どちらが神に近いか。貧しい人ほど神に近いから、幸いなのです。「悲しむ人は幸いだ」。何故なら、自分が悲しんでこそ、他者の悲しみがわかります。自分の子供が不登校になって、どうしたらよいか、おろおろして、カウンセリングに行き、不登校の子を持つ親の会に行き、そこで悩みを分かち合うことを通して、助けられ、次には自分が助ける者となります。喜んでいる人は自分の喜びしか見えません。だから、悲しむ人は喜ぶ人よりも幸いなのです。「迫害される人は幸いだ」。迫害される人は、自分の信仰、自分の行き方を理解し、支持してくれる人が誰もいません。誰もいませんから、神に頼ります。その時、神は憐れんで下さる。迫害される人は、神の憐れみを知っているから幸いなのです。人にほめられ、満たされている人は神を求めません。だから、ほめられ、満足している人は不幸なのです。
・「あなたがたは地の塩、世の光」と言われています。あなたがたとは、この説教を聞いている弟子たちであり、群集です。それは、今日、この礼拝に集まってきた私たちに向かっても語られています。塩が塩として働く時、その形は溶けてなくなります。光は自分のために輝くのではなく、相手を照らすために輝きます。塩であり、光であることは、自分がなくなって相手を生かす存在になることです。地の塩、世の光であるとは、立派なクリスチャンになって、その行為で周りを感化することではなく、社会を改革するために熱心に行為することでもありません。私たちは自分の罪を知り、自分の惨めさに泣いたことがあるから、ここに集まっています。泣いたことのある者だけが、他者の悲しみを悲しむことが出来ます。苦しんだことのある者だけが、他者の苦しみを理解できます。「私たちは既に地の塩、世の光なのだ。だから塩味を失うな、明かりを消すな」と励まされているのです。

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