1.長血を患う女の癒し
・マルコ福音書を読んでいます。今日の個所マルコ5章21節以下には、二つの物語が同時進行的に描かれています。イエスがゲラサ人の地からガリラヤにお戻りになった時、会堂長ヤイロがイエスを待っていました。彼の娘が危篤であり、イエスに助けを求めに来たのです。イエスは会堂長の家に向かいますが、その途上で長い間出血の病気に苦しむ女性と出会われ、彼女を癒されます。イエスは彼女に「あなたの信仰があなたを救った」とその信仰をほめられます。そこに会堂長の家から「お嬢さんは亡くなりました」との知らせが届きますが、イエスは「ただ信じなさい」と言って、会堂長の家に向かわれ、死んでいた娘をよみがえらせます。二つの物語に共通する言葉は「信仰」です。今日は信仰が私たちの人生をどのように変えていくかについて、御言葉から聞きたいと思います。ただ今日はその中で、「長血を患う女の癒し」として知られている物語に集中していきます。
・今日の聖書箇所は5:25からですが、物語の構造を知るために5:21から読んでいきましょう。イエスが舟でガリラヤに戻られると、船着場に会堂長のヤイロが来ていて、「私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と救いを求めました(5:23)。イエスはすでにユダヤ教会から異端の疑いをかけられ、会堂に入ることを禁止されていました(3:6)。そのイエスの足元にユダヤ教の指導者がひざまずきます。「娘が死にかけている」、極限状況に追い込まれた会堂長は、イエスの癒しのうわさを聞いて、この人ならば娘を治してくれるかもしれないと一縷の望みをいだいて、世間体や打算を超えて、イエスの前にひざまずいたのです。イエスはヤイロの信仰に感動され、家に向かわれます。
・イエスの周りには大勢の群集がいました。その群集の後ろから長い間病気に苦しむ一人の女性が、イエスの衣に触れ、触れた瞬間癒されます。マルコは記します「ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである」(5:24-28)。イエスはこれまで多くの病の癒しをして来られました。そのため、奇跡行為者としてのイエスの評判は高まり、「病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せ」ました(3:10)。この女性もその評判を聞いてイエスの許に来たのでしょう。
・マルコはこの女性の病気を「マスティクス=鞭」という言葉で定義します。鞭、神から与えられた災いとの意味です。この女性の病気は慢性の子宮疾患だと思われますが、当時出血を伴う病気は不浄とされ、人前に出ることを禁じられていました。律法を記したレビ記は次のように規定します「生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており・・・これらの物に触れた人はすべて汚れる」(レビ記15:25-26)。古代の人々は死者に触れたり、出血に触ることによって、病気が感染すると考えて、これらの人々を不浄として排斥していたのです。ですから彼女は正面からイエスのところに近づくことは出来ず、後ろからこっそりとイエスの服に触れました。「この方の服にでも触れればいやしていただける」、この記述の中に、何とかして治りたいという女性の強い気持ちが現れています。そして実際イエスに触れた途端に、「すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」(5:29)。原文では「血の源は乾いた」とあります。
・一方イエスの方も「自分の内から力が出て行ったことに気づかれ」ました。この力はギリシャ語デュミナス、神の力です。この神の力が外に働けば、力ある業=奇跡が起こります。イエスは「私の服に触れたのは誰か」と言われて、神の力を受けた人を探し出そうとされます。癒していただいた女性はおずおずとイエスの前に出てひれ伏します。イエスは彼女に言われます「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(5:34)。イエスはこの女性が長い間苦しんできたことを即時に見抜かれました。病に苦しむだけではなく、社会から不浄の者として排斥され、結婚して家族を持つという人並みの幸福さえ奪われてきた悲しみを見られました。だから女性に言われます「安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。女性の必死の思いとイエスの憐れみが、死んでいた一人の人をよみがえらせたのです。
2.信仰は病気を癒すのだろうか
・当時の人々は、病気の原因は悪霊であり、神からの権能を授かった霊能者が悪霊を追い出せば病気は治ると思っていました。イエスが多くの病気を治したことは、イエスの敵さえも認めています。前に読みましたマルコ3章では、エルサレムから下って来た律法学者たちが「(イエスは)悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(3:22)と批判しています。イエスの悪霊追い出し(病気の癒し)は、ここでは当然のこととされています。またイエス御自身は「神が与えて下さった力で悪霊を追い出し、病気を癒しているこの事実こそ、神の国がきたしるしだ」と考えておられたようです。イエスは言われます「私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11:20)。しかし現代の私たちはこのような考え方を信じることが出来なくなっています。病気はウィルスや細菌や体の不調によって生じるのであり、悪霊の働きだとは思えないからです。ではイエスはこの長血を患う女性を癒されなかったのでしょうか。私自身はこの出来事が現実に起こったと考えています。何故ならば病気に対する心や精神の働きの重要性を知っているからです。
・V.フランクルの書いた「夜と霧」を読み直しました。フランクルはユダヤ人ゆえにアウシュヴィツ収容所に入れられ、奇跡的に生き残った精神科医です。彼は言います「収容所で死んでいったのは、体の弱い人たちではなく、希望を失った人たちだった」。そして自分の体験した出来事を紹介しています。Fという名前の人が「1945年3月30日に解放される」という夢を見たそうです。フランクルが聞いたのは3月初めでした。「このFという名の仲間は、私に夢の話をしたとき、まだ充分に希望を持ち、夢が正夢だと信じていた。ところが、夢のお告げの日が近づくのに、収容所に入ってくる軍事情報によると、戦況が3月中に私たちを解放する見込みはどんどん薄れていった。すると、3月29日、Fは突然高熱を発して倒れた。そして3月30日、戦いと苦しみが、彼にとって 終わるであろうとお告げがあった日に、Fは重篤な譫妄状態におちいり、意識を失った。3月31日、Fは死んだ。死因は発疹チフスだった」。彼は医者としてFの死因を分析します。「勇気と希望、あるいはその喪失といった情調と、肉体の免疫性の状態のあいだに、どのような関係が潜んでいるのかを知る者は、希望と勇気を一瞬にして失うことがどれほど致命的かということも熟知している。仲間Fは、待ちに待った解放の時が訪れなかったことにひどく落胆し、すでに潜伏していた発疹チフスにたいする抵抗力が急速に低下したあげくに命を落としたのだ」。
・人は希望を失くした時に生命力が果てます。逆に希望、あるいは信仰を持ち続けるかぎり、生き続けます。長血を患う女性は、神の人として評判の高いこの人に触れれば治るとの一途の思いから、イエスに近付き、触れ、そして癒されました。現代医学では、病気を治す力は人間に本来的に備わっている「自然治癒力」であることを認めています。人体の免疫機能、防衛機能、再生機能が病気を癒し、この機能を促進するために、薬が処方され、栄養のある食べ物が与えられ、十分な休息が与えられて、病気は治るのです。この娘は必死に求めました。その信仰、あるいは信頼が病をいやしたと言えるのではないでしょうか。
3.神の国は来ている
・病気の癒しの問題は現代の私たちにとっても、切実な問題ですから、角度を変えて考えてみましょう。そのための招詞としてマタイ10:7-8を選びました。次のような言葉です「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」。イエスが弟子の12人を派遣する時に、言われた言葉です。ここには「神の国が来た。そのしるしは病人が癒され、死者が生き返ることだ。だからあなたがたは行って、その業をなしなさい」というイエスの言葉が記されていますが、この言葉は現代の私たちにはそのまま受入れることが難しい内容を含んでいます。いくら祈っても治されない病はあり、いくら願っても死んだ者が生き返ることはないことを知っているからです。「信じる者には何でも出来る」(9:23)とイエスは言われましたが、不信仰の私たちには出来ない。この問題を私たちは解決する必要があります。
・イエスは長血を患う女性に言われました「あなたの信仰があなたを救った」。ここにいう救いとは病の癒しのことよりも病の癒しを通して与えられた社会復帰の喜びを言うのでしょう。ギリシャ語では癒しは「イアスタイ」、救いは「ソーゼイン」という言葉で、ここでは「ソーゼイン」が用いられています。イエスの癒しは単なる健康の回復だけでなく、同時に宗教的な救いも含まれています。私たちが求めるべきものは癒しよりも救いです。何故なら癒し=健康の回復があっても人はいずれ死にます。死を超えた救い「ソーゼイン」こそ、本物です。
・現実の世界では、どのように祈っても病が癒されず、終には死んでしまうことが大半です。ここで私たちは「癒し」や「死からのよみがえり」は神の業であり、私たちにはその奥義を知ることが出来ないことを改めて認識する必要があります。パウロが言うように「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(1コリント13:12)。それを無理に見ようとして、「祈れば治ります」とすることは人間の限界を超えた行為です。マルコ福音書は紀元70年ごろ、ローマで書かれたと言われています。ローマではキリスト者弾圧が続き、教会の仲間が次々に捕えられ、殺されていった時代です。その中で「信仰があればイエスは癒して下さる、救って下さる」ことをマルコは証ししています。
・ですからマルコは「癒されない恵み、救われない死」があることを前提にこの物語を書いているのです。ハンセン病患者への牧会に生涯をささげた河野進牧師は言いました「病まなければ、捧げ得ない祈りがある。病まなければ信じ得ない奇跡がある。病まなければ、聴き得ない御言がある。病まなければ近づき得ない聖所がある。病まなければ、仰ぎ得ない聖顔がある。おお病まなければ私は人間でさえもあり得なかった」。ここには「生きる勇気」があります。病にも拘わらず人生を肯定する「希望」があります。これこそフランクルの言う「アウシュビッツを生き抜く力」、マルコの伝えたかったメッセージではないでしょうか。神の国は来ています。「癒される恵み」と共に、「癒されない恵み」があることを、今日は覚えたいと思います。