1.嵐の中で慌てふためく
・マルコ福音書を読んでいます。今日与えられたテキストは「湖上の嵐」の物語です。イエスが弟子たちと舟に乗って向こう岸に行こうとされた時、突然の嵐になり、舟が沈みそうになりますが、イエスが風と波をお叱りになると嵐は静まったという不思議な物語です。現代の私たちは、このような奇跡があったことを信じるのが難しくなっています。しかし初代教会はこの物語を通して大きな励ましを受けました。今日は、この初代教会の受け止め方を通して、この物語が現代の私たちに何を語りかけてくるのか、ご一緒に聞いていきます。
・物語は4章前半から続きます。イエスはガリラヤ湖のほとりで人々を教えておられましたが、夕方になりましたので、人々を解散させ、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われました。一日の働きに疲れて、休息の時を持ちたいと思われたのでしょう。弟子たちは舟を出して、漕ぎだし始めました。イエスは疲れのためか、すぐに深い眠りに落ちられました(ルカ8:23)。舟を漕ぎ出してまもなく、突然強い風が吹き始め、波が激しくなりました。ガリラヤ湖は海面下200メートルの低地にある、周囲を山に囲まれた湖です。天気の良い日には暖められた空気が上昇して希薄になり、夕方になりますと山から突風が吹き下ろしてきます。あたりは全くの暗闇です。風が強まり、波は荒れ、舟は木の葉のように舞い、沈みそうになります。
・ペテロやアンデレはガリラヤの漁師でしたので、湖のことはよく知っています。最初は自分たちで何とか出来ると思い、努力したことでしょう。しかし、このたびの嵐は彼らの手に負えないほどのもので、舟は水をかぶって沈みそうになりました。ところが、イエスは平気で寝ておられます。弟子たちはイエスを揺り動かし、訴えます「先生、起きてください。私たちがおぼれてもかまわないのですか」(4:38)。イエスは起き上がり、風を叱り、湖に黙れと言われました。すると、風も波もおさまり、静かになりました。イエスは弟子たちを叱られました「何故怖がるのか、まだ信じないのか」(4:40)。
・イエスは弟子たちを叱られました。それは、イエスが共におられたのに、彼らが恐れおののき、慌てふためいたためです。「どうして怖がるのか、まだ信仰がないのか」。私と毎日共にいて、神の不思議な業を見、話を聞きながら、なぜ嵐になると、あたかも神がおられないかのように慌てふためくのか。イエスは嵐の中で熟睡されておられました。天地を支配される父なる神に対する信頼の故です。川も海も山も、すべて父なる神の御手の中にある。一羽の雀さえも神の許しなしには死ぬことはない、ましてやあなたがたは神の子とされているではないか、それなのに何故怖れるのかとイエスは言われています。赤子はどのような嵐の中にあっても母親が抱いていれば安眠する、あなたがたもそのように安心して父に全てを委ねればよいのだと言われているのです。
2.嵐を静めるキリスト
・この物語はイエスがガリラヤ湖で嵐を静められたという伝承を元にマルコが編集したものと言われています。マルコ福音書は紀元70年ごろ、ローマで書かれたと言われています。イエスは紀元30年に十字架で死なれ、復活されました。復活のイエスに出会って再び集められた弟子たちは、「イエスは神の子であった。イエスの死によって私たちの罪は赦され、イエスの復活によって私たちにも永遠の命が与えられた」と福音の宣教を始めました。その結果、ローマ帝国のあちらこちらに教会が生まれ、首都ローマにも教会が生まれました。しかし、教会は、ローマ帝国内において邪教とされ、迫害されるようになり、紀元64年にはローマ皇帝ネロによる大迫害を受けます。教会の指導者だったペテロやパウロたちもこの迫害の中で殺されていきます。
・マルコが福音書を書いた当時のローマ教会は、迫害の嵐の中で揺れ動いていたのです。人々はキリスト者である故に社会から締め出され、リンチを受け、捕らえられて処刑されていきます。教会の信徒たちは神に訴えます「あなたはペテロやパウロの死に対して何もしてくれませんでした。今度は私たちが捕らえられて殺されるかもしれません。私たちが死んでもかまわないのですか」。ガリラヤ湖の弟子たちは「私たちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えましたが(4:38)、この「おぼれる=アポルーマイ」の本来の意味は「滅ぼす、殺す」です。弟子たちは、「私たちが滅ぼされても平気なのですか」、「私たちが殺されてもかまわないのですか」と言っているのです。つまり、マルコは湖上の嵐の伝承の中に、「主よ、私たちを助けてください。私たちは滅ぼされそうです。起きて助けてください」という教会の人々の叫びを挿入しているのです。
・嵐の中で慌てふためく弟子たちを見て、イエスは「風を叱り、湖に黙れ、静まれと言われます」(4:39)。この「叱る」という言葉エピテモーは、他の箇所では悪霊を叱る場面で出てきます(1:25,3:12)。当時の人々は海の中には、竜とかレビヤタンという怪物(悪霊)がおり、その悪霊どもが騒ぎ立てるので嵐になると考えていました。ですから「悪霊を叱る」ことによって、海は平安を取り戻すのです。迫害の中で慌てふためく教会の人々にマルコはイエスの使信を伝えます「何故怖がるのか、まだ信じないのか。天地は全て神の支配の下にある。海も風も波も、またユダヤもローマも全て神が支配されておられる。私が来てこの世は神の支配下にあることがはっきりしたのに、何故神の支配を信じられないのか。何故神に自分を委ねることが出来ないのか」と。やがて舟は初代教会のシンボルマークになっていきます。
・私たちは、順調な時には、神が共にいてくださるという事実を、感謝をもって承認します。しかし、危急存亡の時には慌てふためきます。神がおられるという事実が何の意味もないように思えます。人生には必ず嵐があります。信仰者であっても末期の癌であると告知されれば慌てふためきます。愛する人を病気で奪われた人々は訴えます「主よ、何故あの人を取り去れたのですか」。仕事を失くした人は「主よ、これからどのように生きろと言われるのですか」と訴えます。教会分裂が起こり多くの信徒が去っていった時、残された人は言います「主よ、あなたがこの教会を建てて下さったのに、何故今、この教会を壊そうとされるのですか」。私たちは救いを求めて叫びます。しかし、目に見える助けがすぐに来ない時、私たちの信仰は揺らぎます。叫んでも応答がない神に自分を委ね続けることが出来なくなるのです。
・このマルコの物語は、信仰が揺らいだ時には、イエスが起きられるまで、叫び続けよと教えます。イエスは眠っておられる、しかし、求めれば起きて下さり、「黙れ、静まれ」と嵐を静めて下さる。その後で、私たちは叱られるかもしれない。しかし、その叱りを通して、私たちは成長していきます。イエスの弟子たちも、主に従う者として、信仰と信頼にあふれて舟に乗り込みましたが、一旦嵐にあうと、今まで信じていたものはどこかに飛び去り、慌てふためきます。彼らは「自分たちは死にそうなのに、あなたは平気なのですか」とイエスを責めています。それが人間です。私たちは苦難に会うと信仰をなくしてしまう存在なのです。嵐の中では、神の国の喜ばしい知らせなど、弟子たちの頭から消えうせています。彼らの頭にあるのはおぼれる、死ぬ、その恐怖だけです。
・福音は聞いただけでは人を変える力を持ちません。福音を生きるようになって、人は変わり始めます。福音を生きる、信仰を持つことの第一歩は、自分が無信仰である事を知ることから始まります。私たちは苦難を通して、自分の真実の姿を示され、自分に頼ることが出来ない事実を知らされ、神を求め始めます。その時始めて、神は応えて下さいます。病気、苦難、災害、その他全ての不幸には意味があります。神はそれぞれの苦難を通して、私たちを導かれます。「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」(ヨブ記36:15)。苦難こそ、祝福への道です。ただ、それを知るためには長い時間と忍耐が必要です。
3.天地を支配される方に委ねて生きる
・今日の招詞に詩篇107編28-29節を選びました。次のような言葉です「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった」。詩篇107編はバビロン捕囚の地からイスラエルを開放して下さった主を賛美する歌です「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった」という告白が四度も繰り返されています(107:6,13,19,28)。
・国が滅びて50年、離散した民が新国家建設のためエルサレムに集められます。バビロンからエルサレムまでは1000�を超える荒野が拡がりますが、その荒野を捕囚民は歩き、飢えと渇きの中で主を求め、主はそれに応えて、旅路を守って下さいました。地中海地方に離散した民は船で帰国しました。23節から航海の様子が記されています「彼らは、海に船を出し、大海を渡って商う者となった。彼らは深い淵で主の御業を、驚くべき御業を見た。主は仰せによって嵐を起こし、波を高くされたので、彼らは天に上り、深淵に下り、苦難に魂は溶け、酔った人のようによろめき、揺らぎ、どのような知恵も呑み込まれてしまった。苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので波はおさまった」(詩編107:23-29)。
・私たちの人生は、荒海を航海する舟のようです。海の上を航海しますから、常に不安定です。船板一枚の下には、底知れない闇があります。嵐が来れば、木の葉のように翻弄されます。しかし、私たちの舟にはイエスが乗っておられる。眠っておられるかもしれないが、起こせば起きて下さり、嵐を静めて下さる。「風と波を叱り、静める力をお持ちの方が、私たちと共におられる」、その事を私たちは信じることが許されている、これが福音です。
・第二次世界大戦で、キリスト教国はお互いに激しい殺し合いを演じました。「殺してはいけない」と命じられたキリスト者同士が殺しあったのです。教会もこの動きの中に巻き込まれていきました。戦争終了後、敵味方で憎しみ合い、血を流しあった世界のキリスト者が連帯することはできないと思われていました。しかし1948年、世界の教会はコペンハーゲンに集まって、世界教会協議会(World Council of Churches、WCC)を結成しました。お互いの国の教会がいがみ合い、殺し合いをしたことを悔い改め、新しい共同体を造っていくことで合意し、そのシンボルマークとして「十字架の帆柱をつけた嵐に揺れる舟」が選ばれました。これからも信仰が揺さぶられるような嵐があるかもしれないが、イエスのメッセージを聞き続けていこうと彼らは決意したのです。舟は初代教会のシンボルでした。初代教会は迫害の中で震えながらもイエスにつながり続け、滅ぼされることなく、終には迫害者ローマ帝国の国教となって行きました。現代の私たちも多くの問題や課題を抱えながらも、イエスの言葉に聞き続けていきます。「主よ、あなただけが、確かに私をここに住まわせてくださるのです」、この言葉こそ、私たちの信仰告白の言葉なのです。