江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年6月17日説教(マルコ4:1-9、13-20、神の国の希望)

投稿日:2012年6月17日 更新日:

1.イエスの話された「種蒔きの譬え」

・マルコ福音書を読み続けています。今日はマルコ4章ですが、ここにはイエスが語られた三つの「種の譬え」が記されています。最初は「種を蒔く人の譬え」(4:1-20)、二番目が「成長する種の譬え」(4:26-29)、三番目が「芥子種の譬え」(4:30-32)です。いずれもよく知られている譬え話で、何度も耳にされたことのある話だと思います。この三つの譬えを通してイエスは何を言われようとされたのかをご一緒に聞いて行きたいと思います。
・イエスが最初に語られたのは「種を蒔く人の譬え」です。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった」(4:3-7)。
・パレスチナでは11月から12月にかけて、大麦や小麦の種を蒔きます。日本では最初に畑を耕し、畝を造って、そこに種を蒔きますが、当地では最初に手で畑一杯に種をまき、その後で耕して種に土をかぶせるのが一般的だったそうです。手で蒔きますから、種はいろいろな所に落ちます。ある種は道端に落ちましたが、道端は踏み固められていますから、種は根を下ろすことが出来ず、鳥が来て食べてしまいました。別な種は土が浅い岩地の上に落ちましたが、芽を出しても根を張っていないため枯れてしまいました。さらに別な種は茨の間に落ちました。当時の農耕法では、茨を完全に取り除かないで、地上部分を焼いたり刈り取ったりして除去していたため、麦の種が芽を出すと同時に、茨も伸び、麦はやがて茨にふさがれて、実を結べなかったとイエスは語られました。これら三つの種はいずれも実を結ぶことは出来ませんでした。
・しかし「良い地に蒔かれた種は豊かな実を結ぶ」とイエスは語られます。「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(4:8)。最初の種は種のままに終わり、第二の種は芽を出して終わり、第三の種は育ちますが実をつけずに終わります。このような農法は私たちから見ると大雑把すぎるような気がしますが、農夫は気にしません。種を蒔く人は長年の経験から蒔いた種に多少の損失があっても、良い種は芽を出し、成長し、豊かに実をつけることを知っているからです。ここで注目すべきは、最初の三つの種はいずれも単数形で書かれ、最後の「良い地に蒔かれた種」だけが複数形になっていることです。ですから、失われていく種(単数形)があっても平気であり、むしろ種(複数形)を蒔く時に豊かな収穫を予期しながら、希望に満ちて種を蒔くとイエスは語られています。

2.教会はこの譬えを「福音の種の譬え」として聞いた

・私たちはこの譬えを、これまで、「福音の種を蒔く時、あるものは芽を出さず、他のものは芽を出すが成長しない。しかし必ず豊な実りをもたらす種もあるから、くじけないで蒔き続けなさい」というふうに教えられてきました。この譬えに続く13節以下の譬えの説明がそう読むように指示しているからです。しかし最近の聖書学の研究では、マルコ4章13節から20節はイエス後の教会が解釈したものがここに挿入されていると教えます。15節を見ますと、譬えの解説があります。「道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る」。「御言葉」(ホ・ロゴス)というのは初代教会特有の言葉で、イエスは用いられませんでした。また文体も1−9節と大きく異なっていると言われています。「御言葉が蒔かれても」、イエス後の教会が宣教に励んでも、それを受け入れる人が少なかった伝道の困難がここに表明されているようです。
・16−17節は次のように解釈されています。「石だらけの所に蒔かれる者とは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受入れるが、自分には根がないのでしばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」。初代教会は同胞ユダヤ人社会からの迫害の中にありました。迫害を嫌って信仰から離れる人々が後を絶たなかった現実の中で、このような言葉が表明されているのでしょう。
・18−19節では、「また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」。この世の思い煩い、富の誘惑、その他の欲望が信仰の成長を阻むという現実がマルコの教会にもあったのです。しかし少数であれ、福音の言葉を受け入れ、イエスに従っていく人たちが存在します。マルコは証しします「良い土地に蒔かれた者とは、御言葉を聞いて受入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」(4:20)。
・「御言葉が蒔かれる」、「御言葉につまずく」、「御言葉のために迫害が起こる」、当時の教会は一生懸命に伝道しましたが、実りの少なかった厳しさが反映されています。初代の教会の人々は、イエスが語られた「種まきの譬え」を、伝道に行き詰まっている自分たちの教会に語られた言葉として聞き、「必ず御言葉を聞いて受け入れる人が出てくるから、たゆまず伝道しなさい」と聞きました。それが4章13-20節の部分なのです。この部分は、初代教会がどのように苦労して伝道していったかを知る上で貴重な証言であり、現実的な受け止め方です。しかし、イエスが語られたのはそういう意味ではなかったと思えます。イエスはこの「種の譬え」を通して、何を語られたかったのでしょうか。今日は13−20節の解釈を一旦離れて、御言葉の意味を考えていきます。
 
3.私たちはこの譬えをどのように聞くのか

・今日の招詞にマルコ4:26-27を選びました。次のような言葉です「また、イエスは言われた『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない』」。イエスは「種蒔きの譬え」を話されました。その中で「種を蒔く人は長年の経験から蒔いた種に多少の損失があっても、良い種は芽を出し、成長し、豊かな実をつけることを知っている。だから多少失われていく種があっても平気であり、むしろ将来の豊かな収穫を予期しながら、希望に満ちて種を蒔く」と語られました。その希望の根拠がこの二番目、三番目の譬えの中にあるような気がします。蒔かれた種は神の種であり、種そのものに命があるゆえに、種はその力で成長していくのです。
・この秘密を最もよく実感する者は種を蒔く農夫でしょう。農夫が種を蒔く時、彼はその種がどのようにして成長するのかはしりません。しかし、長年の経験で、種が蒔かれ、土がかぶせられ、雨が降り、太陽が射すうちに、種は発芽し、茎が伸び、穂が出て、やがて豊かな実をつけることは知っています。イエスは言われます「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」(4:28-29)。「良い地に蒔かれた種は多くの実をつける、それは種に命があるからだ」、これこそがイエスが種蒔きの譬えで言われたかったことではないでしょうか。
・イエスは続けられます。それが三番目の芥子種の譬えです。イエスは言われます「神の国を何に譬えようか。どのような譬えで示そうか。それは、芥子種のようなものである。土に蒔く時には、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」(4:30-32)。芥子種は大きさ1ミリに満たない、種の中で最も小さいものです。文字通り「ケシ粒」のような種です。その最も小さい種でさえ、蒔いて成長すると3メートルほどの大きさになります。
・イエスは「神の国は来た」と繰り返し言われましたが、誰もそれを認めようとしません。種が小さすぎて目に入らないからです。今、イエスの目の前には、かつては漁師や徴税人だった少数の弟子たちしかいません。エルサレムの宗教当局者はイエスを律法の違反者として追跡し、捕らえて裁判にかけようとしています。そのような人物が、「神の国は来た。私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11:20)といっても誰も信じようとしないでしょう。イエスの伝道の業は芥子種のようで、あるかないかすらわからないほどの存在でした。それはイエスが生きておられた時には実を結びませんでした。しかしイエスは、それが神の種であればいつかは発芽し、成長し、多くの収穫を結ぶと信じておられました。その確信をイエスは三つの種の譬えで話されたのです。イエスが十字架で死なれた時、誰もそれがやがては世の中を変えるような出来事だとは思いませんでした。しかし、イエスの十字架から、多くの芽が発芽し、それはやがてローマ帝国を覆い、全世界を覆うほどの大木になって行きました。
・種蒔く人の譬えは、人々の拒絶を前にしても怯むことなく、神への信頼に基づく希望の中に生きられたイエスの姿を伝えています。私たちはそのイエスから霊を受け、神の子とされ、既に神の国、神の支配の中に生きている存在です。世はまるで神などいないような現実を示しています。誰もが自分勝手であり、「隣人を愛しなさい」という言葉が空虚に響くような世界を生きています。不条理に満ち満ちています。その中で小さな教会を形成し、そこに何人かの人が集まっていたとしても、その教会の中に神の国が来ているとは信じないでしょう。しかし私たちは神の種をいただいている者たちの共同体です。いただいているものが神の種である以上、必ず発芽し、成長し、多くの実を結ぶようになります。この世がたとえ「神なき世界」のように見えても、この世界を支配しておられるのは神であることを信じて、その希望の中で私たちは生き、教会を形成しています。イエスの「種の譬え」は、その私たちを励ますために語られているのです。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ13:32)。この希望に私たちは生かされているのです。

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