江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年4月29日説教(使徒27:13-44「嵐の中の祈り」)

投稿日:2012年4月29日 更新日:

協力牧師 水口仁平

1.ロ−マへ護送されるパウロ
・パウロは小アジア、タルソスのユダヤ人の家に生まれました。彼は元来熱心なファリサイ派で、キリスト者を迫害していました。そのパウロが回心して、迫害されるキリスト者の側に、立場を変えたのはなぜでしょうか。ファリサイ派だったパウロには迫害がどんなに残酷なものか、十分に分かっていたはずです。そのパウロが迫害を受け、ときにはステファノのように命を失う危険もあるのに、迫害を受けるキリスト者の側に立場を変えたのは、本当に不思議です。パウロを心の底から揺り動かし、根本からパウロを変えたもの、イエス・キリストとの出会いでした。キリストは、そのパウロを、どんな苦難もいとわない、迫害どころか、死さえもいとわない伝道者に変えました。「使徒言行録」はそんなパウロの姿を伝えています。
・「パウロはマケドニア州とアカィア州を通りエルサレムへ行こうと決心し、『私はそこへ行った後、ローマも見なくてはならない』といった」(19:21)とあります。小アジアとギリシャの伝道から帰ったパウロは、次の伝道目標をロ−マに絞っていたことがこの記事からわかります。その頃「すべての道はロ−マへ通ず」と言われたロ−マは世界の中心でした。そのロ−マに福音を伝えることは、パウロが主イエスから委ねられた使命だったのです。しかし、エルサレムに帰ったパウロは、暴動に巻き込まれてしまい、危うく暴徒に命を奪われそうになり、ロ−マの千人隊長に救われました。そのうえ、騒動への関与を疑われて捕えられ、無実を弁明していれられず、二年間監禁されました。エルサレムでは正しい裁判を受けられないと考えたパウロは、ロ−マ皇帝への上訴を決意しました。ロ−マ伝道を目標にしていたパウロは、皮肉にも、囚人として海路を、ロ−マへ護送されることになりました
・パウロは他の囚人といっしょに、ロ−マ直属の百人隊長ユリウスに引き渡され、ロ−マへの船旅が始まりました。しかし、その船旅は順調ではなく、船出はしたものの風向きが悪く先へ進めず、クレタ島で風が変わるのを待つことになりました。この時代の帆船は一枚帆で、後の大航海時代の帆船のように向かい風用の帆をもたず、追い風を受けての帆走しかできなかったのですから、無理もありません。記録によれば、当時の航海で一番安全なのは、風が安定する春から夏でした。夏が過ぎた頃から、護送を始めるのは海が荒れるので危険です。それなのに、護送を始めたのは、パウロがロ−マ皇帝に上訴したからです。総督にとって、面倒な囚人は、早く送り出して、厄介払いしたかったのに違いありません。
・船はシドンの港から、地中海を西に向かい出発しました。しかし、向かい風のため進めません。秋の初めは航海には向かないのです。「船は向かい風を避けてキプロス島の陰を航行し、キリキア州とパンフィリア州の沖を過ぎ、リキア州のミラに着き」ました。「百人隊長はイタリアへ行くアレキサンドリア行きの船を見つけて」(27:3-6)、パウロたちを乗り換えさせました。この船は北アフリカのアレキサンドリアから、ロ−マへ地中海を横断する大型船なので、頼りがいがあると判断したのです。しかし、その大型船をもっても、西風が強く進めませんでした。やむなく、風を避けて島陰を伝い、クレタ島の南の「良い港」に到着、風が治まるのを待ちました。その間に、「かなりの時がたって断食日も過ぎていたので航海はもう危険であった。」(27:9)というようになりました。この「断食日」は、9月の秋分の日近くで、「大贖罪日」とも言います。9月中旬を過ぎた地中海は、西風が吹き荒れ航海は危険でした。さらにその後の、11月から3月までの冬の地中海は、もっと危険でした。

2、役立てなかったパウロの忠告

・数回の地中海航海を経験していたパウロは、その危険を承知しており、「皆さん、私の見るところでは、この航海は積荷や船体ばかりではなく、私たち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります」(27:9-10)と忠告しますが、百人隊長はパウロの言うことより、船長や船主の言い分を信用して、聞き入れません。しかし、この「良い港」は冬を越すのに向かないので、南西と北西に面したクレタ島のフエニクス港で冬を越すことになりました。「ときに、南風が静かに吹いてきたので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。しかし、間もなく『ヱウラキロン』」と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろしてきた。船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、私たちは流されるにまかせた。やがてカウダという小島の陰に来たので、やっとのことで小船をしっかりと引き寄せることができた」(27:13-16)。「エウラキロン」というのは、ヱウラつまり、ユ−ラシア太陸、(ヨ−ロッパ太陸)から吹くクロン(台風)のことです。北東から吹くヱウラクロンは、陸地近くの船を沖へ吹き流しますから、沿岸を航海する船にとって、とても危険な風なのです。
・「小船を船に引き上げてから、船体に綱を巻き付け、シルテイスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて海錨を降ろし、流されるにまかせた。しかし、ひどい暴風に悩ませられたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた」(27:17-20)。マストを倒して風の抵抗を無くし、小船を船体に付け、船を大きくし、錨を降ろして、船を安定させ、船を風に流されるままにします。それが、暴風に出会ったときの昔の帆船の最善な航海術でした。

3.嵐の中でのパウロの祈り

・しかし、この絶望の中でパウロは立ち上がり、皆を激励しました。「『皆さん、私の言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失は避けられたにちがいありません。しかし今あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。私が仕え、礼拝している神からの天使が昨夜私のそばに立って、こう言われました。「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ」。ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に告げられたことは、そのとおりになります。私たちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです』」(27:21-26)。「十四日目の夜になったとき、私たちはアドリア海を漂流していた。真夜中ごろ船員たちは、どこかの陸地に近づいているように感じた。そこで、水の深さを測ってみると、二十オルギィアあることが分かった。もう少し進んでまた測ってみると、十五オルギィアであった」(27:27-28)。
・とうとう、パニックが起きました。「船が暗礁に乗り上げることを恐れて、船員たちは船尾から錨を四つ投げ込み、夜の明けるのを待ちわびた。ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろすふりをして、小船を海に降ろしたので、パウロは、百人隊長と兵士たちに、『あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない』と言った。そこで、兵士たちは綱を断ち切って、小船を流れるにまかせた」(27:27-32)。「夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするよう勧めた。『今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません』。こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで一同も元気づいて食事をした。船にいた私たちは、全部で二百七十六人であった。十分にたべてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。」(27:33-38)。
・空腹は人をいらだたせますから、パウロは、まず人々に食事をさせ、落ち着きを取り戻すことにしました。空腹を満たすことで冷静になり、さらに、共に祈ることで、連帯感を保つことができました。そのとき、パウロが神に祈ってパンを裂いたことは、神にすべてを委ねる信頼感を人々に抱かせました。食事をした人々は元気を取り戻し、砂浜の入り江のある島を見つけ、船首を乗り上げ、船を座礁させました。難破した船から泳いで逃げないように兵士たちは、囚人を殺そうとしましたが、百人隊長はパウロを助けたいので阻止しました。パウロへの信頼がそうさせたのです。そして、泳げる者から海に飛び込み、残りの者は板切れなどにすがり全員が上陸、パウロが預言した通りに全員が助かりました(27:39-44)。
・今日の招詞にロ−マ5:2-5を選びました。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを、希望は私たちを欺くことはありません」。パウロはイエス・キリストに従い、苦難の道を行く者となりました。苦難はそれ自体喜ばしいことではありません。しかし、パウロは「苦難」に価値を見出したのです。パウロは「練達」は、「苦難」と「忍耐」から生じることを自らの信仰体験から悟ったのです。「練達」を辞書で引くと、「熟練して精通すること。物事になれて奥義に達していること」と解説され、用例として「練達の士」があげられています。信仰の奥義に達したパウロはまさに、この練達の士でした。絶望している難波船の人々に希望を与え、危機から脱出させることができたのは、この練達の士パウロの指導があったからです。
・沈没寸前の船の上で指導者は船長から、囚人パウロへと交代しました。人々は暴風に押し流される船の中で、為すすべない船長ではなく、確信に満ちたパウロを信頼しました。今日のキリスト者の社会的役割をパウロは示しています。それは、信仰があるから、世の嵐に逢わないというような、単純な理解ではありません。それどころか、信仰をもつ者も生きているかぎり世の嵐に逢い、世の嵐に翻弄され、不安と恐れに陥り、絶望の淵に立たされることもあります。しかし神を信じる者は、どんな嵐に出逢っても、耳をすませ、「恐れるな」と、励ます神の声を聴くことができるのです。太陽も星も見えない嵐の中、人の知恵では自分の居場所も分からない時も、神の導きにより、行く道を示されるのです。そして、絶望の中からでも希望を見出すのです。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、そして練達は希望を生む」のです。この希望は私たちを欺くことはないのです。
・讃美歌「Amazing Grace」はジョン・ニュートンによって作られました。ジョン・ニュートンは18世紀のイギリスに生きた人で、黒人奴隷を運ぶ船長でした。1748年、彼の船がアフリカからアメリカに向かっていた時、船は大嵐に遭遇します。もう助かるまいと観念する程の命の危険にさらされた時、ジョンは初めて「神様、助けてください」と叫びました。嵐もおさまった時、ジョンは母が残してくれた形見の聖書を取り出して読み始めます。人間の力を超える神の存在を、嵐を通して知ったからです。神は、恐ろしい罪にまみれているジョンの姿を示されました。奴隷商人として生きてきたこれまでの人生を彼は悔い、「神様、こんな私でも救われますか」とひざまずきました。「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」、その声を聞いて、ジョンはイエス・キリストを自分の救い主と信じ、まったく新しい人に変えられました。「こんな愚かな、どうしようもない者をも神は救って下さった」。詩の内容は彼の悔い改めと救いへの感謝に満ちています「驚くほどの恵み、なんとやさしい響きか。私のような、ならず者さえも、救われた。かつて私は失われ、いま見出された。盲目だったが、今は見える」。Amazing Graceは死ぬほどの危難の中から救って下さった神への感謝の歌なのです。
・現代の私たちは、科学技術の進歩のために、死ぬほどの危険に直面し「神様、助けてください」と祈ることは少なくなりました。だから、神も遠くなりました。しかし、死は今でも私たちと共にあります。その死は病院や老人ホームに隠されているから、私たちに見えないだけなのであり、本質部分はパウロの時代とも、ニュートンの時代とも何も変わっていません。死は隠されているが、厳然とそこにある。「Was blind, but now I see」、それを見つめて生きることが必要ではないかと思います。

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