江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年11月18日説教(マルコ15:33-41、わが神、わが神、何故私を棄てられたのか)

投稿日:2012年11月18日 更新日:

1.神の見捨ての中のイエスの死

・マルコ福音書を読んでおります。マルコも今週を含めてあと二回で、今日は福音書の中核とも言うべきイエスの受難の記事、次週は復活の記事を読みます。M・ケーラーという神学者は「マルコ福音書は長い序文をもつ受難物語である」と言います。マルコはイエスの受難と復活を語るためにこの福音書を書いているのです。イエスは木曜日の夜に捕らえられ、死刑宣告を受け、金曜日の朝9時に十字架にかけられました(15:25)。十字架刑はローマに反逆した者に課せられる極刑です。受刑者はむち打たれ、十字架の横木を担いで刑場まで歩かされ、両手とくるぶしに鉄の釘が打ち込まれて、木に固定されます。手と足は固定されていますので、全身の重みが内臓にかかり、呼吸が苦しくなり、次第に衰弱して死に至ります。通常は、死体は放置され、鳥や獣に食われて、無残な姿になります。まさに見せしめのための残酷な処刑法です。
・マルコはその残虐刑にあわれたイエスの死を、感情を入れないで淡々と書き記します。昼の12時になった時、全地は暗くなり、3時まで続いたといいます(15:33)。「全地が暗くなった」、闇が大地を覆った、終末の時が来たとマルコは伝えます。3時になった時イエスが叫ばれます「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」(15:34)。この言葉はイエスが日常話されていたアラム語で残されています。おそらく、イエスの肉声を伝える言葉です。その意味は、「わが神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか」です。
・古来、多くの人がこの言葉に躓いてきました。神の子が、「私を捨てられたのですか」と叫んで死なれるのだろうか。人々はイエスが詩篇22編の一節を引用されたのではないかと想像しました。詩篇22編は次のような言葉で始まります。「わが神、わが神、何故私を捨てられるのですか」、詩篇は神に対する嘆きで始まりますが、やがて神への讃美に変わっていきます。イエスは小さい頃から親しんでおられた、詩篇の言葉で自分の思いを言われた。しかし、それは明らかに讃美ではなく、嘆きであり、苦しみの叫びです。イエスは激しい叫びと涙を持って父に訴えられた、しかし父から応答はなく、苦痛の声を上げて死んでいかれた。イエスは神に見捨てられながらも、なお神の名を叫びながら死んでいかれたとマルコは記します。
・ナチス政権に反対して1945年に処刑されたD.ボンヘッファーという牧師は死の直前に書いた獄中書簡で述べます「我々と共におられる神は、我々を棄てる神である(マルコ15:34)・・・神の前に、そして、神とともに、我々は神なしで生きる」(ボンヘッファー『獄中書簡集』417頁)。この言葉を村上伸という牧師はこう解説します「イエスは「神の前に」歩み、「神と共に」生きた。だが、最後は十字架につけられて、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と叫んで死んだ。神の子であるイエスが、神に見捨てられたと感じるほどの恥と苦しみと絶望を経験したのである。その時、彼は確かに「神なしに」生きていた。神の前に、神と共に生きたイエスが、神の不在を感じて苦しまねばならなかった。聖書の神はこのような苦しみを知り給う。正にこのことが、絶望のどん底にいる人を慰めるのである」(2006・1・22代々木上原教会説教から)。

2.弟子たちもその場にいなかった

・マタイ福音書では、イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたとあります。マルコはアラム語「エロイ、エロイ」を伝えますが、マタイはそれではわかりにくいとしてヘブル語の「エリ、エリ」に書き換えています。周りにいた人々は言いました「そら、エリヤを呼んでいる」(15:35)。預言者エリヤは生きたまま天に移され、地上の信仰者に艱難が望むとこれを救うと信じられていました。そのため、人々はイエスの「エリ、エリ」をエリヤの助けを求める叫びと考え、「エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いました(15:36)。しかし、エリヤは来ませんでした。ローマの番兵は海綿に酸いぶどう酒を含ませてイエスに飲ませようとしますが、イエスは拒否されます。このぶどう酒には没薬が混ぜてあり、飲むと痛みが軽減されます。しかし、イエスは苦痛を軽減されることなく、苦しみをそのままに受けられました。そして最期に大声で叫ばれて息を引き取られます。何の奇跡も起来ませんでした。
・イエスの十字架刑の時、弟子たちはそこにいず、ただ婦人たちのみが立ち会ったとマルコは記します(15:40)。弟子たちは逃げ去っていました。彼等は自分たちもイエスの仲間として捕えられるのが怖かった。同時に、十字架上で無力に死ぬ人間が救い主であると信じることが出来なかった。弟子たちはイエスを捨てました。パウロが言うように、「十字架の言葉はユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなもの」(1コリント1:23)です。しかし、婦人たちはそこに残り、細い糸はなおつながり、やがてこの婦人たちがイエスの埋葬を見守り、復活のイエスの目撃者になり、その出来事を通して弟子たちに信仰の回復が起こります。

3.イエスの十字架の中に神の臨在を見る

・今日の招詞に詩編22編2-3節を選びました。次のような言葉です。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」。イエスは十字架上で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫んで、息を引き取られましたが、この叫びは先ほど見ましたように詩篇22編冒頭の言葉です。弟子たちは「イエスこそメシア、救い主」と信じてきたのに、そのメシアが無力にも十字架につけられ、十字架上で絶望の言葉を残して死なれた。「この方は本当にメシアだったのか、メシアが何故絶望して死んでいかれたのか」、弟子たちは詩篇22編を通して、イエスの死の意味を探していきます。
・詩篇22編にはイエスの受難を預言するような言葉が満ちています。福音書にある人々の嘲笑の言葉も、詩篇22編から引用されています「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう』」(詩編22:8-9)。ローマの兵士たちはイエスの服をくじで分けますが、その光景も詩篇22編の引用です「犬どもが私を取り囲み、さいなむ者が群がって私を囲み、獅子のように私の手足を砕き・・・わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」(詩篇22:17-19)。最後に詩人は歌います「主よ、あなただけは私を遠く離れないでください。私の力の神よ、今すぐに私を助けてください。私の魂を剣から救い出し、私の身を犬どもから救い出してください」(詩篇22:20-21)。
・エリ・ヴィーゼルという人が一冊の本を残しました。彼はルーマニア生まれのユダヤ人で、1944年にアウシュヴィッツ強制収容所に入れられ、その体験を「夜」という本の中で記しています。彼は書きます「「ある日、私たちは作業から戻ってきたときに、三羽の黒い烏のごとく、点呼広場に三本の絞首台が立っているのを見た。点呼。縛り上げられた三人の死刑囚、そして彼らの中にあの幼いピーペルがいた・・・三人の死刑囚は、一緒にそれぞれの椅子にのぼった。三人の首は同時に交索の輪の中に入れられた」。「『神様はどこだ、どこにおられるのだ』。私の後で誰かがそう尋ねた。収容所長の合図で三つの椅子が倒された・・・二人の大人はもう生きてはいなかった。晴れ上がり、蒼みがかって、彼らの舌はだらりと垂れていた。しかし、三番目の綱はじっとしてはいなかった、子どもはごく軽いので、まだ生きていた」。「三〇分あまりというもの、彼は私たちの目の前で臨終の苦しみを続けながら、そのようにして生と死との間で闘っていた。そして私たちは、彼を真っ向から見つめねばならなかった。私が彼の前を通ったとき、彼はまだ生きていた・・・私の後で、さっきと同じ男が尋ねるのが聞こえた。『いったい、神はどこにおられるのだ』。そうして、私は、私の心の中で、ある声がその男にこう答えているのを感じた。『どこだって。ここにおられる。ここに、この絞首台に吊るされておられる』」。これが契機となり、ヴィ−ゼルは神への信仰を失います。しかし同じ収容所にいたラビは信仰を失わなかった。ヴィーゼルは、そのラビに聞いたそうです「アウシェビッツの後でどうしてあなたは神を信じることが出来るのですか」と。すると彼は「アウシェビッツの後で、どうして神を信じないでいられましょうか」と答えたそうです。
・イエスは人に棄てられ、神に棄てられ、絶望の中に死んで行かれました。イエスが十字架にかけられた時、人々はイエスを嘲笑しました。しかし、イエスが息を引き取られた後では嘲笑は消え、その代わりに思いがけない言葉が語り始められます。マルコはイエスの十字架を目撃したローマ軍の百卒長が「本当にこの人は神の子であった」と告白したと記します(15:39)。ローマでは皇帝が神の子と呼ばれました。しかし、ローマ帝国を代表してその場にいた百人隊長が、皇帝ではなく、皇帝の名によって処刑されたイエスを「神の子」と呼んでいます。何がローマの兵士にこの言葉を言わせたのでしょうか。彼はイエスの十字架死に神の働きを見ました。そこに神がおられることを感じたのです。それはヴィーゼルの叫びと同じです「いったい、神はどこにおられるのだ・・・どこだって。ここにおられる。ここに、この十字架に吊るされておられる」。この出来事から100年もしないうちに、ローマ帝国の到る所に、イエスを救い主とするキリスト教会が立てられていきます。何故イエスの死が人々の魂を揺さぶったのか。十字架とそれに続く復活が多くの人々を、「信じない者を信じる者に変えていった」(ヨハネ20:27)です。
・苦難が私たちに重くのしかかる時、私たちはしばしば言います「この苦しみはあなたなどにはわからない」。そして私たちは心を閉ざし、自分の世界に閉じこもります。しかしイエスの十字架の苦しみは私たちのどのような苦しみよりも深い。イエスは苦難の底で絶望しながらも、「わが神、わが神」と叫ばれました。イエスは「神なしで死なれた」。しかし神はイエスと「共におられた」。イエスの叫びが私たちに伝えることは「聖書の神はこのような苦しみを知り給う。正にこのことが、絶望のどん底にいる人を慰める」という事実です。私たちが苦難の中にあり、誰もそれを理解してくれない時にも、神はそこにおられる。その信仰が教会を形成していったのです。

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