1.迫害によって広がる福音
・先週私たちはイースター礼拝の中で一人の姉妹のバプテスマ式を行いました。バプテスマ式では全身を水の中に浸し、その後引き上げます。「人は一度死ぬことを通して新しい命に入る」ことを象徴する儀式です。一度死ぬとは「自分の思い、願いに生きる存在」を死ぬことであり、新しい命に生きるとは「神に生かされた存在」に移ることです。今日私たちは使徒言行録13章を通して、使徒たちのキプロス伝道の記事を読みますが、その主題は「魔術との対決」です。魔術とはご利益宗教です。信仰はご利益を超えないと本物になりえない。そのことを使徒言行録の記事は教えます。
・イエスの直弟子たちはエルサレムに教会を形成しましたが、まだ彼らは神殿に参拝し、律法を守り、ユダヤ人に伝道するという形で、ユダヤ教の枠内にいました。しかしユダヤ教の形式化を厳しく批判されたイエスの教えを徹底する時、福音はもはやユダヤ教内に留まることは出来ず、次第にユダヤ教団との対決が強まり、迫害が生じました。人々はエルサレムから追放され、そのことを通して福音がエルサレムを出て、ユダヤ、サマリアの諸地方に伝えられていきました。更にエルサレム教会の中心人物であったヤコブが殺され、ペテロが追放されるに及び、福音は遠く異邦の地に伝えられていきます。その福音はやがて、シリアのアンティオキアにおいてギリシャ語を話す異邦人にも語られ、異邦の地に教会が生まれてきます。
・13章1節でルカはアンティオキア教会の指導者たちの名前をあげています「アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた」。バルナバはキプロス出身のユダヤ人で、エルサレム教会から監督として派遣されて来ました。ニゲルと呼ばれるシメオン、ニゲルとはニグロ、黒人の意味で、彼はアフリカ出身の人でした。キレネ人ルキオ、キレネは北アフリカの都市です。マナエンは身分の高いユダヤ人でした。サウロ、彼はかつては教会の迫害者として知られていましたが、今は回心して、アンティオキアにいます。さまざまな土地から来た、さまざまな人々が、キリストの名の下に一つにされて、教会を形成しています。このアンティオキアで信徒は初めて、「クリスチャン(クリストス=キリストに属する者)」と呼ばれるようになります。私たちの教会も、さまざまな土地から来た、さまざまな人々が、キリストの名の下に集まっています。国籍だけでも日本、中国、韓国、フィリッピンとさまざまです。アンティオキア教会が多様であったように、私たちの教会も多様です。
2.アンティオキアから異邦世界へ
・アンティオキア教会で、人々は集まり、礼拝し、祈り、断食をしていました。その時、教会に神の言葉が伝えられます。「バルナバとサウロを私のために選び出しなさい。私が前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために」(13:2)。バルナバはキプロス出身で郷里伝道に強い使命感を持っていました。サウロはその召命の時から異邦人伝道を志していました(9:15)。二人が海外伝道の希望を教会に申し出たことが2節「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた」に表現されています。個人の思いではなく、神の御心が働いていることを示すルカ特有の表現です。
・バルナバとサウロは教会の中核であり、バルナバは主任牧師、パウロは副牧師的な役割だったと思われます。二人がいなくなると教会は困る、人々は困惑したことでしょう。教会は困った時には祈ります。そして痛みがあっても、それが御心であれば従おうと決心します。3−4節は原文に忠実に訳すと次のようになります「彼らは二人を解放し、二人は聖霊に遣わされてセレウキアに下った」。「聖霊に遣わされて」、教会の祈りによって送り出されての意味です。教会は二人を教会の仕事から解放し、主が求められる任務に派遣したのです。サウロ(後のパウロ)はこの時を含めて三回の伝道旅行を行なっていますが、いずれもアンティオキアから出発し、アンティオキアに戻っています。彼の伝道は個人の伝道ではなく、教会から派遣された伝道なのです。
・教会から送り出されたバルナバとサウロは、バルナバの故郷であるキプロス島に向かいました。彼らはセレウキアから船に乗り、キプロス東部のサラミスに上陸します。当時のキプロスはローマの属州であり、セルギウス・パウルスという総督に治められていました。島には多くのユダヤ人が住んでおり、二人はまずサラミスのユダヤ人会堂に行き、宣教を始めます。使徒たちの伝道はいつも「まずユダヤ人に福音を」という使命感で始められます。私たちが外国に住む時、まずそこにいる日本人社会と関係を持つのと同じで、ごく自然の行動でしょう。
・二人の伝道は評判を呼び、ローマ総督が彼らに会いたいと言ってきました。二人は首都パフォスに行きます。総督官邸にはバルイエスという魔術師がいました。彼は宮廷魔術師でした。当時の人々は占いや神託を信じていましたから、宮廷にお抱え魔術師がいることも珍しくなかったのです。彼は総督がバルナバとサウロの話を聞いて、回心することを恐れました。宮廷魔術師としての地位が脅かされると考えたからです。彼はあらゆる手を使って、妨害しようとします。サウロは彼の干渉に腹を立て、言います「あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」(13:10-11)。
・こうして魔術師の目が閉じられ、彼は見えなくさせられます。ルカは「総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った」と記します(13:12)。バルイエスが盲にさせられた奇跡を見て、信仰に入ったのではありません。神は自分を救うために、パウロとバルナバという二人を遠い国から派遣し、一人の魔術師を盲にしてまでも、自分を招いて下さった。神がこれほど自分のために心を砕き、これほどむきになって下さったことを知って、彼の心の目が開かれ、彼は信仰に入ったのです。伝承によりますと、彼だけではなく、彼の家族も信仰の道に入ったことが伝えられています(ブルース・使徒行伝P289)。
3.魔術から福音へ
・福音が外国に宣教された最初の伝道旅行においてまず魔術師との戦いが行われ、これに勝利したことは意味深いことです。聖書で魔術と言う時、ほとんどは偶像礼拝を指します。すなわち、人々の欲望をかなえるための礼拝です。ある人は偶像礼拝を「健康と富を求める神学」と名づけました。健康と富、すなわち自分の幸せのために神を利用しようというのが魔術、偶像礼拝、現代の言葉で言えばご利益宗教なのです。これは私たちの中に根深くある願いです。使徒ペテロでさえ、かつてはそのような信仰に囚われていました。
・それを示しますのが、今日の招詞として選びましたマルコ8:33の箇所です。次のような言葉です「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」。ガリラヤでの宣教の旅が終わり、エルサレムへ向かおうとする時、イエスは受難予告をされます(マルコ8:31)。イエスは、「私たちはこれからエルサレムに向かうが、そこで私は捕らえられ、殺されるだろう。しかしそれが父の御心であれば私は従う」と決意を述べられたのです。
・ペテロは自分の耳を疑いました。神から遣わされたメシアが殺されて死ぬ、そんなことがありえようか。「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」とマルコは書きます(8:32)。ペテロは全てを捨ててイエスに従ってきましたが、それはこの人についていけば自分もひとかどの人間になれると思ったからです。イエスはガリラヤで多くの癒しを行い、力ある言葉で福音を説かれ、イエスの行く所、どこでも大勢の民衆が押し寄せました。ペテロたちは民衆に絶大な人気を博されているイエスが、自分たちに声をかけてくれたから従ったのです。
・しかし今その計算が崩れようとしています。イエスがエルサレムで王位につかれて自分たちも相応の地位を与えられると思っていたのに、「死ぬためにエルサレムに行く」とイエスは言われます。「冗談ではない。私たちが何のためにあなたに従って来たのか。あなたから栄光をいただくためではないか」という思いがペテロの激しい言葉を引き出しています。そのペテロにイエスは「サタンよ、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と激しく応答されました。その後にイエスは言われます「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(8:34-35)。
・「人は一度死ぬことを通して新しい命に入る」と言いました。一度死ぬとは「自分の思い、願いに生きる存在」から、「神に生かされた存在」に移ることです。信仰はご利益を超えないと本物になりえない。矢内原忠雄は言います「信仰というのはイエス・キリストを信じて罪を赦され、心に平安と自由を与えられ、かつキリストにありて復活を信じ、死を超えての希望を与えられることである。その効果として人を愛する道徳性をきよめられ、真理を愛する知識性を啓発される。それ以外に人を驚かせるような不思議な業や、神秘的体験を必要としないのである」(使徒行伝講義P738)。
・私たちは出産が近づけば「安産の神」を拝み、受験が近づけば「学問の神」を拝むような存在です。そのような私たちは一度死ぬことを通して、ご利益信仰から本物の信仰に震われる必要があります。有名な「病者の祈り」が示すとおりです「大きなことを成し遂げるために力を与えて欲しいと求めたのに、謙遜を学ぶようにと弱さを授かった。偉大なことができるように健康を求めたのに、より良きことをするようにと病気を賜った。幸せになろうと富を求めたのに、懸命であるようにと貧困を授かった。人々の賞賛を得ようと成功を求めたのに、得意にならないように失敗を授かった。求めたものはひとつとして与えられなかったが、願いは全て聞き届けられた」。詩人が与えられたのは「弱さ」であり、「病気」であり、「貧困」であり、「失敗」でした。与えられた当初は「何故」と思ったでしょう。しかし人生を振り返ってみて、それこそが恵みであることを知った。ここに「健康と富を求める神学」からの決別があります。これが聖書の指し示す恵みです。人を幸せにするのは、健康と富ではなく、神に出会い、神に生かされる人生であります。そのことを今日の日に覚えたいと思います。