江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年9月16日説教(マルコ10:32-45、仕える者になりなさい)

投稿日:2012年9月16日 更新日:

1.イエスの三度の受難予告

・マルコ福音書を読み進めています。マルコ福音書ではイエスが三度にわたって、ご自分の死(受難)を予告されたと記します。今日の聖書箇所がその三回目ですが、この受難予告を通して、聖書は私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。それが今日、ご一緒に聞きたい事柄です。最初にこれまでの受難予告の記事を振り返ってみましょう。最初の受難予告はマルコ8章にありました。イエスはガリラヤでの宣教の旅を終えられ、エルサレムへ向かわれようとしておられます。イスラエルの宗教指導者たちはイエスに敵対し、迫害の度を強めています。エルサレムに行けば殺されるかもしれないとイエスは懸念されますが、しかし、それが神の御心であればあえて受けようと決心しておられます。だから弟子たちに言われました「人の子は多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」(8:31)。それに対してペテロは「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」とマルコは書きます(8:32)。そのペテロをイエスは「サタン、引き下がれ」と叱りつけます。自分のことばかりを考えているペテロの中にイエスはサタンを見られたのです。そしてイエスは言われます「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(8:34)。
・二回目の受難予告はマルコ9章にあります。イエスと弟子たちがエルサレムを目指して進んでいかれる途上で、イエスは弟子たちに二度目の受難予告をされます「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される」(9:31)。イエスがこの二度目の受難予告をされたのは、弟子たちが先の受難予告を理解せず、相変わらず身勝手な想像ばかりをしていたからです。マルコは記します「弟子たちは、だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」(9:34)。「誰が一番偉いのか」、弟子たちはイエスがエルサレムで王座につかれるだろうと考え、その時に誰が一番良い地位につくべきかを議論していたのです。弟子たちは今でもイエスがエルサレムで王になられると考えています。その弟子たちにイエスが言われた言葉が「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(9:35)です。
・三回目が今日のマルコ10:42以下の箇所です。エルサレムに近づいた時、イエスは三度目の受難予告をされます。マルコは記します「今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す」(10:33-34)。その直後に、弟子のヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言いました「栄光をお受けになるとき、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(10:37)。三度目の受難予告を聞いたばかりなのに、弟子たちはまだエルサレムで何が起こるかを理解していません。相変わらずイエスがエルサレムで王になられると信じ、その時に自分たちも報償が欲しいと言っているのです。
・その二人の弟子たちにイエスは言われます「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか」(10:38)。「イエスが受ける杯」、苦難の杯です。「イエスの受けるバプテスマ」、言葉の動詞形バプティゾーは溺れる、溺死するという意味を持っており、やはり死に関係した言葉です。イエスがここで言われているのは、「あなた方が私に従うとは、私の飲む苦難の杯、私の受ける死の苦しみを受けることだ。あなた方はそれを受けることが出来るのか」と言うことです。二人は「出来ます」と答えます。しかしイエスは答えられます「私の右や左にだれが座るかは、私の決めることではない」(10:40)。それは父なる神がお決めになることです。イエスとヤコブ・ヨハネの問答を聞いていた他の弟子たちは「二人のことで腹を立て始めた」とマルコは記します。

2.この受難予告を通して何が明らかになるのか

・ヤコブとヨハネの抜け駆けに、他の弟子たちは腹を立てます。彼らもまたイエスの栄光の時に良い地位につきたいから、ここまで従って来たのです。弟子たちの無理解がここでも大きくクローズアップされています。その弟子たちに言われた言葉が42節以下にあります「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(10:42-45)。偉い人=ギリシャ語メガス、ラテン語マイヨール、このマイヨール=大いなる者はローマ皇帝の別称です。ここでイエスが言っておられるのは「支配者とみなされているローマ帝国の者たちは諸民族の上に君臨し、皇帝が諸民族に対して権力を振るっている。だが君たちは決してそうであってはならない」ということです。何故ならば、イエスは「仕えられるためではなく仕えるために、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来られた」(10:45)からです。
・この三つの受難予告を通して明らかになることは、弟子たちの上昇志向です。彼らはイエスがエルサレムで王になられ、その時は自分たちも特権的な地位につけると思っているから、イエスに従って来たことが明らかにされます。彼らはイエスの苦しみを理解することなく、自分たちのことだけを考えています。「なんと言う弟子たちだ」と私たちは思いますが、「あなたはどうなのだ」と問われると、私たちも下を向いてしまいます。私たちもまた「上昇志向」の中にあるからです。身分の高い人や権力者や資産家の周りには大勢の人々が寄ってきて、必要以上に気を遣ってくれます。人に評価され、賞賛されることは心地よいものです。そういう人になりたいと思っています。しかし上に立つ人がいれば下で苦しむ人もいる。上に立つ人は、周りの人が耐えている痛みや苦しみ、悲しみが見えなくなってしまいます。メシアとしてのイエスの生涯を駆り立てるものは、苦しむ人々への共感です。私たちがイエスの後に従いたいのであれば、私たちの生き方は修正を迫られるでしょう。
・聖書は人間の罪の本質はエゴイズムにあるとみます。八木誠一という聖書学者はこのように説明します「エゴイストは、自分は自分であり、自分だけのものであり、自分だけで成り立つと考える。その自分を貫くために自分を他人に押しつけ、認めさせ、その自己実現のために他人を支配し、利用しようとする」((八木誠一「イエスと現代」p64)。その結果、この社会はエゴとエゴがぶつかり合う闘争社会になり、勝者と敗者が生まれ、支配-被支配の関係が支配し、人は支配者になるために、富や権力や名声を求めるようになるのです。しかしイエスは、「人は罪を背負った存在であるが、その人間を神は一方的に受容して下さった。あなたがたは既に神に赦されている。だから、この世的な支配-被支配の生き方から解放されなさい」と言われます。それが「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」ということの意味です。
・弟子たちはこの世の価値基準で動かされています。「競争社会の中で勝利しなさい、そのために今は苦しい勉強や困難なトレーニングに励みなさい。それが必ず報われる時が来るから」、そう教育されて私たちも育ってきました。一言で言えば「勝ち組になりなさい」という生き方です。それに対してイエスは「勝ち組になった時に本当に人生は充実するものになるのか。利害損得だけで人は幸せになれるのか。人生は人と人が愛し合う時にこそ満たされるのではないのか」と言われます。私たちはイエスから、「世にあって、神の国の価値観を生きる」人生に招かれているのです。

3.共に生きる人生へ

・「神の国の価値観」を考えるヒントがマタイ20章「ぶどう園の労働者の喩え」にあるような気がします。今日の招詞にその一節、マタイ20:14-15を選びました。次のような言葉です「自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、私の気前のよさをねたむのか」。この喩えの内容は次の通りです「ぶどうが収穫期になった。主人は労働者を雇うために朝の6時に市場に行き、1日1デナリの約束で労働者を雇った。9時にも労働者を雇った。それでも足らないので、12時にも、3時にも労働者を雇う。最後の労働者は夕方の5時になって雇われた。日が落ちて1日の労働が終わった。主人は最後に雇った労働者を呼び、彼らに1デナリの賃金を払った。1時間しか働かない労働者に1デナリが払われたことで、12時間働いた労働者の期待は膨らむ。しかし、払われたのは同じ1デナリであった。労働者たちは文句を言った」。その労働者に主人が言った言葉が招詞の言葉です。
・1時間しか働かない労働者に主人は1日分の賃金を払います。その賃金がないと、彼の家族はその日のパンを食べることが出来ないからです。12時間働いた労働者は1時間働いた労働者よりもたくさん仕事をした、役に立っていると思っていますから、1時間しか働かない人と同じ賃金であることに抗議します。それに対して主人は言います。「あなたが12時間働くことが出来たのは、神があなたに健康な体と働く場を与えてくれたからではないか。あなたが今日病気になって働くことが出来なくとも、神はあなたに1日分の賃金を下さるだろう。神の恵み、神の憐れみとはそのようなものだ」と。
・ここに「世の価値観」、これだけのことをしたからそれに見合う報酬をほしいという考え方と、「神の国の価値観」、存在することに意味があり、働くことが難しい場合は無償で糧を与えようという考えが対立しています。この世は、役に立つ者こそ価値があるとします。イエスの弟子たちが立つ視点です。イエスの生前にペテロは言いましたす「私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)。ヤコブとヨハネも従属の見返りを求めました。しかしイエスは語られます。「父なる神は満足に働けない者にも1日分の賃金を下さる。弱い人間、役に立たない人間にも、生きることを許しておられる。私たちもいつかは弱い人間、役に立たない人間になる。その私たちをも生かして下さる神の恵みを知った時、私たちの心からわきあがる思いは感謝だ。その感謝が人に仕える行為へと私たちを導く」。
・ゼベダイの二人の子、ヤコブとヨハネは、やがてそれぞれのやり方でイエスに仕えていきます。二人ともイエス亡き後、エルサレム教会の柱として働きますが、ヤコブは紀元41年頃、ヘロデ・アグリッパ王に殺され、殉教します。ヤコブはイエスが預言されたように、イエスの飲む「杯」を飲み、イエスの受ける「バプテスマ」を受けたのです。他方、ヨハネはエルサレム教会の長老となり、天寿を全うするまで教会に仕えました。イエスの弟子たちはイエスの生前、イエスを本当には理解していませんでした。その彼らに、イエスの十字架での死という出来事は恐ろしい衝撃だったでしょう。しかし弟子たちは復活のイエスとの出会いを通じて、「イエスが今も生きておられる」との確信が与えられ、そしてイエスの死を人々の罪を贖う犠牲の死だと理解し、そこからイエスが生前説いていた罪の赦しを理解しました。そして、赦しを経験した彼らは、新しい人生を歩むようになります。今日の福音は「イエスは今の私たちが無理解で仕えることが出来なくとも、出来る時が来るまで待たれる」と言うことです。この赦しの中で私たちは教会生活を続けます。

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