江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年8月19日説教(マルコ8:27-38、自分の十字架を背負ってイエスに従う)

投稿日:2012年8月19日 更新日:

1.ペテロの信仰告白

・マルコ福音書を読み進めています。本日は8章後半の部分ですが、この箇所ではペテロの信仰告白とそれに続くイエスの受難予告が語られています。イエスはガリラヤでの働きを終えられ、エルサレムに向かう決意をされました。ガリラヤでは人々はイエスを温かく迎え入れてくれましたが、これから向かうエルサレムはイエスに反対する宗教指導者たちの牙城です。既にファリサイ派の人々はイエスを殺す相談を始めており(3:6)、イエスの師であるバプテスマのヨハネは、ガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスにより殺されています(6:27)。エルサレムに行けば自分も殺されるかもしれないとイエスは感じておられました。しかし、それが神の御心であれば従おうと思っておられます。ただ弟子たちはその事を知りません。イエスは弟子たちにその覚悟をさせるために、ガリラヤを離れて北のピリポ・カイザリアに行かれました。
・その地でイエスは弟子たちに聞かれます「人々は私のことを何者だと言っているのか」(8:27)。弟子たちは答えます「『バプテスマのヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」(8:28)。バプテスマのヨハネは領主ヘロデを批判したために捕らえられ、殺されました。人々はイエスの業を見て、「バプテスマのヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」(6:14)と噂しました。エリヤは世の終わりの時に再び来ると言われていた預言者です。人々はイエスの業の中に神の力を見ました。弟子たちの答えを聞いて、イエスは再度訊ねられます「では、あなた方は私を何者だと言うのか」(8:29)。イエスの問いかけに、ペテロが答えました「あなたはメシアです」。メシア=油注がれた者です。イエスの時代、ユダヤはローマの植民地として、苦しめられていました。人々は、神がメシアを遣わされ、ユダヤから外敵を追い出し、理想の王国を作って下さると待望していました。彼らの望んだメシアはダビデのような力ある王です。ですから、ダビデの子孫からメシアが生まれると信じていました。弟子たちはイエスの中に、そのメシアを見ていました。エルサレムに入城されたイエス、民衆が「ダビデの子」として歓迎したのも、同じような解放者を求めていたからです。
・このペテロの告白が最初に為された正しい信仰告白とされ、平行箇所のマタイでは、このペテロに対してイエスが「あなたこそペテロ=岩であり、あなたの上に教会を建てる」と言われたと伝えます(マタイ16:18)。しかし聖書学者のほとんどはこの言葉はイエスの真性の言葉ではなく、後の教会が挿入したものと理解しています。何故ならば次に続く出来事が、ペテロが生前のイエスを理解していなかったことを明らかにしているからです。

2.ペテロへの叱責

・イエスは弟子たちに、これからエルサレムで起きるであろうことを伝えられます「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」だろうと(8:31)。ペテロは自分の耳を疑いました。神から遣わされたメシア=解放者が十字架で死ぬ、そんなことがありえようか。「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(8:32)とマルコは記します。この「いさめる」と訳された言葉は原語では「エピティマオー=叱責する」という強い意味を持っています。ペテロはイエスを「馬鹿なことを言ってはいけません。あなたはエルサレムで王位につくべきだ。そんな弱気になってどうするのですか」と叱っているのです。ペテロの考えたメシアは地上の王、栄光のメシアであり、彼が来ればダビデ王国の繁栄が回復されると期待していました。その王が十字架で殺される、そんなことがあるはずがない。弟子たちは家や職を捨ててイエスに従って来ました。この人に従っていけば、自分たちもひとかどの人間になれる、なりたいという願望がありました。その願望をイエスは否定しようとされている、だからペテロは必死になってイエスをいさめました。
・ここでペテロが先にした信仰告白が誤解であったことが明らかになります。ペテロはイエスに対して「あなたこそメシアです」と告白しましたが、それはペテロの望むメシアでした。だからイエスから異なるメシア、苦難のメシアが示されると受入れることが出来ません。そのペテロに、イエスは激しい言葉を与えられました「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(8:33)。「あなたは自分たちの事ばかり考え、神のことを思っていない。今、あなたの中にサタンがいる」とイエスは言われました。師と弟子の間にすさまじい呶鳴り合いがあったのです。弟子たちがイエスを本当に理解するのは、イエスの死と復活の後です。
・その弟子たちにイエスは言われます「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救う」(8:34-35)。ここにはイエスの言葉と後代の教会の決意の双方が含まれています。イエスの死と復活の後に成立した教会は、当初はユダヤ教からの迫害、後にはローマ帝国からの迫害によって、主要な弟子たちは次々に殺されていきました。ペテロもヤコブもパウロも処刑されて命を失っています。その迫害の中で動揺する信徒たちに対して、マルコは、「イエスの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスに従うのだ。それこそが命に至る道なのだ。この道を捨てればあなたは滅ぶ」と励ましています。教会はイエスの十字架と、後に続く弟子たちの十字架の上に立てられているのです。

3.十字架を負って従う

・今日の招詞としてマルコ10:42-44を選びました。次のような言葉です「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。偉い人=ギリシャ語メガス、ラテン語マイヨールです。マイヨール=大いなる者、ローマ皇帝の別称です。ここでイエスが言っておられるのは「支配者とみなされているローマ帝国の者たちは諸民族の上に君臨し、皇帝が諸民族に対して権力を振るっている。だがあなたたちは決してそうであってはならない」ということです。
・上に立つためには生存競争を勝ち抜く必要があります。また仮に競争を勝ち抜いて上に立った後も、いつ地位が覆されるかわからないため、自分に取って代わる可能性のある者を排除していく必要があります。イエスが生まれた当時のユダヤ王ヘロデは、自らの権力の座をおびやかす者をことごとく殺していきました。彼は、妻、妻の兄、妻の母を殺し、妻の叔父と自分の叔父を殺し、さらに三人の息子まで殺しています。現代でも形を変えた権力闘争が企業や役所や大学の中で行われていることは周知の事実です。イエスはこのような生き方を変えよと言われます「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。歴史家は歴代のローマ皇帝の65%は自然死以外の死因で死んでおり、死因のトップは暗殺、次が自殺だと言います(ギボン「ローマ帝国衰亡史」)。この時、イエスの言われた「人の上に立ちたい者は支配するのではなく、仕えなさい」という言葉の意味が見えて来ます。聖書は私たちに、世の支配者になるということは、「暗殺や自殺で終わるような人生を歩むことだ」と示すのです。
・イエスの受難予告を通して明らかになることは、弟子たちの上昇志向です。彼らはイエスがエルサレムで王になられ、その時は自分たちも特権的な地位につけると思っているから、イエスに従って来たことが明らかにされます。彼らはイエスの苦しみを理解することなく、自分たちのことだけを考えています。私たちもまた「上昇志向」の中にあります。競争に勝ち抜いて上に立ち、人に評価され、賞賛されるようになりたいのです。しかし上に立つ人がいれば下で苦しむ人もいる。上に立つ人は、周りの人が耐えている痛みや苦しみ、悲しみが見えなくなってしまいます。メシアとしてのイエスの生涯を駆り立てるものは苦しむ人々への共感です。私たちがイエスの後に従いたいのであれば、上に立つ者となりたいとの私たちの生き方は修正を迫られます。それが苦難を背負う生き方です。
・私たちは「人生は時には苦痛に満ちたものであり、物事は私たちが望む方向に進むとは限らない」ことを知っています。それぞれが与えられた十字架を背負って生きています。すべての人が死ぬ存在である限り、人生が悲しみや苦しみに満ちているのは当然なのです。その現実を見つめて生きることこそ、十字架を背負う生き方です。その時、十字架を嫌々ながらではなく、積極的に背負う時、十字架の意味が変わってきます。先日、ある講演会でうつ病の治療方法として認知療法があることを教えられました。認知療法はABC理論とも言われています。Aは「Affairs(出来事、外部環境)」、Bは「Belief(考え方)」、Cは「Consequence(結果)」を指します。A=外部環境は変えることが出来ないが、B=考え方を変えることによって、C=結果が変わってくる。つまり、外部の出来事や現実の環境が自己を絶対的に規定するのではなく、その出来事や環境をどのように受け止めて意味づけするかによって、結果が変わりうることを患者に認知させ、治療していく方法です。例えば癌になった時、自分は何と不幸だろうと考えれば、癌のマイナスと考えのマイナスが相乗して、その人は癌に負けてしまいます。しかし、癌になって、神は何故癌を与えられたかとを考えていき、これまでの「がむしゃらな」生き方を見直すために病気が休息として与えられたと受け止めることが出来れば、癌のマイナスを消す考え方のプラスが働いて、結果は良くなります。
・三浦綾子さんの考え方はその典型です。「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ・・・神を信じる者にとって、神は愛なのである・・・神の下さるものに悪いものはない、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」(三浦綾子「泉への招待」)。病も障害も死も当然の出来事であり、すべての出来事には意味があり、「今は一部しか知らなくとも、そのときには、意味をはっきり知ることになる」(1コリント13:12)と思う時、現実が変わってきます。また「神は・・・試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださる」(1コリント10:13)ことを知る時、私たちは「思いのままにならない人生を喜んで生きていける」存在に変わります。
・「置かれた所で咲きなさい」というラインホルド・ニーバーの詩があります「神が置いてくださったところで咲きなさい。仕方ないとあきらめてではなく、咲くのです。咲くということは、自分がしあわせに生き、他人もしあわせにすることです。咲くということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、私はしあわせなのだということを、示して生きることなのです。神がここに置いてくださった。それは素晴らしいことであり、ありがたいことだと、あなたのすべてが、語っていることなのです。置かれているところで精一杯咲くと、それがいつしか花を美しくするのです。神が置いてくださったところで咲きなさい」。与えられた現実を神の恵みとして受け入れていく、それが十字架を背負ってイエスに従う生き方なのです。

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