江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年3月11日説教(使徒言行録4:32-5:11、教会の中に罪が芽生える時)

投稿日:2012年3月11日 更新日:

1.全てを共有化した初代教会

・今日は東日本大震災が起きてから1年の節目の日です。その時に、使徒言行録4~5章を読むように示されました。使徒言行録は教会がどのようにして成立し、成長していったかを記す書です。イエスの復活によって集められた人々は、大胆に「イエスこそ神の子であった」と宣教するようになります。聖霊降臨日(ペンテコステ)にペテロは民衆に向かって説教しました「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神がよみがえらせて下さった。私たちはその証人だ」(2:32)。聞いていた人々は「自分たちは神の子を殺した」ことを知り、悔い改め、三千人の人がバプテスマを受けたとルカは記します(2:41)。ここに教会が生まれ、その教会生活の有様が使徒言行録4章に記されています。
・ルカは記します「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」(4:32)。土地や家を持っている人は、それを売って代金を使徒たちの足元に置き、お金は必要に応じて分配され、この結果、貧しい者は一人もいなくなったとルカは報告します。「心も思いも一つにし」、原文では心(カルディア)と魂(プシュケー)が一つであったと記されます。教会の一致があり、その一致が持ち物を共有するという共同体を形成して行きました。初代教会の信徒たちは、迫害の中でイエスの復活を大胆に宣べ伝え、共に集まり、持ち物を分け合いました。彼らは、外に向かってはイエスを証しし、内に向かっては、所有に対する執着から解放されて持っているものを差し出し、共に住み、共に祈る生活へと入っていったのです。
・36節からバルナバのことが語られます「レビ族の人で、使徒たちからバルナバと呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた」(4:36-37)。この記事が示しますことは、全てを捧げる人は少なかったのでバルナバの行為が賞賛されたということです。ここで私たちは次のことを確認する必要があります。第一は「教会には一切の私有財産を禁止するという規定はなかった」ことです。あくまでも自発的な献金により教会財政が支えられました。第二に「財産を売った人はすべてを捧げなければいけないという規定もなかった」ことです。財産を処分した代金のどれだけを捧げるか、どれだけを自分の生活のために残すかは本人に任せられていました。その中でバルナバは「全てを捧げたから」賞賛されたのです。人々は信仰に燃えて献金をしましたが、あくまでも自主的な献金であったことを銘記すべきです。
・しかし、ある人々はこれを心理的な強制と受け止めました。5章にあるアナニアの記事がそれを示します。アナニアはバルナバの行為が人々の賞賛を得た事実を見て、自分の地所を売りました。ただ、その後で全てを献げるのが惜しくなり、売った代金を誤魔化します。彼は土地を売る必要はありませんでしたが、バルナバに負けまいとして売りました。一部を自分のために残すことも出来ましたが、賞賛を得ようとして全てを捧げる形をとろうとしました。彼の問題は一部を捧げたことにあるのではなく、献げ物を誤魔化すことを通して、神を欺こうとしたところにあります。ペテロはアナニアに言います「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけばあなたのものだったし、また売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」(使徒5:3-4)。アナニアは良心の呵責の故か、倒れて息が絶えました。

2.人間の中にある罪は教会を形成してもなくならない

・アナニアの記事は印象的です。彼が、「これは土地を売った代金の一部です。残りは私の生活のために用います」と言って捧げた時、誰もアナニアを責めなかったでしょう。しかしアナニアは人々の賞賛が欲しかった、そこに罪が侵入したのです。私たちもこのアナニアの気持は理解できます。私たちはこの度の新会堂建設で出来る限りの献金を捧げましたが、どこかで「惜しい」という気持ちがありました。私自身について言えば、捧げ切りの特別献金ではなく、やがて戻ってくる教会債を多くしたいという気持ちと戦いながら、建築献金をしました。アナニアと同じです。違いはその惜しむ気持ちが自分の中にあることを隠さなかった、そして出来る範囲でしか献金しなかったことです。それで良いのではないかと思います。惜しむ気持ちと戦って献金したことを主なる神は受け入れて下さる。アナニアは人の目を気にしましたが、神の目を気にしなかった。そこに問題があったのです。
・ルカは初代教会の有様をきれいごとではなく、ありのままに書いています。次の6章で、お金の分配について教会内に争いが起きたことが伝えられています。豊かな教会員の寄付によって維持されていた金庫から貧しい人々の食事を賄うためにお金が出されていましたが、その配分をめぐって、ギリシア語を話すユダヤ人(ヘレニスト)から、自分たちへの配分が少なすぎるとの苦情が出たと記します。「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである」(6:1)。使徒たちはみなガリラヤ以来のイエスの弟子たち、国内派のユダヤ人で、彼らが教会の主流派でした。しかしこの主流派=本国生まれのユダヤ人と非主流派=帰国ユダヤ人の間に争いがあり、それがお金の配分への不満として表面化したのでしょう。このギリシア語を話すユダヤ人たちはやがてエルサレムを追われ、各地に散らばっていきますが、そのことによって福音が世界に広がっていきます。神は教会の分裂という悪さえも良いものに変えて下さるのです。
・これまで見てきたように、初代教会の生活の全てが理想通りに行っていたわけではありません。彼らの共同体においては、消費だけが共同化されたため、やがてお金が無くなって行き詰まりました。生産を伴わない消費生活は行き詰まり、初代教会の共同生活は崩れて行きました。私たちは教会における経済の問題にもっと目を向けるべきです。アナニアの惜しむ心は私たちにもありますし、教会におけるお金の使い方が教会の分裂を引き起こすことも見てきました。ある人々は言うでしょう「教会では何かというと財政のこと、献金のことが問題になる。もっと霊的なこと、信仰や伝道のことをこそ真剣に話し合うべきではないか」。しかし、経済を真剣に考えなかったから、初代教会の共同生活が揺らぎ始めたことを覚えるべきです。どのように献金するか、献金されたお金をどのように用いるのかは信仰の問題なのです。

3.私たちの中にある罪とどう向き合うか

・今日の招詞にマタイ13:29- 30を選びました。次のような言葉です「主人は言った『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう』」。マタイは13章で毒麦の例えを紹介しています。良い種が畑に播かれたのに、芽が出て実ってみると毒麦も一緒に現れ、僕たちが主人に相談します「畑には良い種をお蒔きになったのに、どこから毒麦が入ったのでしょう」。それに対してイエスが言われた言葉が「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」という招詞の言葉です。毒麦が世にある悪を指すことは明らかです。この世界は神が創造されたのに悪があります。毒麦=悪を抜きましょうかと問う僕に対して、主人は「そのままにしておきなさい」と答えています。イエスの時代、多くの人々が、自分たちが毒麦と考える人たちを抜こうとしていました。パリサイ人は律法を厳格に守ることを通して、守らない人たちを罪人(毒麦)として排斥しました。エッセネ派の人たちは砂漠に住み、世の汚れに染まった人々(毒麦)と縁を断とうとしていました。いずれも自分たちは良い麦であり、異なる者を悪い麦として排除しようとしていたのです。イエスは彼らを批判し、悔い改めさせるためにこの例えを語られました。イエスはパリサイ派やエッセネ派が排除した徴税人や娼婦さえも、神が愛される者として拒否されませんでした。世の中には人間の目から見て良い人も悪い人もいます。しかし、天の父は罪人が悔改めて帰ってくることを望んでおられる、我々が行うべきことは悪いと思われる人を排斥することでなく招くことではないか。最後に裁かれるのは神であり、人間ではない。刈り入れの日、終末の日まで毒麦を抜いてはいけないのだとイエスは言われています。
・マタイはこの例えを受けて13章後半から教会の人々に語り始めます。弟子たちの伝道により多くの者が教会に招かれて来ましたが、その教会の中に良い麦と毒麦が混在しています。イエスの宣教から50年を経たマタイの教会の中に、「あの人たちは間違っている」として他の教会員を排除する人々がいたのでしょう。マタイはそのような人々に対し、誰が良い麦で誰が毒麦かを判別し裁くのは神の業であり、人間がそれを行えば教会は崩壊すると語ります。教会の中に悪があるのは事実です。私たちはこの事実を認めていきます。ちょうどルカが理想的な一致があった教会に、不一致が入り込んでいく事実を認めたようにです。
・誰が毒麦で誰が良い麦かを私たちは知ることが出来ません。パウロは回心までは教会の迫害者でした。その彼がやがて熱心な伝道者になります。かつてのパウロは毒麦で、その後良い麦になったのでしょうか。また、ペテロは弟子としてイエスに従ってきましたが、十字架の時にはイエスを裏切ります。しかしやがて立ち直ります。彼は最初は良い麦で、次に毒麦となり、最後にまた良い麦になったのでしょうか。答えははっきりしています。私たちの中に善と悪、良い麦と悪い麦の双方があるのです。今刈り取れば誰も残ることが出来ない。だから「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言われるのです。私たちが教会の中にある罪を自分で刈り取り始める時、毒麦と思える人を裁き始めた時、私たちは神の教会を壊す者になります。自分の中にある毒麦を認めた時、初めて、他者の中にある毒麦を受容する事ができ、そこに教会の一致が生まれるのです。
・アナニアは特別に悪い人ではなく、私たち自身なのです。同時にバルナバの献身的信仰も私たちの中にあります。私たちの心の中にアナニアと同じように惜しむ心(毒麦)があることを認め、同時にバルナバのよう燃える信仰(良い麦)があるのです。私たちが為すべきことは自分の心にある毒麦と戦い、良い麦を伸ばしていくことなのです。そして、私たちは葛藤して獲得した献金を正直に神の前に差し出した時、私たちの献金は清められていくのです。私たちは「僅かですがお納め下さい」として献金しません。僅かではないのです。戦って勝ち取った献金なのです。私たちは、「現在捧げることの出来る最大のものを捧げますのでお納め下さい」として献金します。自分の中にある欲望と戦って獲得した最大のものを捧げる、それが献金なのです。それは量の問題、金額の多寡ではありません。神は私たちがいくらを捧げたかを見られるのではなく、どのような気持ちで捧げたかを見られるのです。今日私たちはこの後で震災被災者支援のために献金します。各人が「現在捧げることの出来る最大のものを捧げますのでお納め下さい」と祈って捧げることができますように。

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