江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年2月5日説教(ルカ16:19−31、金持ちとラザロの物語)

投稿日:2012年2月5日 更新日:

1.人は神と富に仕えることはできない

・聖書教育に従ってルカ福音書を読んでおります。本日は16章後半の「金持ちとラザロの物語」を聞いていきます。ルカ16章にはイエスが富について話された講話がまとめられています。イエスが集まった人々に「不正な管理人の話」をされたところから16章が始まります。こういう話です「ある金持ちの財産管理をしている者が、主人の財産を浪費して解雇されることになった。管理人は職を失った時のことを考え、主人に負債のある者を呼び出し、ある人の負債を半分に、別の人は20%負けてやった。管理人を辞めさせられても、人々に恩義を売っておけば援助してくれるだろうと考えたからだ」。イエスはこの抜け目の無い管理人をほめられます「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(16:9)。彼は主人の金を用いてでも、富を現在ではなく将来のために使ったことをイエスは賞賛されたのです。そして言われます「どんな召使も二人の主人に仕えることはできない・・・あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(16:13)。
・聞いていたパリサイ人たちはこの話を聞いて嘲笑しました。彼らは「自分たちは、神と富の双方に仕えることができる」と考えていたからです。彼らの考えはこうです「自分たちが豊かなのは一生懸命働いたからだ。貧乏人が貧しいのは彼らの働きが足りないからだ。聖書は正しい者は神の祝福を得る、その祝福とは穀倉が満たされる事だと言っているではないか(申命記28:8)」。このパリサイ人の考え方は今日でも主張されています「たくさん働いた人が多くの収入を得るのは当然であり、一部の人が貧しいのは自業自得なのだ」。現在の世界を支配する「市場原理主義、自己責任原則」です。アメリカや日本ではこの政策によって貧富の格差が拡大し、社会的に大きな問題となっています。貧富格差をどうするかは2000年前からあった、そして今も解決されていない問題なのです。この問題を解決するためにイエスは、「金持ちとラザロの物語」を語り始められます。

2.金持ちとラザロの物語

・物語は三幕の劇のように構成されています。第一幕には金持ちとラザロの二人が登場します。金持ちは「紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」(16:19)。彼は多くの農地を持つ地主で、働かなくても十分な地代が入り、裕福な生活をしていたのでしょう。彼は特に浪費家でもなく、また、雇い人を搾取しているわけでもありません。ただ、自分に与えられた富を自分のためだけに使っています。その金持ちの屋敷の前に貧乏人ラザロが連れて来られました。彼は飢えと病気で動けず、金持ちの食卓から落ちるもので腹を満たしたいと思っていましたが、ただ犬が来て傷をなめるだけでした。金持ちはラザロに無関心で、彼のために何もしませんでした。第一幕では、金持ちは金持ちのまま、貧乏人は貧乏人のままです。
・第二幕は22節から始まります。ラザロも金持ちも死にましたが、ラザロは天国でアブラハムと宴席についており、金持ちは陰府で火に焼かれています。第一幕では金持ちは贅沢に飲み食いし、ラザロは食べるものもありませんでしたが、第二幕では立場は逆転し、ラザロが宴席に着き、金持ちは苦しんでいます。金持ちは苦しさのあまり、天国のアブラハムに呼びかけます「父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。私はこの炎の中でもだえ苦しんでいます」(16:14)。生前に金持ちはラザロを貧乏人として馬鹿にしていました。今でもラザロを召使のように思っています。「ラザロを寄越して、私の苦しみを軽減させてください」と彼は求めています。アブラハムは金持ちの呼びかけに冷たく答えます「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」(16:25)。自分のことしか考えなかったお前は神の国に入ることはできないのだと宣告されています。
・三幕目は27節から始まります。金持ちは自分のことはあきらめましたが、兄弟のために救いの使者を送ってほしいと願います「私の父親の家にラザロを遣わしてください。私には兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」(16:27-28)。金持ちは初めて自分以外の人のことを考えましたが、アブラハムはこの願いも拒絶します「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(16:29)。律法は何を命じているか。申命記には次のような言葉があるではないか「どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい」(申命記15:7-8)。「モーセと預言者」、すなわち「聖書」に書いてある通りにすればよいのだと。金持ちは反論します「私も聖書は読んでいましたが、悔い改めることはしませんでした。もし、死者が生き返る等のしるしが与えられれば兄弟たちも信じるでしょう」。アブラハムは再度拒絶します「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(16:31)。聖書を通して神の御旨は明らかになっている、聞こうとしない者が悪いのだとアブラハムは言いました。しかし、神は私たちにもう一度機会を与えてくれました。それがイエスの死と復活です。だから私たちは「主は復活された。復活の主の言葉を聞け」と宣教を続けるのです。しかし、多くの人はその声に耳を傾けません。

3.この小さき者にしたことは私にしたことだ

・この物語は因果応報を教えたものではありません。今は貧しくとも来世では豊かになるから、現世の苦しみを耐えなさいと言われているのではありません。また、金持ちは金持ちゆえに陰府で苦しむではありません。聖書はザアカイという金持ちの救いの話も記述しています(19:8-9)。この金持ちは貧しい者を憐れまず、富を自分のためだけに用いた。神から与えられた富を自分のためだけに使うことは、不正であり、責任を問われることだと言われています。イエスは先に言われました「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされる・・・しかし、富んでいるあなたがたは不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは不幸である、あなたがたは飢えるようになる」(6:20-25)。
・物語の貧しい人の名前がラザロであることは象徴的です。ラザロの正式な名前は「エリアザル」、「神助けたもう」という意味です。ラザロは何も無いから神により頼んだ、そして神は彼を見捨てられなかった。金持ちは富があるから富により頼んだ、その結果を今受けている。「人は神と富の双方に仕える事はできないのだ」とイエスは言われています。もし金持ちが生前にラザロの必要に気を配り、彼を食卓に招いていたならば、多分彼もラザロの内に神がおられることを知り、何かを為すことができたでしょう。現在の幸福だけを追い求める人は将来の滅亡を招くのです。
・今日の招詞にマタイ25:40を選びました。次のような言葉です「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」。トルストイの描いた民話「靴屋のマルチン」の主題は、「小さき者の中に神はおられる」ということです。物語の主人公、靴屋のマルチンは妻や子供に先立たれ、辛い出来事の中で生きる希望も失いかけてしまいます。周りの人との関わりもだんだん疎ましく感じられ、惰性で続ける仕事に支えられて毎日を送っています。ある日、教会の神父が傷んだ革の聖書を修理してほしいと聖書を置いていきます。マルチンは今までの辛い経験から神への不満をもっていましたが、それでも、神父が置いていった聖書を読みはじめます。そんなある日の夜、夢の中に現れたキリストがマルチンにこう言います「マルチン、明日、おまえのところに行くから、窓の外をよく見てご覧」。次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外の様子に気をとめます。外には寒そうに雪かきをしているおじいさんがいます。マルチンはそのおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。今度は赤ちゃんを抱えた貧しいお母さんに目がとまります。マルチンは出て行って、親子を家に迎え、ショールをあげました。まだかまだかとキリストがおいでになるのを待っていると、おばあさんの籠から一人の少年がリンゴを奪っていくのが見えました。マルチンは少年のためにとりなしをして、一緒に謝りました。一日が終りましたが、マルチンが期待していたキリストは現れませんでした。「やっぱり、あれは夢だったのか」とがっかりしているマルチンに、キリストが現れて言います「マルチン、今日私がお前のところに行ったのがわかったか」。そう言い終わると、キリストの姿は雪かきの老人や貧しい親子やリンゴを盗んだ少年の姿に次々と変わりました。そして最後にマタイ福音書の言葉が述べられます「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」。「エリアザル」、神助けたもう。神は私たちを用いてその業をされます。
・私たちは「金持ちとラザロの物語」をどのように聞くのでしょうか。「人の魂が天国に行くか地獄に行くかは、地上に生きている時の生き方と心の置所によって決まる。また現在を惜しんで将来を考えない者に途は閉ざされている」。こう考えるとこれは現在をどう生きるかの物語です。今、「税と社会保障の一体改革」が議論されており、その中で消費税増税の案が出て、多くの人が増税に反対しています。今の生活を維持したいからです。しかし私たちは同時に将来を見通す知恵が必要です。日本は2011年度に貿易収支が赤字になりました。円高により生産拠点の海外移転が進んだためです。そして2015年、3年後には経常収支も赤字になると推測されています。そうしますと国の借金である国債価格の暴落が次第に現実味を帯びてきます。国債を買い支えている国内の金融資産が減るからです。今何もしないと日本はギリシャのような財政再建国家になり、社会保障は削減され、税金は重くなるでしょう。我世の春の終わりが見えているのに増税に反対ばかりしている姿は、現在を楽しむためにラザロに何の関心も寄せなかった金持ちの姿に重なってきます。金持ちの罪は「何かをした」ことではなく、「何もしなかった」ことです。靴屋のマルチンは「何かをした」ことでキリストに出会います。金持ちは「何もしなかった」ことによって救いから漏れます。「人は生きてきたように死んでいく」のです。

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