江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年10月14日説教(マルコ12:28-34、神を愛することは隣人を愛すること)

投稿日:2012年10月14日 更新日:

1.最も大事な戒め

・マルコ福音書を読んでいます。今日与えられた箇所はマルコ12章「最も大事な戒め」です。イエスは日曜日にエルサレムに入城されました。民衆はイエスを「メシア」として歓迎しましたが、ユダヤ教指導者、祭司長やパリサイ派、サドカイ派の人たちはイエスに反論するために、次々に論争を挑んで来ました。イエスは度重なる論争に鮮やかに答えられ、それに驚嘆した一人の律法学者がイエスに尋ねます「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」(12:28)。
・ユダヤ人は神から与えられた戒め、律法を守ることで救われると考えてきました。律法とは、例えば安息日を守るとか、割礼を受けるとかの戒めで、聖書に書かれた戒めはもちろん、ラビたちの解釈した戒めも加えられ、イエスの時代には613もの戒めがあり、内248が「~しなければならない」という命令、365が「~してはいけない」という禁令だったそうです。あまりにも多くて、どの戒めを最も大事なものとして守ればよいのかが、ユダヤ人にさえ解らなくなっていました。それに対してイエスはただ二つのことを言われます。最初に言われたのが「イスラエルよ、聞け、私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(12:29-30)。これは申命記6:4-5の引用で、ユダヤ人はこの言葉を最も大事な教えの一つとして朝晩唱えます(「シェマー(聞け)の祈り」と言われています)。イエスが言われた第一の戒め「神を心から愛しなさい」はユダヤ人にとっては納得できるものでした。
・イエスは続けて言われます「第二の掟は、これである『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない」(12:31)。これはレビ記19:18からの引用ですが、ユダヤ人には驚くべき内容を持っていました。隣人を愛することは大事なこととして教えられましたが、それが神を愛することと同じくらいに大事な戒めとは考えてもいなかったのです。「神を愛する」とは、神のために犠牲の動物を捧げたり、礼拝を守ることだと人々は考え、まさか「隣人を愛することだ」とは思いもしませんでした。
・律法学者はイエスの教えに驚いて言います「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」(12:33)。焼き尽くす献げもの=犠牲の動物を祭壇で火に焼き、神に捧げる。そういう献げものよりも、人を憐れみ、人に仕えることを神はお喜びになるとイエスは教えられ、律法学者もそれは正しいと言ったのです。だからイエスは言われます「あなたは神の国から遠くない」(12:34)。「あなたは神の国から遠くない、しかし、あなたは聞くだけで実行しようとしない。だから、あなたはまだ神の国に入ってはいないのだ」。

2.神を愛することは人を愛すること

・並行記事のルカ10章ではこの問答に続いて「良きサマリア人の喩え」が語られています。「聞くだけではなく、行う」ことの大事さを教える喩え話です。「ある人が強盗に襲われて倒れている。そこに祭司が通った、彼は関わりあいになることを恐れて避けて行った。次にレビ人が通った、彼も避けて通った。次にサマリア人が通る。彼は倒れている人を見て気の毒に思い、介抱して宿屋まで連れて行った。誰があなたの隣人になったのか」。祭司とレビ人は「律法を守る」人々の模範とされていました。他方、サマリア人はユダヤ人の仇敵で、「律法を守らない」異邦人とされていました。律法を守らないとされた人が「隣人を愛する」という行為を為し,律法を守ると考えられた祭司やレビ人が「隣人を愛する」という最も大事な戒めをおろそかにしているとイエスは皮肉られたのです。律法は知るだけでは不十分であり、行為しなければ意味がないのです。「隣人とは誰か」を問うのではなく、「隣人になるのだ」と言われているのです。
・私たちも良い隣人になりたいという願いはあります。しかし、道端にホームレスの人が酔って寝込んでいるとき、私たちは自分に無関係の出来事としてその横を通り過ぎます。誰かが、警察か福祉の人が何とかするだろうとごまかしながら、私たちは関わろうとしません。私たちも祭司やレビ人と同じ行動をとり、良きサマリア人にはなれないのです。何故ならば、サマリア人になるには払う犠牲が多すぎるのです。暗く、さびしい道、強盗がまだそこにいるかもしれない。ここで時間をとれば自分も襲われるかもしれない。アメリカにはGood Samaritan law(良きサマリア人法)という法律があるそうです。「良い行為をしなさい」という法ではなく、「災難に遭ったり急病になったりした人などを救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗してもその結果につき責任を問われない」という趣旨の法だそうです。誤った対応をすれば過失致死罪で訴えられ、損害賠償さえ請求されかねない笑えない現実があるための法律です。隣人になるとは自分も危険に巻き込まれかねない行為を含みます。
・「しかし、それでも隣人になりなさい」と聖書は語ります。それは私たちが傍観者ではなく、当事者の立場になればわかることです。仮に私たちが、強盗に襲われ、傷ついて倒れている本人であれば、話は異なってきます。「私が旅をしている時、暗がりから強盗が現れ、私を殴り倒し、身ぐるみを剥いだ。その時、人の足音が聞こえたので、強盗は逃げた。見ると祭司が歩いてくる、祭司は神に仕える人だから助けてくれるだろうと思ったが、彼は反対側によけて行った。しばらくするとレビ人が来た。レビ人は神殿に奉仕する人、同じ信徒として助けてくれるだろうと期待したが、彼もまた私をよけて行った。するともう一人の人が来た。彼はサマリア人、私たちユダヤ人とは敵対関係にある人だ、彼は私を助けないだろう。ところがこのサマリア人は私のそばに寄り、私の傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をして、私をろばに乗せて宿屋まで運んでくれた。信じられない出来事が起こった。同胞のだれも助けてくれなかったのに、サマリア人は助けてくれた。神様、感謝します。もし今後、サマリア人が困っていたら、私も必ずサマリア人を助けます」。
・イエスは「隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。ある人はこの箇所を「隣人を正しく愛するためにはまず自分を正しく愛さなければいけない」と考えます。しかしプロテスタント教会の伝統は、このテキストは「自己愛を命じていない」と教えます。私たちは有り余るほどの自己愛を既に持っているのです。ここで言われているのは「私たちが自分を愛するのと同じ仕方において、隣人を愛すべきだ」と言うことです。ある注解者は述べます「私たちが自分自身に寛容であり、時間を割き、関心を持ち、自分自身のために言い訳をし、深く自分の幸せを願っている。それと同じ仕方で隣人にもそのような態度を取りなさい」(L.ウィリアムソン、マルコ福音書注解、p365)。

3.愛されたから愛する

・今日の招詞にヨハネ第一の手紙4:20-21を選びました。こういう内容です。「神を愛していると言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」。ここでヨハネが強調しているのは、「神を愛する」ことと、「隣人を愛する」ことは、別々のものではなく、一体のものであるということです。神を愛する者は兄弟を愛し、兄弟を愛する者は神を愛するのです。
・自然のままの私たちは、本当の意味では人を愛することは出来ません。しかし、私たちがかつて傷つき倒れていた時に、イエスが通りかかり、私の傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで介抱してくれました。イエスはその行為のために強盗に襲われて死なれました。イエスが命をかけて私を救ってくださった。その経験をした時、私たちはわかりました「良きサマリア人とはイエスなのだ。イエスは、危険を顧みず私を介抱してくれた」。そして、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」とは、「イエスが私を愛したように、あなたも隣人を愛しなさい」という意味であることがわかってきます。隣人から愛されたことのある人は、自分が神から愛されていることに気づきます。そのことに気づいた人は隣人を愛するようになります。行為が愛を拡げていくのです。「神を愛する」ことと、「隣人を愛する」ことは、切り離せないのです。
・イエスは律法学者に言われました「聞くだけではなく行いなさい。あなたの目の前にいる人はみな私なのだ。誰かが引きこもって苦しんでいる時、私が苦しんでいるのだ。母親が子供の発育を心配して悩んでいる時、私が悩んでいるのだ。私はあなたの助けを必要としているのだ」。私たちの目の前にいる一人一人こそ、イエスなのだとして受け入れる時、彼らの問題を私自身の問題とした時、私たちは神の国に入って行くのです。
・愛を意味するギリシャ語には、エロス、フィリア、アガペーの三つがあります。エロスは、妻や恋人への本能的な“愛”。フィリアは、仲間や友人の間に自然に湧き出る、好感、友情として“愛”。アガペーは、相手がだれであれ、その人として「大切」と思う気持ち。聖書で言う愛はこのアガペーです。エロスはいつか薄れ、フィリアは途切れますが、アガペーは、相手がだれであれ、自分と同じように大切にしようと思い続けるかぎり、薄れも途切れもしません。エロスとフィリアは人間の本性に基づく、感情的な愛であり、その基本は好き嫌いです。人間の本性に基づくゆえに、その愛はいつか破綻します。人は自分のために愛するのであり、相手の状況が変化すれば、その愛は消えます。この愛の破綻に私たちは苦しんでいます。若い恋人たちは相手がいつ裏切るかを恐れています。妻は夫が自分を愛してくれないことに悩みを持ちます。信頼していた友人から裏切られた経験を持つ人は多いでしょう。私たちの悩みの大半は人間関係の破綻から生じています。だから私たちは破綻しない愛である「アガペーの愛」を知ることが必要です。
・このアガペーは私たちの中には元々ない愛です。それはイエスの十字架を通して与えられた愛だとヨハネは言います。「神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(第一ヨハネ4:9)。この愛です。この愛を私たちは神からいただいた、だから隣人に与えるのです。信仰は応答を、応答は行為を伴います。イエスはこの愛を別の言い方でも表現されています「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイ7:12)。この教えを覚えて実行していく時、私たちの人生は変えられていきます。その時、私たちは神の国に入るのです。

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