児湯教会高鍋伝道所 児玉一郎
1.失意の中にあるモーセ
・宮崎から上京し、本年3月27日から篠崎キリスト教会で、教会実習生として勉強させていただき、早いもので5ヶ月経ちました。教会員の一員として交わりをさせていただき、また神学生としての私への支えのお祈りをしていただき、感謝しています。今朝は、説教と言う形で学びを発表させて頂きます。今日お読みする聖書の箇所は、聖書教育で学びました出エジプト記3章1節から12節までです。先週はモーセの誕生を学びました。今日学びますのはモーセの召命です。
・モーセは元々エジプトに住むヘブル人でした。彼らは、家畜を飼って放浪する遊牧の民でしたが、族長ヤコブの時代に、カナンで飢饉があり、一族は食糧を求めてエジプトに南下し、そこに住み着きます。それから400年の時が過ぎ、ヘブル人の数が増えてきました。エジプト王は、国内に異民族の力が増大することを恐れ、彼らを奴隷にして強制労働に当たらせました。また、人口増加を抑える為に、ヘブル人の男子は、生まれたら殺すように命じます。モーセはこのような時代に、ヘブル人の両親から生まれました。両親はモーセを3ヶ月間家に隠していましたが、隠し切れなくなったで、パピルスで編んだ籠に赤子を入れ、ナイル川に流します。不思議な導きで、その籠はエジプト王の娘に拾われ、モーセはエジプト王の一族として育てられるようになります。
・モーセは、宮殿で教育され成人しました。成人したモーセは、自分がヘブル人の生まれであることを知り、同朋が奴隷として酷使されているのを見て、心を痛めます。ある時、彼は同胞であるヘブル人がエジプト人に虐待されているのを見て、そのエジプト人を殺します(2:11-12)。奴隷として苦しんでいる同胞を救うために立ち上がろうとしたのです。しかし、同胞のヘブル人は、「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、この私を殺すつもりか」と言い返しました(2:14)。エジプト王家の一員として育ち、奴隷の苦しみを知らないモーセを、同胞は仲間として、受け入れてくれませんでした。
・失望したモーセはエジプトを逃げ出し、ミディアンの地に身を寄せることになりました。ミディアン人はアラビアの荒野に住む遊牧の民で、彼らもまたアブラハムを祖とする者たちでした(創世記25:2)。モーセは祭司エトロの知遇を受け、娘ツィポラを与えられ、羊の群れを飼う者となりました。そこで彼は子を得ますが、その名をゲルショムと名づけます。出エジプト記は記します「彼女は男の子を産み、モーセは彼をゲルショムと名付けた。彼が『私は異国にいる寄留者(ゲール)だ』と言ったからである」(2:22)。モーセがミディアンの地で孤独であったことを示す名です。
・それから長い年月が過ぎました。ヘブル人を迫害してきたエジプト王は死にました。人々はこの迫害者(ラメセス2世と言われています)がいなくなれば状況は好転すると期待しましたが、新しい王が即位しただけで状況は何も変らず、彼らは奴隷としての苦しみを負い続けます。この時初めて人々は神の名を呼び始めます。出エジプト記は記します「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」(2:23-25)。私たちも苦難が増し、もはや自分の力で状況を変えることができないことを知った時、初めて神を求めます。そして神を求めた時、神が自分たちのことを御心に留めておられたことを知ります。こうして3章の物語、神の救済の具体化が始まります。
2.モーセの召命
・モーセは逃亡先のミディアンで、家庭を持ち、羊飼いの仕事をしていました。そのモーセに主が現れます。 「モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていた」(3:1)。この記述は同胞を救おうという志を立てて一度は立ち上がったものの、挫折して逃げ出し、自分の生活だけを考えていたモーセの姿を示しています。そのモーセが、「羊の群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た」(3:1b)時、主と出会います。出エジプト記は記します「そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない」(3:2)。モーセが見たのは、「柴の間に燃え上がっている炎、柴は燃えているのに、燃え尽きないでいる」光景です。モーセはその光景に魅了されました。モーセは好奇心が強い人でした。「神との対話が始まるのは、モーセが異様な光景の場所に引き込まれた時でした」(T.E.フレットハイム「出エジプト記」P94)。人間の情熱(炎)はすぐに消えてしまいます。モーセの情熱も同胞によって水をかけられ、消えました。しかし、モーセが見たこの炎は、柴の間に燃え尽きない炎です。燃え尽きない炎、神の情熱は燃え続けるのです。
・「主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、『モーセよ、モーセよ』と言われた。彼が『はい』と答えると、ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」 (3:4-5)。神が現れた地が聖なる土地になります。日常の歩みの中で、突然神と出会い、語りかけられる体験をする時、そこが私たちの「聖なる地」になります。私たちはそれぞれ「聖なる地」を持ち、「履物を脱ぐ」場所を持っているでしょうか。
・神は続けて言われます「私はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」 (3:6)。モーセは今、家族や同胞を遠く離れたミディアンの地にいます。異教世界に埋没した生活をしています。そのモーセに神が現れて、彼もまたイスラエルの一員であることを思い起こさせられます。モーセの父の神というだけでなく、イスラエルの先祖の神であることの確認です。主なる神が、先祖たちと結んで下さった契約を思い起こさせるのです。その契約とは、「私はあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める」(創世記12:2)としてアブラハムに為され、イサク、ヤコブに継承された契約でした。「イスラエルの民は主なる神の民となる」、今モーセに現れ、彼を召し、使命を与えようとしておられるのは、この契約の主なのです。つまり神はモーセを、御自身の契約、約束の実現のために用いられるのです。
・主は言われます「私は、エジプトにいる私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、私は降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々とした素晴らしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、私のもとに届いた。今、行きなさい。私はあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(3:7-10)。神は「見た、聞いた、知った」と言われました。イスラエルの民がエジプトで奴隷とされ、苦しめられている様子を、主なる神は見た、苦しみの叫び声を聞いた、現実を知ったのです。「それゆえ、私は降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し」と約束され、実行されるのです。
・モーセは、神が自分を召す御言葉を聞きました。しかしモーセは直ぐには従いません。彼は答えます「私は何者でしょう」。若い時のモーセであればこの召命にすぐに応じたかも知れません。自分はイスラエルの指導者になるべき存在だと思っていたからです。しかし今は違います。彼はかつて同胞のために立ち上がりましたが挫折した体験を持っており、今はエジプトを追われ、ミディアンの荒野で寄留生活を送るだけの、肩書きも地位もない存在です。彼はヘブル人として生まれ、エジプト人として育ち、今はミディアン人として暮らしています。自分の存在根拠(アイデンティー)を失った根無し草なのです。「自分は何者でしょう」と答えるしかないのです。
・そのモーセに神は、「私は必ずあなたと共にいる」と言われました。ヘブル語では“エフイエー=有る”、“イムマーク=共に”、“私は共にいる”です。この“イムマーク=共に”に“エル=神”をつけますと、“インマヌエル=神共にいます”という言葉になります。神は「私がいるから心配することはない」と言われます。私たちが神の御用に用いられる時に、私たちに何が出来るか、出来ないかは問題ではありません。神が共におられる。それで十分なのです。
・「このことこそ、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える」(3:12)と語られています。モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出した時、この山で神に仕える、つまり神の山ホレブで再び神を礼拝するようになると主は言われます。その礼拝こそが、神が共にいて下さることのしるしなのです。このしるしは、将来への約束です。神の召しを受け、信仰者としてこの世を生きる時に、目に見える保証はありません。信仰とは、神の約束を信じて生きることです。神の約束が確かに実現していくことを私たちは後から体験していくのです。
3.インマヌエルの神と共に
・今日の招詞に出エジプト記3:14を選びました。次のような言葉です「神はモーセに『私はある。私はあるという者だ』と言われ、また『イスラエルの人々にこう言うがよい。私はあるという方が私をあなたたちに遣わされたのだと』」。「私はある」とは、ヘブル語では“エフイエー・アシェル・エフイエー”という言葉です。 「エフイエー=有る」、「私は存在している、私は存在を続ける」という意味です。常にあなたと共にいる。さらにその言葉は「私は有らしめる者だ」との意味も含んでいます。“無から有を創造する”、その力を持つ者だと言われています。「その私があなたを派遣するのだ、恐れることはない」と神は主張されます。そして言われます「私は民の苦しみを見て、彼らの叫びを聞いて、彼らの痛みを知った。だから行為する、そのためにあなたを用いる。あなたが何を言ってよいか判らない時は言うべきことを教え、何をしてよいかわからない時はするべきことを教える。エジプト王がいかに強大であってもあなたは常に私の守りの中にあるから、恐れることはない」。この神に押し出されて、モーセはためらいながら、エジプトへの旅を始めます。
・私たちは、神の民の集まりである教会の礼拝を与えられています。モーセが将来への約束として示されたことを、私たちは今既に体験しています。神の独り子イエス・キリストが、人となって世に来て下さり、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んでくださいました、イエスは復活して天に昇られ、キリストの体である教会を誕生させ、私たちをそこに召し集めて下さいました。私たちは、その教会で、神を礼拝し歩むことを許されています。この礼拝において私たちは、主イエス・キリストによる解放の恵みにあずかり、「私必ずあなたと共にいる」という神の御言葉をいただいています。
・先日、東京バプテスト神学校夏季講座で、「苦難の意味」を学びました。なぜ苦難が存在するのか、結論は「神の御業が現れるため」(ヨハネ9:3)でした。人は苦難=痛みを知らない時は神を求めない、求めない故に平安がない、痛みこそ「神のメガホン」(C.S.ルイス)であり、人は痛みを通して神を求め、神は求める者には応えて下さる。ですから苦難=痛みは、神の御業が現れるためにあると講師の山形謙二先生は語られました。私たちの歩みがこれからどうなるのか、それは誰にも分かりません。神を礼拝しつつ歩んでいる私たちの人生にも、目に見える確かな保証があるわけではないのです。しかし私たちは、主の日の礼拝において、燃え尽きることのない情熱を持たれる神に出会います。神が語りかけ、招いて下さり、「私は必ずあなたと共にいる」と言われます。神は私たちを召し、それぞれに使命を与えて下さるのです。その召しに応えて生きることが信仰生活です。共にいて下さる神の恵みによって、私たちは神の召しに応え、使命に生きる人生を歩むことが許されているのです。