江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年1月16日説教(列王記上19:1-18、私はあなたに7千人を残した)

投稿日:2011年1月16日 更新日:

1.追われて逃げるエリヤ
・列王記を読んでいます。先週学びましたのは、イスラエルに偶像礼拝を持ちこみ、民に偶像神バアルを拝ませようとするイスラエル王アハブ王とその妻イゼベルに対して、預言者エリヤが立ち、450人ものバアルの預言者たちと一人で対決し、それを打ち破った記事でした。エリヤは勝利を確実なものにするためにバアルの預言者たちを一人残らず捕えて殺すように命じます。こうして主なる神と偶像神バアルの戦いは決着し、イスラエルから偶像礼拝が一掃されたはずでした。しかしバアル神の庇護者イゼベルが立ち、「エリヤを捕えてその首をはねよ」と命じると、途端に局面は変わり、エリヤは追われて逃亡します。逆境に追い込まれたエリヤは気力を失い、死をさえ願うようになります。このエリヤが神の励ましによってもう一度預言者として立つ記事が列王記上19章です。この記事は、人生の危機の中で、人はどのようにして再度立ち上がることが出来るかを私たちに示します。
・エリヤはカルメル山でバアルの預言者たちに勝利しました。しかし、現実の権力構造は何も変わらず、依然として王国を支配しているのはアハブ王とイゼベル妃でした。イゼベルは自分の保護していた預言者たちが殺されたことを聞いて怒り狂い、「おまえを殺さずにはおかない」とエリヤに伝えます(19:2)。「それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた」(19:3)と列王記は記します。単身で450人ものバアルの預言者と対決し、圧倒的な勝利をおさめた、あの力強い預言者はどこに行ったのでしょうか。また熱狂的に「主こそ神です。主こそ神です」(18:39)と歓呼した民衆もまたイゼベルの処刑命令が出ると、一斉に沈黙してしまいました。こうしてエリヤは北イスラエルを逃れ、ユダ領ベエル・シェバまで逃れて来ます。ここまではイゼベルの手は及びません。しかしその地で、彼は弱音を吐きます「主よ、もう十分です。私の命を取ってください。私は先祖にまさる者ではありません」(19:4)。エリヤを襲ったのは自分の力の限界を知った無力感です。「あれほどの出来事があったのに、世の中は何も変わらず、逆に悪くなっている。自分のしたことは無意味だったのか」と彼は落ち込んでいます。さらに主なる神は何故バアルの保護者であるイゼベルに国を支配する権限を与え続けられるのか、なぜ私の勝利を許した後でこの屈辱と敗北を与えられるのか、エリヤの信仰は揺らいでいました。
・そのエリヤに主の使いが現れ、「起きて食べよ」と言って、パンと水を与えます。エリヤは食べて眠りますが、起きると再びパンと水が用意されていました。主の御使いはエリヤに語りかけます「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」(19:7)。あなたの旅はまだ終わっていない、あなたには使命が、やるべきことがあるのだと御使いはエリヤを励まします。エリヤの旅はベエル・シェバで終わるのではない、そこは安全かもしれないが、終着点ではない。十分な睡眠と食事をとったエリヤは元気を取り戻して、また歩き始めます。彼が目指したのは、神の山ホレブでした。ベエル・シェバからさらに300キロメートルの距離があります。かつてモーセが神と出会い召命を受けた場所、エジプトを引き出された民がこの山で十戒を与えられ神と契約を結んだ、そのシナイの山です。民族の出発点、信仰の原点である山に彼は導かれたのです。このエリヤの経験は私たちに、「人生は旅であり、どの時点においても終着点ではなく途上にいる」ことに気付かせます。子育てを終わっても人生の終着点ではない、仕事を引退しても人生から引退するのではなくやるべきことが残っている。いやなことも納得できないことも、途上であれば受け入れることが出来ます。

2.疲れた者への励まし~新しい召命
・ホレブに着いたエリヤは洞窟に入り、一夜を過ごします。そのエリヤに主が語りかけられます「エリヤよ、ここで何をしているのか」(19:9)。殺されることを恐れ、逃げまどうエリヤに対して、「今あなたの為すべきことはそのようなことなのか」と主は迫られたのです。エリヤは弁明します「私は万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。私一人だけが残り、彼らはこの私の命をも奪おうとねらっています」(19:10)。エリヤの弁明は、私、私、私です。「私は熱心に戦った。人々は私に従わなかった。私は孤立無援だ」。エリヤの考えは自分中心に回っており、彼が自分が何故召命されたのかを忘れています。彼はもう一度神の前に立つ必要があります。だから、主は彼に言われます「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」(19:11)。
・「山の中で主の前に立ちなさい」、洞窟を出なさいとの指示です。「洞窟を出る」、これは象徴的な言葉です。人は苦しみ悩みの中に置かれた時、洞窟の中へあるいは部屋の中に閉じこもってしまいます。外のものに目を向けることが出来ず、自分の周囲の暗闇ばかりを見つめてしまい、その結果苦しみが彼を押し倒してしまいます。解決の道はただ一つ、洞窟を出て主の前に立つことです。しかしエリヤはためらいます。そのエリヤの前を主が通り過ぎられます。その主の臨在は、最初は激しい風で、次には大きな地鳴りで、最後は火で象徴されています。列王記記者は記します「風の中にも、地震の中にも、火の中にも主はおられなかった」(19:11-12)。神は超自然的な奇跡を通してその御旨を行われるのではないことを象徴しています。その後に「静かにささやく声」が聞こえました。エリヤはその声を聞くために洞窟を出ます。その声はエリヤに再び問いかけます「ここで何をしているのか」。エリヤは前と同じように答えます「私は万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。私一人だけが残り、彼らはこの私の命をも奪おうとねらっています」(19:14)。まだ彼の自己中心は変えられていません。
・「風の中にも、地震の中にも、火の中にも主はおられなかった」、神は超自然的な出来事を通してではなく、人を通してその御旨を行われます。主はエリヤに答えられます「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ」(19:15-16)。主はこれから何を為されるかをエリヤに示されました。この三人がエリヤによって始められた偶像礼拝との戦いを勝利させるであろうと示されたのです。次の言葉がそれを示しています「ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう」(19:17)。アラムの将軍ハザエルはアラム王を殺して自らが王となり、イスラエルを攻めてアハブ王朝の土台を揺るがせます。その結果、アハブ王の将軍であったイエフが反逆してアハブの妻とその子たちを殺し、バアルの預言者たちを根絶し、その神殿を壊します(前842年)。そのハザエルとイエフに油を注いで事業を遂行せしめる役割を果たした者がエリヤの後継者エリシャでした。人は一人で戦うのではなく、人生は完結する必要はない。やり残した使命は次の人が継承して行くのです。
・主は失意のエリヤに新しい使命を与えられました。絶望からの回復は、新しい使命を与えられ、それに従っていく時に与えられます。人は強くあり続けることは出来ません。人の子は有限な存在なのです。モーセも弱音を吐いて「この頑なな民をこれ以上導いて行くことはできません。どうか私を殺して下さい」と言っています(民数記11:11-15)。預言者エレミヤでさえ「私は何故生まれて来たのか、国中で私は争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とされている」と神に訴えました(エレミヤ15:10)。しかし、彼らもまたエリヤのように、主によって新しい使命を与えられ、立ち上がり、その職分を尽くしました。
・そしてエリヤに慰めの言葉が与えられます。それが今日の中心聖句、19章18節の言葉です「しかし、私はイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」。七千という数字は象徴的なものでしょう。完全を表す数字七と多数を表す数字千から構成されています。あなたは一人ではない、あなたに見えなくともあなたと共に働く者、同じ願いを持つ者はいる。私はその人々をあなたに与えると主は言われたのです。その言葉に励まされてエリヤは帰路につきます。もう彼に迷いはありません。彼は内面の危機を克服し、新しい任職に希望を抱き、為すべきことをするために、いるべき場所に帰ります。

3.あなたに7千人を残す
・主はエリヤに「バアルにひざまずかない7千人を残す」と言われました。どのような逆境の中にあろうとも、あなたは一人ではない、あなたの戦いは孤立無援ではないという励ましです。この言葉はエリヤに続く多くの伝道者に慰めを与えてきた言葉です。パウロもその一人です。彼はローマ書11:3-5にこの言葉を引用しています。それが今日の招詞です「『主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、私だけが残りましたが、彼らは私の命をねらっています』。しかし、神は彼に何と告げているか『私は、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた』と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」
・パウロはユダヤ人であり、同胞のユダヤ人がイエスを救い主として受け入れることを願っていました。しかし、ユダヤ人はイエスを受け入れずにこれを殺し、イエスの宣教者となったパウロを裏切り者としてその命を狙いました。ユダヤ人こそ神の民でありキリストはそのユダヤ人の中から起こされた、それなのに何故ユダヤ人はキリストを拒否するのか。その時、パウロは彼の宣教により悔い改めた少数のユダヤ人キリスト者のことを思い起こします。なるほど多くのユダヤ人はキリストを拒否した、それにもかかわらず神は少数の者をキリストの民としてお与えになった。神はこの少数者を用いて全ユダヤ人の救いをしようとしておられる。バアルにひざまずかない人々が残されていた、このことに気付いたパウロは元気を取り戻して、また宣教の業に出かけて行きました。
・これは日本においても同じです。ほとんどの日本人は「自分が神によって生かされ、養われている」とは思っていません。自分たちを養うものは給料をくれる会社や役所であり、自分たちの働きで生計を立てていると思っており、神がいなくとも特に困らないと思っています。何か困難に直面した時は、神社やお寺にお参りしますが、災いが過ぎれば忘れます。これは収穫が豊かであるようにバアルを拝んでいた人々と同じです。教会に来て神をあがめても病気は治らないばかりか、その病気を神が与えた試練として感謝して受け止めよと求められます。そんなところには行かない、多くの人はそう思い、教会に来ませんし、来ても定着しません。それにもかかわらず、「バアルにひざまずかない7千人」が残されています。教会はこの人々を捜すために伝道するのです。
・私たちの教会には40名の会員がいます。たった40名と思えば少数ですが、40名もの人々が毎週礼拝に集められていることは、私たちを勇気付ける出来事ではないでしょうか。もしこの40人の方が地の塩として活動すればそこに一つの動きが出ます。塩は少量であっても意味を持ちます。主に従う人はいつも少数であり、救いはこの少数者を通して与えられることを聖書は繰り返し記しています。ここに40人の方がおられる、40人が少数であることを嘆くのではなく、40人もの人がこの困難な時代にこの教会に集められたことを感謝したほうが良いでしょう。ここに宝があります。ここにバアルにひざまずかない人がいます。そのことを感謝したいと思います。

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