1.エジプトのイスラエル人
・先週まで3ヶ月にわたり、創世記を学んできました。創世記は12章からイスラエル民族の歴史を記します。父祖アブラハムが神の選びを受けて約束の地に行き、その祝福が子のイサクに継承され、孫ヤコブによって拡大されていきました。そのヤコブの時代にパレスチナで大飢饉が起こりますが、ヨセフが先にエジプトに派遣されることを通して、ヤコブ一族がエジプトに移住するようになります。創世記はヤコブと息子たちがエジプトに下ったところで終わり、そこから出エジプト記の記述が始まります。出エジプト記は始めます「ヤコブと共に、おのおのその家族を伴って、エジプトへ行った・・・ヤコブの腰から出たものは、合わせて七十人。ヨセフはすでにエジプトにいた。そして、ヨセフは死に、兄弟たちも、その時代の人々もみな死んだ。けれどもイスラエルの子孫は多くの子を生み、ますますふえ、はなはだ強くなって、国に満ちるようになった」(1:1-7)。
・イスラエル民族の祖先がエジプトに移住したのは、紀元前17世紀頃のヒクソス王朝時代と言われています。ヒクソスはセム系異邦人で、エジプトに侵略し王朝を形成していました。ですから同じセム系のイスラエル人を迎え、ナイル川デルタ地帯のゴセンの地への定住を許したと考えられています。この時代にイスラエルの人口は増えていきました。部族から民族になるためにエジプトで養われたのです。やがてヒクソスはエジプトから追放され、新しい王朝は異民族のイスラエルに脅威を感じるようになります。出エジプト記は記します「そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した『イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない』」(1:8-10)。国内に住む異民族の数が治安上脅威になるほど増えてきたため、エジプト王はイスラエルの人口増大を抑えようとしたのです。最初の試みは、労働の強化でした「エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した」(1:11)。王朝が代わり、これまでのような優遇措置が廃止され、イスラエル人を強制労働につかせるようになったのでしょう。国内に一定以上の異民族が増えてくると排斥の動きが出てきます。現代の欧州で移民排斥の動きが強まっているのも同じです。
・二番目の試みは生まれてくる新生男子の抹殺でした。イスラエル人たちは自分たちの宗教を守ってエジプトに同化しようとしませんでした。そのためエジプト王は民族の抹殺を謀り、助産婦に「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ」(1:16)と命じます。女の子はエジプト人と結婚させ、エジプト人の子を生んでいかせれば脅威になりません。だから「男の子」を殺せと命じられます。しかし、二人の助産婦は、王の命令に逆らって、赤子の命を救います。「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた」(1:17)。そして王に問責されると答えます「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです」(1:19)。ある注解者はこの箇所で面白い議論を展開します「人は偽りを言うことが許されるのかという問題を神学者が議論してきた際に、この箇所は「許される」という意見の拠り所になってきた」(H.L.エリクソン「出エジプト記」P29)。人を畏れるのではなく、神を畏れた時に、嘘を言うことも許されるというのです。ヒトラー暗殺に関与し、処刑された神学者D.ボンヘッファーも同じ議論を展開しています。彼は言います「私たちは自分の良心に従うよりも神の御心に従って行為すべきだ。ナチを逃れてきたユダヤ人をかくまうために、警官にうそを言うことは許される。神は私たちの悪をも善に変えてくださる」(ボンヘッファー「獄中書簡」より)。キリスト者の倫理は形式的に考えるべきものではなく、「神はどう思われるか」を中心に構築すべきなのです。
・エジプト王は、次に「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め」(1:22)と命令します。「ナイル川に放り込め」、エジプトの神に従わない者は母なるナイルの犠牲にせよとの命令です。助産婦を用いての密かな民族抹殺から、目に見えるあからさまな民族絶滅へと政策をエスカレートさせていったのです。それはナチス・ドイツがユダヤ人を迫害するだけでは足らず、やがて絶滅収容所を作って民族抹殺(ホロコースト)に向かったのと同じです。これは「生めよ、増えよ、地に満てよ」という神の創造の業に対立する、地上の権力の反逆です。この世界は地上の権力者(エジプト王)が支配しているのか、それとも神が支配しておられるのかの戦いです。神は戦いの器として、一人の男子を出生させられます。その人がモーセです。
2.モーセの誕生
・モーセはレビ人の両親アムラムとヨケベデから生まれました(6:20)。母親はエジプト人に子が殺されるのを待つよりも、後事を神に委ねることを決意し、子をナイル川に流します。「彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた」(2:2-3)。「籠(テーバー)」はヘブル語では「箱舟」と同じ言葉です。洪水の中でノアの箱舟が護られたように、モーセを入れた籠もまた神の護りの中にあったことを暗示しています。籠はエジプト王の娘が水浴びをしていた場所に流れ着きます。王女が籠を開けると男の子が泣いていました。その子がヘブライ人であることは着ていた産着でわかりました。王女は父王がヘブライ人の男の子はすべて殺せと命じたことに賛成していません。彼女は男の子を不憫に思います。その時、成り行きを見守っていた赤子の姉ミリアムが王女に申し出ます「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか」(2:7)。王女は同意し、連れてこられた乳母(実は母親)の手で授乳期間中(当時の風習では3年)モーセは育てられ、やがてエジプト王女の子として育てられます。
・この出来事について新約聖書は次のように語ります「(ヨセフのことを知らない別の)王は、私たちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。このときに、モーセが生まれたのです。神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです。そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました」(使徒言行録7:17-21)。
3.見えない所で始まっている救いの業
・今日の招詞に出エジプト記2:23-25を選びました「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」。
・「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ」、イスラエル人は強制労働と民族抑圧の中で苦しんでいましたが、その苦しみにすぐに神からの応答があったわけではなく、その後も苦難は続きました。イスラエルを抑圧したエジプト王は第19王朝のラメセス2世と考えられ、彼の在位は56年間(前1290−1224年)ですので、何十年も苦難は続いたのです。しかし神の救いは始まっています。
・モーセ誕生の物語は神不在と思える現実の中でも、神の見えざる手が働いていることを示しています。エジプト王はナイル川を殺戮の道具としますが、神はその川からモーセを引き上げて、命を救われています。モーセの母親は子の生命を神に委ねることを通して、命を助けます。王の娘は、父の命令に逆らってモーセを救い出します。そしてモーセはエジプト王の宮廷で教育され、この教育がモーセを指導者にふさわしい者にしていきました。子を捨てざるを得ないという厳しい選択が、子を指導者にふさわしく教育する場を与えるというすばらしい出来事に変わっていったのです。私たちも、出口の無い苦難に追い込まれ、どうしていいのか、わからない時があります。その時は、この母親のようにできる最善を尽くせば良いのです。後は神が導いてくれます。私たちには目の前の現実しか見えません。その現実は過酷です。イスラエルは強制労働のために苦しめられ、生まれた男子はエジプト人によって殺されています。そのような中で、一人の男の子の命が救われ、指導者になるための教育が始まっています。神は時が満ちた時にその行動を見えるものとされますが、見えないところで、すでに救済の業は始まっているのです。私たちは、見えないものを信じ続ける必要があります。
・そして「時が満ちた時」、神の救済の業が始まります。モーセは神の民をエジプトから救い出すために、幼い命を救われました。モーセが誕生した時、誰もそれを救いの始まりとは思いませんでした。見える現実はイスラエルへの強制労働が強化され、人々がうめき苦しみ、生まれたばかりの男子はナイル川に投げ込まれて殺されています。しかし、その中で、一人の男の子の命が救われ、エジプト王の宮廷で養育され、教育を受けています。神の救いの業は始まっているのです。私たちの人生にも多くの苦しみがあります。私たちも、エジプトで捕らえられていたイスラエルの民のように、うめき声を上げざるを得ない時もあります。死にたいと思う時もあるかもしれません。しかし、その苦しみの中に神は共におられ、私たちが見えない中で、私たちの救いのために働いておられる。それが時間の経過と共に見えて来る。だから私たちはどのような時にも絶望しない。信仰が恵みとして与えられているからです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブル11:1)なのです。