江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年7月3日説教(創世記22:1-19、主の山に備えあり)

投稿日:2011年7月3日 更新日:

1.アブラハムに与えられた試練

・私たちは今日、創世記22章、アブラハムがわが子イサクを「犠牲として捧げる」物語を読みます。アブラハムはメソポタミヤの遊牧民でしたが、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」(12:1)との召しを受けて、約束の地カナンを目指して旅立ちます。その時アブラハムに、「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」(12:2)との約束が与えられました。ところが約束の地に着いてみると、そこには先住民が既に住み、土地を手に入れることはできませんでした。また飢饉に襲われ、エジプトに逃避しなければいけませんでした。その後、何度も約束が語られましたが、子は与えられず、25年の時が流れます。そしてやっと待望の子イサクが与えられます。跡取りが生まれ、アブラハム一族に喜びが帰ってきました。
・そのようなアブラハムに信じがたい神の命が下ります。創世記22章は記します「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が『アブラハムよ』と呼びかけ、彼が『はい』と答えると、神は命じられた『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい』」(22:1-2)。一瞬、アブラハムは何を命じられているかわからなかったでしょう。イサクは約束の子、「あなたの子孫はイサクによって伝えられる」(21:12)と神ご自身が言われた、その子を「殺せ」と命じられたのです。それは神が約束を反故にすることであり、アブラハムのこれまでの歩みが全く否定されることでした。彼は動揺し、迷ったことと思われます。しかし一言も反論せずに旅立ちます。創世記は記します「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った」(22:3)。
・アブラハムは道中を無言で歩きます。その間、彼はいろいろなことを考えたでしょう「主はイサクを捧げるように言われた。何故主はこのような命令を与えられるのか、子孫を星の数ほど増やすとの主の約束はどうなるのか」。アブラハムはこれまでの歩みを通して、主の約束は確かであることを知っていました。アブラハムは主がいかにして不妊の妻サラの胎を開かれたかを見ています。高齢になり、月のものも無くなったサラに(18:11)、子が生まれ、「主に不可能なことはない」(18:14)ことを知っています。「主は何らかの形でイサクを戻してくださるだろう、どのようにしてかはわからないが従って行こう」、アブラハムはそのようなことを繰り返し考えながら、長い道のりを歩いたと思われます。
・三日目になってモリヤの山が見えてきました。アブラハムは従者たちに「そこで待つ」ように命じ、イサクだけを連れて山に登ります。創世記は記します「アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った」(22:6)。沈黙に耐え切れず、イサクが語りかけます「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」(22:7)。アブラハムは答えにつまります。彼自身も知らなかったからです。しかし主がどうにかしてくださると彼は信じていましたので、答えます「私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」(22:8)。
・いよいよその場所に着きました。創世記は記します「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした」(22:9-10)。その時、神の制止命令が響きます「その子に手を下すな。何もしてはならない」(22:12)。その声にアブラハムがあたりを見渡すと、近くの木の茂みに一匹の雄羊が角を取られているのが見え、アブラハムはその雄羊を捕えて、息子の代わりに焼き尽くす捧げ物として捧げます。アブラハムは息子を捧げようとしましたが、主が息子を返し、代わりに犠牲の雄羊を用意してくださった。彼はそのことに感謝し、礼拝を捧げ、その場所をヤーウェ・イルエ(主が備えたもう)と名づけました(22:14)。
・この物語は新約記者によって「信仰の決断」として賞賛されています。ヤコブの手紙は述べます「神が私たちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか」(ヤコブ2:21)。またヘブル書も誉め讃えます「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです・・・アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです」(ヘブル11:17-19)。教会の伝統ではこの物語を「アブラハムの試練」として理解しています。

2.イサクに与えられた試練

・他方、ユダヤ教の伝承では、この物語を「イサク縛り」(アケダー、縛る)と呼ぶそうです。アブラハムは「息子イサクを縛って」(22:9)と記述されていますが、この「縛る」という言葉は犠牲動物の足をひもで結びつける行為で、ユダヤ人にとって人間を犠牲として捧げる行為は、律法(申命記18:10他)で禁止されたおぞましい行為だったのです。そのためユダヤ教ではアブラハムの行為ではなく、イサクの犠牲に焦点を当てた見方がされています。この時イサクは何歳だったのでしょうか。彼は燔祭の薪を背負うことが出来ますから(22:6)、相応の年齢だったと推測されます。イサクは行為の意味を理解していたのです。伝承は、イサクは出来事に大きな衝撃を受けて人格が変わってしまった、葬られる体験をした者はもはや何事もなかったように元の生活に戻ることはできなかったと伝えます。この事件の直後にサラが死んでいますが(23:1)、サラの死はイサクのアケダー(縛り)によってもたらされた精神的衝撃の結果だとする伝承もあるそうです。ユダヤ人はその後の歴史の中で繰り返し迫害を受けていますが、この迫害は「ホロコースト」と呼ばれます。ホロコーストとはギリシャ語で「焼き尽くす捧げ物」を意味します。ユダヤ人たちは、アブラハムがイサクを犠牲として捧げた物語の中に、アブラハムの子である自分たちが犠牲として捧げられてきた民族の迫害の歴史を読み込んでいるのです。
・またパウロはローマ書やガラテヤ書でアブラハムを信仰の父と賞賛しますが、不思議なことに、この創世記22章の出来事に対しては沈黙を守っています。アブラハムは「自分の義=正しさを守るために自分の息子を殺そうとした。それはアブラハムの信仰の汚点だ」とパウロは理解したのかもしれません。
・この物語は近代人にも大きな影響を及ぼしています。キルケゴールはこの物語を受けて、「おそれとおののき」を書きましたが、その中で次のように述べます「ある牧師が日曜日の説教で“アブラハムは最善のものを捧げた。そこに信仰の偉大がある”と賞賛した。それを聞いた一人の男が“自分も真の信仰者になるために子どもを捧げたい”と申し出た。牧師は怒って言った“自分の息子を殺そうとするなんて、何という悪魔にとりつかれたのか”」。この物語は信仰的に考えれば「犠牲の捧げ物」です。しかし社会的に考えれば、「殺人、あるいは殺人未遂」というおぞましい行為なのです。イサクやサラの視点に立てば、ヤコブ書やヘブル書のように、アブラハムを手放しで賞賛することはできません。

3.主備えたもう

・では、私たちはこの物語をどう考えるのか、そのための手がかりとして、第一コリント10:13を今日の招詞として選びました。次のような言葉です「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。創世記は記します「神はアブラハムを試された」(22:1)。またイエスは主の祈りで教えられました「私たちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」(マタイ6:13.口語訳)。この二つの聖句が示すことは「試みは神から来る」ということです。創世記でも見ましたようにノアの洪水もソドムの滅びも神が為されたことです。何故神がそうなさるのか、人間には理解出来ない部分があります。しかし神は人間に試練を与えられると同時に、その試練から逃れる道をも備えてくださいます。洪水においてはノアが残され、ソドムにおいてはロトが救出されました。イサク奉献でも、代わりの雄羊が用意されていました。イサク奉献の物語は「神の試み」から始まりますが、物語は「神の備え」で終わるのです。
・創世記22章の主題はアブラハムの信仰でもなく、イサクの犠牲でもなく、「神の備え」なのです。「神備えたもう」、この「摂理の信仰」こそが、創世記22章のメッセージです。摂理は英語ではProvidenceと言います。pro事前に、video見る、神が見て下さる、私たちの目から見えなくとも必要なものを備えていて下さる、それを信じていくのが摂理の信仰です。アブラハムは妻サラが高齢でかつ不妊であったのにイサクを生んだのを見て、「主に不可能なことはない」(18:14)ことを信じ、それ故にイサクを捧げよとの不条理な命令にも従いました。この摂理の御業を、私たちもまた教会建設を通して見ました。私たちが3年前に会堂建て替えの議論を始めた時には、建て替えは必要であっても資金がないため、具体的な姿は見えませんでした。40人弱の小さな教会で数千万円も必要となる会堂建築が出来るとは思えなかったのです。しかし会堂建築の幻を語っているうちに設計者がボランティアで与えられ、設計者と懇談を重ねるうちに、必要資金が備えられる目処が立ち、計画が具体化していきました。その会堂は今年2月から建設が始まり、上棟式も終り、9月末には完成見込みです。まさに神の業は、人間の思惑や計算を超えるところで為される事を私たちは見ました。
・会堂建設においては、会堂完成後の借入金返済で行き詰まる教会があります。いくつかの教会の事例を知っています。私たちの教会も必要資金の7割を教会債と連盟回転資金という形の借入金に頼りました。その結果、相当に重い返済負担が今年度から始まりました。しかし、私たちがこの摂理の信仰、「神備えたもう」という真理を信じ続ける限り、返済の行き詰まりは生じないと思います。何故なら建築必要資金を調達することを許してくださった神は、また返済に必要な資金を、私たちの献金という形でお与えになるだろうと信じる故です。借入金の返済は15年間続きます。返済原資はその時点の教会員の方々からの献金です。献金をしてくださる5年後の教会員の方々、10年後の教会員の方々、また15年後の教会員の方々がどなたであるか、私たちには見えません。しかし見えなくとも良いのです。神が備えてくださるからです。アブラハムはイサクに答えました「私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」。この言葉こそ今の私たちの教会に必要な言葉なのです。

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