1.故郷から追われるヤコブ
・創世記を読んでいます。先週、私たちは、ヤコブが長子権を兄エソウから騙し取り、更には父イサクを欺いて家督相続の祝福さえも盗んだ記事を読みました。創世記に描かれたヤコブは利己的で、自分勝手で、周囲の人々と揉め事を起こす「争う人」です。しかし、そのヤコブが、アブラハムやイサクの祝福を継承し、イスラエル12部族の祖になっていきます。その背景には神の選びと祝福がありました。神は何故ヤコブを選ばれ祝福されたのか、それは私たちにとっても大事な問題です。私たちもヤコブと同じように、「利己的で、自分勝手で、周囲の人々と揉め事を起こす」存在ですが、それにも関わらず、今日礼拝に招かれています。ヤコブの問題は私たちの問題でもあります。今日は創世記28章、ヤコブの神との出会いを通して、神の選びについて考えていきます。
・今日の物語の背景を理解するために、創世記27:41から読んでいきます「エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った『父の喪の日も遠くない。その時がきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる』。ところが、上の息子エサウのこの言葉が母リベカの耳に入った。彼女は人をやって、下の息子のヤコブを呼び寄せて言った『エサウ兄さんがお前を殺して恨みを晴らそうとしています・・・急いでハランに、私の兄ラバンの所へ逃げて行きなさい。そして、お兄さんの怒りが治まるまで、しばらく伯父さんの所に置いてもらいなさい』」(24:41-44)。エソウが長子権と父親の祝福を奪い取られたということは、一族の長になる資格を奪い取られたことです。ですからエソウはヤコブを憎み、殺すことを誓います。エソウの誓いを知った母リベカは、ヤコブを自分の実家ハランに一時的に逃げさせることとし、ヤコブの旅が始まります。
・ヤコブはハランに向かって旅立ちました。創世記は記します「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった」(28:10-11)。カナン南部ベエル・シェバからメソポタミヤのハランまでは1200�離れています。かつて祖父アブラハムが神の召しに応えて希望を持って歩いた道を、今、孫のヤコブが故郷を追われて、逆にたどっています。出発してから数日後、彼はルズと呼ばれる町の近くまで来て、そこで日が沈みましたので、野宿の支度をします。真っ暗な荒野で石を枕に野宿する、いつ盗賊に襲われるかもわからないし、野獣の鳴き声も遠くに聞こえていた、彼は不安の中にありました。彼は故郷で兄と父を騙して逃れてきました。彼の後ろには恐怖と後悔があります。これから行くハランで親族として受け入れてもらえるかわからない、無事にハランまで行ける保証もない。彼の前には未知と不安があります。恐怖と後悔が後ろに、未知と不安が前にある中で、ヤコブは一夜を迎えようとしています。
・彼は眠りに落ちました。そして夢を見ました。創世記は記します「彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」(28:12)。当時の人々は神の住まれる天と、人間の住む地は繋がっており、神の使いたちが天から降りてきて神の命令を執行するために各地に赴くと考えていました。夢のなかで神からの声が響いてきました。創世記は記します「見よ、主が傍らに立って言われた『私は、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、私はあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない』」(28:13-15)。
・ヤコブは命を狙われて、逃げています。逃亡先で受け入れられる保証もない。共にいてくれる人はいず、完全な孤独の中にいます。人間関係に破れ、右も左も前も後ろも閉じている、しかし、そのヤコブが見出したのは上が空いていたということです。天が開けた。私たちは横の人間関係の中で生きています。家族や親戚や友だち、会社の同僚や地域の人々、それらの人々との人間関係が全て破綻して閉じ、誰も私たちのことを気にかけないし心配もしない、そのような状況になった時、私たちは生きる場がなくなります。現代でいう「無縁社会」です。ヤコブはその状況に追い込まれたのです。しかしそこに垂直の関係が生じた、神と出会った。それを聖書は信仰体験と呼びます。信仰とは信じて仰ぐ、上を仰ぐことです。ヤコブはその信仰体験をここでしたのです。
2.ヤコブの梯子
・ヤコブの見た梯子(新共同訳では階段)は「天から地に向かって伸びていた」と創世記は記します(28:12)。人間は「地から天に伸びる梯子」を想像します。だから天にまで届くような高い建物を造って(バベルの塔やカトリック寺院の尖塔は天を目指しています)、その梯子を昇って天に行きたいと願っています。しかしこの梯子は天から地に向かって伸びていた。神の使いが地上に下るために、神が地上の人間と交わりを持つために造られた梯子だと創世記記者は主張しているのです。救いとは人間が天への梯子を昇っていく(善行を積み重ねて天国に行く)ことではなく、天から降りてこられる方と出会い、その方が共におられることを信じることにあります。この梯子はそれを象徴しています。
・不安と孤独の中にいるヤコブに神は言われます「私は、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える」。祖父アブラハムを導き、父イサクを守られた方が、今ここにヤコブと共におられる。すべての人から見捨てられたと思っていたヤコブに、「私は見捨てない」と言われたのです。将来に不安を覚えていたヤコブに「あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり・・・広がっていく」との預言が為されます。ヤコブがこれから行く地で受け入れられ、家族が与えられる約束です。そして人間に取って最も大事な約束が次に語られます。主は言われました「私はあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」。「私はあなたと共にいる」、「あなたは一人ではない」、この約束をいただいた者はどのような困難の中でも生きる力が与えられます。聖書の福音は極言すればこの一言、「私はあなたと共にいる=インマヌエル」の使信です。
・彼は全身で畏れを感じました。生まれて初めて経験する深い感情でした。眠りから覚めると、ヤコブは枕にしていた石を記念碑として立て、その先端に油を注いで、祭壇とし、その場所をベテル(ベート・エル=神の家)と名づけて、礼拝を行いました。そして神の前に誓願をします「神が私と共におられ、私が歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主が私の神となられるなら、私が記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたが私に与えられるものの十分の一をささげます」(28:20-22)。ヤコブは今まで自分の知恵と行動力で野心を一つ一つ果たしてきました。兄を出しぬいて長子権を獲得し、父を騙して家督相続の祝福を奪い取りました。彼は神を仰ぐことも、祈ることもない、極めて世俗的な人間でした。しかし人生の危機における神との出会いを通して、彼の人生は変えられていきます。
・変化は始まりました。かつて長子権と祝福をだまし取ったヤコブが、今は「食べる物と着るもの、旅の安全」というささやかなものを求める存在になっています。しかし、まだ利己的な祈りに留まっています。「主が私の神となられるなら」、無条件の信頼ではなく、まだ「取引」を求めています。人々は幸福を願って神を求めます。「病気を治してください」、「事業を成功させてください」、「幸せな家庭を与えてください」、多くの人々は、それが宗教であり、信仰だと考えています。確かにそれは信仰の出発点ではあります。ただ不十分です。自己の利益を求める信仰はやがて崩れていきます。崩れない信仰を持つには鍛錬の時が必要です。だからヤコブはこれから20年間の苦難の人生を与えられます。
3.苦難の意味
・今日の招詞にヘブル12:11−12を選びました。次のような言葉です「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」。ヘブル書は迫害の中で書かれた手紙だと言われています。迫害の中で人々の信仰は揺らぎ、教会から離れる者も出てきた状況の中で、著者は「この苦難こそ神が与えられる鍛錬なのだ」と励ましの手紙を書いています。
・ヤコブは自分さえよければ良いという人物でした。彼は他の人間を騙したり利用したりすることを平気でします。しかし神はそのヤコブを選び、彼を祝福されました。何故でしょうか。それは「罪の痛みを知った者こそ主の器としてふさわしい」からです。主はベテルでヤコブに言われました「地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る」(28:14)。ヤコブは祝福を受ける者に留まるのではなく、祝福を運ぶ者になるために選ばれているのです。ベテルのヤコブはまだ祝福を受ける信仰に留まっています。ヤコブは変えられなければいけない、だから20年間の労苦の時が与えられます。人を騙してきたヤコブが親族から騙され(29:35,30:35)、最愛の妻からは子が出来ないことをなじられ(30:2)、親族の家から命からがら逃げ出す経験を彼はこれからしていくのです。その経験を通して彼は鍛錬され、神の器となっていきます。
・「私は共にいる」と主はヤコブに約束されました。主が共にいてくださるとは苦難にあわないことではありません。苦難があってもそれに耐える力が与えられることです。20年後にラバンの家を出たヤコブは家族を連れて故郷に戻りますが、その時彼を苦しめたのは、かつて欺いた兄エソウから殺されるかも知れないという不安でした。彼は祈ります「私は、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつて私は、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。私は兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、私をはじめ母も子供も殺すかもしれません」(32:11-12)。
・クリスチャンの精神科医・赤星進先生は多くの心の病を持つクリスチャンを診察し、その分析から、信仰には“自我の業としての信仰”と“神の業としての信仰”の二つがあるのではとの結論に達しました(「心の病気と福音」)。自我の業としての信仰とは、自分のために神をあがめていく信仰です。熱心に聖書を読む、教会の礼拝に参加する、人に非難されるようなことはしていない、だから救って下さいという信仰です。つまり救われるために信じる信仰です。私たちが最初教会に導かれる時も、この自我の業としての信仰を通してです。この病を癒してほしい、この苦しみを取り除いてほしいとして、私たちは教会の門をたたき、聖書を読み、バプテスマを受けます。しかし、この信仰に留まっている時は、やがて信仰を失います。なぜならば、自我の業としての信仰は、要求が受け入れられない時には、崩れていくからです。ベテルのヤコブはまだこの段階に留まっています。
・もう一つの信仰のあり方、神の業としての信仰とは、赤子が母親に対してどこまでも信頼するのに似た、神に対する信頼です。生まれたばかりの赤子は一人では生きていくことができません。ただ一方的に母親の愛を受け、その中で安心して生きていきます。イエスは言われました「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」ルカ12:31-32)。20年後のヤコブはもう「取引」をせずに、ただ「神の憐れみ」を求めています。ヤコブは20年の鍛錬を経て、“自我の業としての信仰”から“神の業としての信仰”へ成長したのではないでしょうか。ここまで来ると信仰の崩れはありません。何故ならば全てのことが、良きことも悪いことも、御心として受け入れられるからです。その時、人は祝福を受ける者から祝福を運ぶ者に変えられていくのです。