1.家督権を争うヤコブ
・創世記を読んでいます。創世記は12章から族長物語に入り、これまで「信仰の人アブラハム」、「柔和な人イサク」の物語を読んできました。今日からヤコブ物語に入りますが、このヤコブは利己的で、狡猾な人です。彼は自分の周囲の人々と揉め事を起こす「争う人」であり、人格的に尊敬できない人です。しかしそのヤコブが、アブラハムやイサクの祝福を継承し、イスラエル12部族を開いていきます。彼がそう出来た背景には、当然神の選びと祝福があります。物語を読む読者は、最初は、神は何故ヤコブのような人を選ばれたのかを疑問として読んでいきます。しかし読み進むうちに、そこにこそ神の摂理、人間が思いもしなかった神の救済計画があることに気づきます。これから3回に分けて、ヤコブの人生を通して見える、神の救済物語を見ていきます。
・創世記25章は記します「イサクは、リベカと結婚したとき四十歳であった・・・イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった」(25:20-21)。ところが与えられたのは双子で、胎内で子供たちが押し合い、母リベカは心配になり、主に託宣を求めます。主は答えられます「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる」(25:23)。この時、リベカには主の言葉が何を意味しているかは、分からなかったでしょう。しかし月が満ちて二人が生まれてきた時、その意味が朧気ながら分かってきました。
・創世記は記します「胎内にはまさしく双子がいた。先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた」(25:24-25)。兄のエソウは「赤く(アドム=エドム)」、「毛深かった(サアル=セイル)」。創世記が書かれた紀元前9世紀頃、イスラエルの隣国はエドムであり、そこの人々は陽に焼けて褐色の肌をし、毛皮の衣をまとって、セイルの山地に住んでいました。そのエドム人の祖になるのがこのエソウです。他方、もう一人の子は「その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた」(25:26)とあります。このヤコブがやがてイスラエル12部族の父となっていきます。「イスラエルはエドムのかかとを握っていた」とは、イスラエルがエドムを押しのけていく、エドムを征服するだろうとの預言です。イサクからエソウとヤコブが生まれ、エソウはエドム人の祖に、ヤコブはイスラエル人の祖になった、どちらの民族が約束の地の支配権を握るのか、その争いが族長伝説の中に組み込まれて、物語化されているのです。
・27節以下の記事もこの二つの民族の争いが背景にあります。創世記は記します「二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」(25:27)。イスラエル人はカナンの地に農耕民として定住し、エドム人は山岳地帯で放牧と狩猟の生活をしています。遊牧民族と農耕民族の争いが、エソウとヤコブの家督争いの背景にあります。創世記は記します「ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。エサウはヤコブに言った『お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。私は疲れきっているんだ』。彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである」(25:29-30)。古代中東では長子が家督相続権を持っています。ヤコブは自分が弟として生まれたため家督の相続権がない、それは不当だと思い、相続権の奪取を考えていました。そのための策略としてエソウの好む赤い豆を煮て、帰りを待ち構えていたのでしょう。「豆を食べさせて欲しい」と頼むエソウにヤコブは言います「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください」(25:31)。エソウは目の前の食べ物のことで頭が一杯のため、軽率にも答えます「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」(25:32)。ヤコブはエソウの言葉を契約にするために誓わせます。創世記は記します「ヤコブは言った『では、今すぐ誓ってください』。エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた。エサウは飲み食いしたあげく立ち、去って行った。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた」(25:33-34)。
2.祝福を争うヤコブ
・「こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた」、この長子権とは単なる財産の分配の問題ではありません。誰が家督を相続するのか、誰が一族郎党を率いる共同体の指導者になるのかという問題です。エソウはこの重大な問題を一皿の豆のために失ってしまいます。新約・ヘブル書は記します「だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです」(ヘブル12:16)。ヤコブの行為の倫理性は問われるべきでしょうが、それ以上に家督相続権を食べ物と引換にするエソウの愚かさこそ、創世記の著者が問題にしているのでしょう。誰が共同体の指導者となるかは、その共同体を生かすか殺すかの重大な問題です。それを軽率に扱うエソウには指導者になる資格はない、だから神はエソウではなくヤコブを選ばれたと著者は主張しているのです。
・創世記27章にはもっと悪賢いヤコブの姿が出てきます。長子権は父親の祝福を得て初めて有効になります。父イサクは死期が近づいたことを知り、長男エソウを呼んで彼に祝福を与えようとしますが、この度も母リベカとヤコブの策略によって祝福がエソウではなく、ヤコブに与えられます。ヤコブは父イサクの目が見えないことを良いことに、エソウに成りすまし、祝福を奪いとってしまうのです。欺かれたことを知ったイサクは身を震わしてエソウに言います「お前の弟が来て策略を使い、お前の祝福を奪ってしまった」(27:35)。祝福は一度しか出来ません。「兄が弟に仕えるようになる」、創世記記者はそこに神の意志を見ています。エソウはヤコブを深く憎み、誓います「父の喪の日も遠くない。その時がきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる」(27:41)。ここからヤコブの逃走が始まります。ヤコブは母リベカの実家であるメソポタミヤのハランに逃れ、その地で苦労の多い20年間を与えられ、父イサクと母リベカとは生きて再会することは出来ませんでした。エソウは愚かさの故に長子権を失いましたが、ヤコブは悪賢さの故に苦難の人生に入っていきます。
3.神の選びと私たち
・ヤコブは自己中心的でずるい男です。情け容赦なく自己の利益のために行動します。しかし彼は同時に家督相続の意味を知っている賢い男です。他方、エソウは好人物ですが、「長子の権利を軽んじる」(25:34)ような、愚かな男です。粗野な好人物と悪賢い現実主義者のいずれが共同体の指導者としてふさわしいのか、人間的に見ればそれが今日の個所の主題でしょう。ソロモン王も父ダビデの後継争いで兄を殺しています(列王記上2:25)。人間社会では家督相続権は争って獲得するものです。しかし、神はどう考えておられるのでしょうか。その問題を考えるために、今日の招詞にローマ9:11−12を選びました。次のような言葉です「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした」。
・エソウとヤコブは同じ父、同じ母から生まれています。血統上では全く区別はありません。しかしヤコブが選ばれたのは「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていない」時でした。神がそのご計画を成し遂げられる時、人間の血統や素性、行動や善悪の価値は何の関係もない、ましてや長子相続は人間の作り出した制度であり、神の選びに何の関係もないとパウロは宣言しています。神は自由に「ある人を選ばれ、別の人を選ばれない」、そして長男エソウではなく次男ヤコブが約束の継承者として選ばれた、それは神の「自由な選び」なのだとパウロは言います。
・「神の選び」とは何でしょうか。ヤコブは神の祝福を継承する者として選ばれました。ではヤコブは幸せになったのか、創世記は違うといいます。ヤコブは最初に家督相続権をめぐって兄エソウと争いました。そのため彼は故郷を追われ、ハランにいる叔父ラバンのもとに行きますが、その地で彼は自分以上に計算高い叔父と財産をめぐって争います。ヤコブはラバンの二人の娘を妻として娶りますが、そのために14年間のただ働きを求められました。苦労の末、娶った二人の妻レアとラケルは、やがてヤコブの愛情をめぐって果てしない争いを繰り広げます。20年後に彼は故郷に帰りますが、その時には彼の子供たちが今度はヤコブの家督をめぐって争います。最後にヤコブは告白します「私の旅路の年月は百三十年です。私の生涯の年月は短く、苦しみ多く、私の先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません」(47:9)。ヤコブの生涯は決して「幸せな生涯」ではありませんでした。しかし「意味ある生涯」でした。
・ヤコブは多くの人たちと争いました。その結果、しばしば人生の危機を迎えますが、その度にヤコブは神との出会いで救われています。故郷を追われてハランに向う途上のベテルで彼は神と出会い、「私はあなたと共にいる」との言葉を受けます(28:15)。叔父ラバンの家から家族を連れて逃げ出した時には、マハナイムで主の御使と出会い(32:3)、故郷に近づき兄エソウと再会する前には、ヤボクの渡し(ペヌエル)で主の祝福を受けます。また兄エソウと和解した後、再びベテルで主と出会い、「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束を受けます(35:12)。この度重なる神との出会いを通して、ヤコブの人生は少しずつ変えられていきます。
・創世記は不思議な書物です。創世記を書いた人たちはダビデ・ソロモンの王国時代に宮廷に務める書記官だと思われます。その彼らが、自分たちの先祖は人を騙して祝福を奪い取った、その後の人生においても賞賛されるような人生は歩まなかったと告白しているのです。それは著者たちが人間の視点からではなく、神の視点から物語を書いているからです。アダムとエバの堕罪以降、神と人間の関係が崩れ、その結果人間と人間の関係も崩れていきました。人間関係崩壊の根本には罪=神と人の関係崩壊があるのです。創世記記者はその人間の罪を冷静に見つめます。神の民として選ばれたアブラハムは身の安全のために妻サラを犠牲にして生き延びようとしましたし、その子イサクはエソウを偏愛し妻リベカはヤコブを偏愛して、兄弟争いの元を作りました。そして双子の弟ヤコブは兄を騙してイスラエル民族の父になりました。まさに人間の「罪」がそこに描かれています。それにもかかわらず、神はアブラハムを愛し、イサクに約束を継承し、ヤコブを保護された。そしてそのようなアブラハムやイサクやヤコブの末からイエス・キリストを生まれさせられました。そのイエスの弟子たちも過ちを犯しながらも神の器として祝福を継承し、現在の私たちにまでその祝福が伝えられています。そして私たちも過ちを犯しながらも、神の民として立てられ、祝福を運ぶ使命を与えられています。神の器として選ばれるとは、神の祝福を運ぶ者として選ばれるのであり、受ける者ではありません。私たちは祝福を受けるために、つまり「幸福な生涯」を送るために選ばれたのではありません。そうではなく、祝福を運ぶために、「意味ある生涯」を送るために、選ばれてここにいるのです。