江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年3月27日説教(列王記下25:27-30、滅びを超えて)

投稿日:2011年3月27日 更新日:

1.ヨシヤの死と王国の滅亡
・列王記をこの三ヶ月間読んできました。今日が最終回です。私たちが聖書日課として説教を行っています聖書教育誌は今週、列王下23章「ヨシヤの死」を取り上げていますが、ヨシヤの死については過去三回学んできましたので、今日は列王記のまとめとして最終章25章を読んでいきたいと思います。
・最初にヨシヤの死後、歴史がどのように動いてきたかを振り返ります。前609年ヨシヤ王はエジプトとの戦いで戦死し、ユダ王国はエジプトの支配下に入ります。ユダの人々はヨシヤの後継者として子のヨアハズを選んで王としますが(列王下23:30)、彼はエジプトの干渉により、三ヶ月で廃位され、エジプトに捕えられ、その地で死にます(23:34)。エジプト王はヨアハズの後継として兄のヨアキムを立てますが、今度はそのエジプトが前605年北シリアのカルケミシでバビロニア軍に破れ、以降パレスチナはバビロニアの支配下に入ります。
・ヨヤキムは当初はバビロニアに従いますがやがて反乱を起こし、バビロニア軍はエルサレムを包囲し、ヨアキムはこの包囲の中で死に、子のヨアキン(口語訳エホヤキン)が王となります。このヨアキン王の時に、ユダはバビロニアに占領され、王は貴族や祭司と共に、囚われ人としてバビロンに連れて行かれます。第一次バビロン捕囚です。列王記は記します「ヨヤキンは十八歳で王となり、三か月間エルサレムで王位にあった・・・そのころ、バビロンの王ネブカドネツァルの部将たちがエルサレムに攻め上って来て、この都を包囲した・・・ユダの王ヨヤキンは母、家臣、高官、宦官らと共にバビロン王の前に出て行き、バビロンの王はその治世第八年に彼を捕らえた・・・彼はエルサレムのすべての人々、すなわちすべての高官とすべての勇士一万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去った」(列王下24:8-14)。この捕囚民の中にやがて預言者として立たされるエゼキエルがいました。
・ヨヤキン退位後、叔父のゼデキヤが王として立たされます。この時には、ダビデ王家は残され、エルサレム神殿も破壊されませんでした。ユダ王国は滅亡までの猶予が与えられたのです。この時、立たされた預言者エレミヤは繰り返し「バビロンは神が与えた鞭であり、従うことを通してあなたがたは生きる」と人々に話しますが、誰も聞かず、ゼデキヤも主戦派に押されて、やがてバビロニアに反旗を翻し、その結果、ゼデキヤは殺され、王宮は破壊され、神殿も焼かれます。先に北イスラエル王国が滅ぼされ、今また南ユダ王国も滅ぼされ、イスラエルは国家を喪失します。列王記はこの出来事を次のように記します「エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついにその御前から捨て去られることになった」(24:20)。国は滅び、エルサレムには「国の民の中で貧しい者だけ」(24:14)残されました。全ての希望は砕かれました。
・列王記は25章22節以下にその後の歴史を短く記されています。ユダを支配下に置いたバビロニアはゲダルヤを総督として立てて統治しますが、国内の主戦派はこのゲダルヤを殺してエジプトに逃亡します。イスラエルの民はエジプトから救い出されて約束の地に導かれ、やがてそこに王国を形成し、歴史を営んできましたが、いままたエジプトに逃亡することによって、彼らの救いの原点が否定されていきます。なお、第一次捕囚の後、エルサレムに留まって預言を続けたエレミヤも、この時強制的にエジプトに連行され、そこで死んだと言われています。全ては滅び、何の希望も持てない状況でした。

2.エホヤキン解放の記事で列王記は終わる
・しかし列王記はそこで終わるわけではなく、捕囚から37年後の出来事を記して、その書を閉じています。列王記は記します「ユダの王ヨヤキンが捕囚となって三十七年目の第十二の月の二十七日に、バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた。バビロンの王は彼を手厚くもてなし、バビロンで共にいた王たちの中で彼に最も高い位を与えた。ヨヤキンは獄中の衣を脱ぎ、生きている間、毎日欠かさず王と食事を共にすることとなった。彼は生きている間、毎日、日々の糧を常に王から支給された」(25:27-30)。この記事から大事なメッセージを読みとることが出来ます。一つは列王記が最終的に編集されたのは、この時代、捕囚期であったという事実です。そしてより重要なことは、「自分たちは罪を犯したから神に滅ぼされた」という歴史観を持つ列王記記者が、「それでも神は私たちを見捨てておられない」という希望をここに表明していることです。捕らえられて37年間も獄中にあったヨヤキン王がバビロン王の恩赦で釈放され、王の食卓につく者となった、ダビデ王家はまだ終わっていないという希望、主は私たちを見捨てておられないとの信仰がそこにあります。
・そして歴史は彼らの希望と信仰は空しく終わらなかったことを示しています。この記事から23年後、バビロニアは新興国ペルシャに滅ぼされ、イスラエルの民は帰国を許されます。前537年に帰国が始まりますが、その帰国を指導したのがヨヤキン王の四男セシバザル(エズラ1:8シェシュバツァルと同一人と思われる)です。そしてエルサレムに戻った人々は神殿再建にとりかかりますが、その神殿再建に尽力したのが、ヨアキン王の孫ゼルバベルです(エズラ3:2、セシバザルの子と推察される)です。ダビデ王の血はヨヤキンで終わらず、セシバザル(シェシュバツァル)−ゼルバベルと継承されていきます。そして新約のマタイ福音書はその冒頭の系図で、このヨヤキン王の血を引くものとしてキリストと言われるイエスが生まれられたと記します「バビロンへ移住させられた後、エコンヤ(ヨヤキン)はシャルティエル(セシバザル)をもうけ、シャルティエルはゼルバベルを・・・マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(マタイ1:12-16)。

3.滅びを超えて
・今日の招詞にエレミヤ書31:33を選びました。次のような言葉です「しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」。先に述べましたように、エレミヤはイスラエルが国を滅ぼされた時に召命を受けた預言者です。彼はヨシヤ王の13年に預言者として召され(エレミヤ25:3)、その後ヨシヤの宗教改革、その挫折、エジプトの支配、バビロニアの支配、捕囚、その後の国の滅亡を見つめて来ました。エレミヤは「神がイスラエルの罪を裁くためにバビロニアを遣わされた、バビロニアは神の鞭であり、これに逆らうことをせず、自分たちの罪を悔い改めよ」と人々に説きました。しかし人々は聞かず、エレミヤは捕えられ、獄舎に拘留されます。
・その獄中のエレミヤに神の言葉が再び臨みます。「彼らはカルデア人と戦うが、都は死体に溢れるであろう。私が怒りと憤りをもって彼らを打ち殺し、そのあらゆる悪行のゆえに、この都から顔を背けたからだ」(同上33:4-5)。滅びの預言です。エレミヤは人々の聞きたがる言葉、救いの言葉を語ろうとしません。それは真実ではないからです。彼は言います「バビロニア軍はエルサレムに侵攻し、神殿は破壊され、ダビデ王家は滅びるであろう。神が与えられたこの現実から目をそむけるな、神が何故このようにイスラエルを打たれるのかを知れ。神の前にひざまずき、悔い改めよ。そうすれば神は憐れんで下さる」。しかし、イスラエルは悔い改めず、エジプトに頼って、バビロニア軍に抵抗します。やがてバビロニア軍はエルサレムに侵攻し、預言通りにエルサレムに死体があふれ、全土が焼かれるという悲劇が起こりました。
・イスラエルの国は滅び、エルサレムは廃墟となり、王家は断絶し、神殿も破壊されました。人々は前途に何の希望も持つことが出来ません。その時、エレミヤは新しい契約の約束を聞きます。その言葉が招詞の言葉です。その契約は、旧い契約の更新ではありえません。旧い契約は破棄されました。仮に旧い契約を更新しても何の意味もないでしょう。「人の心はとらえ難く病んでおり」(同上17:9)、契約を更新しても、また人間の側から破るでしょう。救済は神の恵み以外にはありえないのです。新しい契約においては、「神がその律法を人間の中におき、心に記す」(31:33)ことが起きます。人の心が変えられることを通して新しい約束が成就するのです。
・その新しい契約がイエス・キリストにおいて成就したとする信仰が新約=新しい契約です。イエスは最後の晩餐の時に弟子たちに杯を与えて言われました「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ22:20)。新しい契約は、イエスの十字架の血により調印されたのです。新約の救いは十字架によって、徹底した砕きの上に来ます。そして、徹底して砕かれるためには、真実を見つめる勇気が必要です。
・榎本保郎牧師は列王記下25章の注解の中で次のように書かれています「私たちにとって大切なことは現実を正しく把握することと共に、現実を支配したもう神を見失わないことである。その時、ヒステリックな悲観主義にも、無責任な楽観主義にもなることはない。現実をしっかりと受け止めながら、それがどうあろうとも、なおそこで希望を持って生きることが出来るのである」(旧約聖書一日一章から)。今、私たちの国は東北関東大震災によって引き起こされた苦難の中にあり、多くの人が流言飛語に巻き込まれて不要な買い占めをしたり、放射能汚染に不安になっています。このような国難の時にこそ、亡国の悲劇の中で書かれたエレミヤ書やエゼキエル書を読むべきであり、国が滅びる中で希望を失わなかった列王記記者の信仰を学ぶべき時だと思います。この国難の中で列王記を読むように導かれたことの意味を銘記したいと思います。

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