江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年12月11日説教(ルカ24:13−35、復活の主と出会う)

投稿日:2011年12月11日 更新日:

1.復活の証人の話を聞く

・クリスマスを前に、ルカ福音書から御言葉を聞いています。今日の個所はルカ24章、「エマオへの旅」と呼ばれる所です。ルカは、十字架に死なれたイエスが三日目に復活されて、エマオに向かう二人の弟子たちに現れたと記します。ルカは記します「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」(24:13-14)。この日、週の始めの日、イエスが十字架で亡くなられて三日目の日でした。エマオまでの道のりは60スタディオン、11キロ、歩いて三時間の道のりです。弟子の一人はクレオパ(24:18)、もう一人はその息子のシモンであったと言われています。ギリシャ名=クレオパ、ヘブル名=クロパ。このクロパの妻はイエスの十字架に立ち会っています(ヨハネ19:25)。おそらく、彼等の家はエマオにあったのでしょう。そして彼等はイエスの支持者だったのでしょう。彼等は過ぎ越しの祭りにイエスがエルサレムに来られるとの連絡を受けて、一家でエルサレムに行きました。そこでイエスの十字架死を目撃し、失意の中に、親子で、エマオに帰るところであったと思われます。
・彼らは「この一切の出来事について話し合っていた」とあります。一切の出来事、おそらくは、イエスが死なれて望みは絶たれたと言う嘆きと、今朝、仲間の婦人たちが体験した不思議な出来事(24:1-2、婦人たちがイエスの墓に行ったところ、墓の石が転がされて死体が無くなっていたこと)等について、ため息混じりに話し合っていたのでしょう。そこにイエスが近づかれて、彼等と一緒に歩かれ、「何を話しているのか」と尋ねられます(24:17)。しかし、二人はその同伴者がイエスであることに気がつきません。心の目が閉じている時、人はイエスを見てもわからないのです。マザー・テレサはカルカッタの高校教師でしたが、ある日、路上に捨てられて死につつある老人の顔の中にイエスを見て、教師の職を捨て、奉仕の仕事につきました。しかし、他の人には、その老人は、ただの死につつある老人にしか過ぎませんでした。同じものを見ても、心の目が閉じている人は見えない。弟子たちもイエスがわからなかった。
・「二人は暗い顔をして立ち止まった」(24:17)とルカは書きます。何故、顔が暗いのか。二人はイエスこそイスラエルを救うメシヤ(救い主)であると思っていたのに、彼は殺され、希望は挫かれたからです(24:21)。彼らはイエスこそ神の子と信じたのに、神はイエスを救うために何もされず、イエスは為すすべもなく殺されて行きました。彼等の信仰は打ち砕かれました。更にまた、今朝は、女たちがイエスの墓に行ったところ、死体さえも無くなっていました。彼らは二重にも三重にも打ち砕かれ、暗い顔をしていました。そして彼らは旅人の質問に、堰を切ったように自分たちの苦しみと失意を語り始めます。その彼等にイエスは語りかけられました「物分りが悪く、心が鈍い者たち」(24:25)。イエスの十字架に直面した弟子たちは、怖くなって逃げ去りました。そして今「イエスは生きておられる」(24:23)との使信が婦人たちを通して伝えられたのに、弟子たちは「愚かな話と思い」(24:11)、信じることができません。二人もイエスの体が取り去られたことを不思議に思いながらも、イエスが復活されたとは信じていません。それでもイエスは弟子たちに現れ、彼等の目が開かれることを期待されます。だから、彼等に聖書の解き明かしをされ、メシヤは苦難を通して栄光を受けると書いてあるではないかと語られます(24:26)。
・彼等の目はまだ開かれません。しかし、彼らは旅人の話にただならぬものを感じました。だから、目的地のエマオに着いた時、先を急ごうとする旅人をしいて引き止めます(24:29)。彼等が引き止めなかったら、イエスは先に行かれ、彼らはその人がイエスであることはわからなかったでしょう。イエスは求める者には、その姿を現されますが、求めない者はイエスに出会うことはありません。イエスは言われます「見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」(ヨハネ黙示録3:20)。イエスは外に立っておられ、戸を開ける者はイエスに出会い、開けない者は出会わない。二人の弟子はイエスを強いて引き止めたから、イエスに出会います。

2.二人はやっとイエスが分かった

・イエスは二人の求めに応じて、家に入られ、食事の席につかれました。そして、イエスが「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」時に、「二人の目が開き、イエスだとわかった」(24:30-31)とルカは記します。「パンを取り、祝福して裂き」、イエスはかつて5つのパンで5千人を養われたことがあります。その時、イエスは、「パンを取り、祝福して裂き」、群衆に配られました(9:16)。二人はその時、その場にいたのかもしれません。二人がイエスを認めた時、イエスの姿が見えなくなりました。しかし、二人はお互いに言います「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」(24:32)。そして二人は「時を移さず出発してエルサレムに戻った」(24:33)。彼等がエマオに到着したのが夕暮時、食事を囲んだのが7時頃、それからエルサレムまで3時間の道のりですから、エルサレムに着いたのは夜中近くであったと思われます。二人は「心が燃えて」じっとしておれなかった。「復活の主に出会った」ことを語らずにはいられなかった。そのため、彼らは食事をとることも忘れてエルサレムに急ぎました。心が燃えて語らずにいられない。その思いが私たちを伝道に駆り立てます。
・イエスの時代、多くのメシヤと称するものが出て、一時期人々の注目を集め、弟子たちが集まったと歴史書は記します。しかし、その多くは自称メシヤの死により、運動が終っています。イエスの場合も十字架で死なれた時、弟子たちは逃げ去り、それで終るはずでした。ところが、逃げ去った弟子たちが、やがて「私たちは復活のイエスに会った。そのことによって、私たちはイエスが神の子であることを知った」と宣教を始め、信じる者たちが増やされていくという出来事が起こりました。復活があったかどうかは歴史的に証明できません。しかし「私たちは復活の主に会った」と弟子たちが証言を始め、多くの者が殺されてもその証言を曲げなかったのは歴史的事実です。復活はまた理性で認識できる事柄でもありません。現に弟子たちも自分たちの前にイエスが現れるまでは、「愚かなこと」と復活を信じていません。しかし、失意の中にエマオに戻る途上のクレオパとシモンが、エマオに着くや否や、食事をとることも忘れて、喜び勇んでエルサレムに戻っていったのは歴史的な事実でしょう(マルコ福音書も16:12-13でその伝承を伝えています)。

3.復活信仰に動かされて

・当初、弟子たちはイエスの復活を信じませんでした。信じない時、死が全ての終わりであり、死が全てを支配します。死が全ての終わりであれば、私たちには何の希望もありません。その時、人は享楽的になり、「私たちは飲み食いしようではないか。明日も分からぬ命なのだ」(1コリント15:32)と言うか、この弟子のように悲観的になり、全ては空しいとため息をつくかのどちらかです。復活を信じる時、全ては変ります。イエスがわかった時、二人の弟子は言いました「私たちの心は燃えていたではないか」。打ち砕かれてエマオに向かう二人と、喜び勇んでエルサレムに戻る彼等の間に何があったかを知って欲しい、ルカはそう語りかけています。
・詩篇126:5-6が今日の招詞です。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」。詩篇126編はバビロン捕囚という悲しい出来事からの解放を祝った詩篇です。「泣きながら出て行った人が、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」、絶望が喜びに変えられる出来事がありました。同じように、エマオに向かう二人の弟子たちも絶望の中にエルサレムを去りました。その彼等が喜びの声をあげてエルサレムに戻っていきます。詩篇126編が記す出来事が今起こったことをルカは伝えます。「世は過ぎ去る。私たちもいつか死ぬ。全ては空しい」。しかし「空しくないもの、過ぎ去らないものがここにある」ことを二人の弟子は見出しました。復活の出来事は今、この現在を、決定する出来事です。イエスが復活され、今もここにおられることを知る者は心が燃えます。燃えた心は、二人の弟子のように食事も忘れて、「私たちは復活の主に出会った」ことを伝えるために、走ってエルサレムに戻っていきます。この復活こそ私たちの信仰の中核であり、伝道の原動力です。
・復活とは単に死んだ人が生き返るという蘇生ではありません。復活は生物学的な現象でもなく、死を超えた命が示される出来事なのです。それは、神がこの世界を支配しておられることを信じるかと問われる出来事なのです。私たちは「たまたま生まれ、たまたまここにいる」のか、それとも「人生には意味があり、生かされている」のかが問われます。二人の旅人は十字架のあるエルサレムから逃げて来ました。現実から逃げていく時、そこには悲しみしかありません。しかし、その悲しみにイエスが同行されます。そして力を与えられ、彼らはまた、十字架の待つ危険な場所に帰って行きます。私たちに苦しみや悲しみが与えられているのは、私たちが絶望して自分に死に、そこから神の名を呼ぶためです。絶望しない者は神に出会わない、神を求めないからです。「十字架なしには復活はない」のです。神は求める者には応えて下さる。二人の弟子たちはイエスを引き止めたから、イエスは共にいてくださった。私たちも神の名を呼ぶ時、目が開けて、イエスが共にいてくださることを知ります。その時、私たちは新しい命を受けます。新しい命を受けた者は次の者に命を伝えていきます。
・蓮見和男と言う牧師が、復活について詠った詩があります。その詩を読んで今日の説教を終ります。「人は死ぬ、その生は朽ち果てる、ではその生は無意味だったのか。誰がその意味を決めるのか、神のみ。無から有を造り、有を無に帰せしめ、そしてまた、無から有を造り出す神なしには、この人生は無に過ぎない。しかし、神、愛なる神がいます故、全て意味が出てくる。死んだ者は、空しく朽ち果てるのではない。アウシュヴィッツ、ヒロシマの死者は空しく葬り去られるのではない。生ける者と死せる者の主となられた復活の主はそのことを教える」(蓮見和男・聖書の使信「ルカによる福音書」から)。虚しくないものがここにある。それを伝える場所が教会です。それを証しするのが私たちです。

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