江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年3月13日説教(列王記下22:14-20、23:25-27、運命は変えうるのか)

投稿日:2011年3月13日 更新日:

1.申命記の発見とヨシヤの悔い改め
・列王記を読んでいます。先週はマナセからヨシヤに至るユダ王国の王たちの記録を学びました。学んで感じますことは、人は歴史の制約、あるいは定められた運命の中で生きざるをえないということです。ユダ王マナセは主の預言者たちを殺し、アッシリアの異教礼拝を取り入れ、悪王と呼ばれていますが、歴史を振り返った時、アッシリア帝国の強大化の中で小国イスラエルは従属する政策を採らざるを得ず、その結果異教礼拝(アッシリアの神々の礼拝)を導入することこそ国の平和を保つ手段でした。後継者ヨシヤは祖父マナセの導入した偶像を廃棄し神殿を改修しましたが、その背景にはアッシリアの勢力衰退があり、だからこそ異教礼拝の廃止が可能であったことを学びました。ヨシヤの改革の契機になったのは、ヨシヤ26歳の時の「律法の書」の発見でした。この律法の書は「原申命記」と言われています。マナセの時代に異教化した宗教を清めることによって国を再出発させようとした祭司たちが、宗教改革案をまとめたが発表できず、神殿書庫にその書を収めたものを、大祭司ヒルキヤが王に渡したものと推測されます。
・列王記は記します「王はその律法の書の言葉を聞くと、衣を裂いた」(22:11)。衣を割く、悔い改めのしるしです。ヨシヤ王は発見された律法の書を読んで、自分たちがいかに罪を犯してきたかを知ったのです。申命記は記します「もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日私が命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、・・・これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう」(申命記28:1-2)。そして「もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日私が命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう」(同上28:15)。北イスラエル王国は既にアッシリアに滅ぼされています。その原因は主に対する背信です。ユダ王国も悔い改めないと、兄弟国イスラエルのように滅びる。その危機感がヨシヤ王に行為を取らせます。
・列王記は記します「王は祭司ヒルキヤ・・・書記官シャファン、王の家臣アサヤにこう命じた。『この見つかった書の言葉について、私のため、民のため、ユダ全体のために、主の御旨を尋ねに行け。我々の先祖がこの書の言葉に耳を傾けず、我々についてそこに記されたとおりにすべての事を行わなかったために、我々に向かって燃え上がった主の怒りは激しいからだ』」(22:11-13)。「主の御旨を尋ねに行け」、「もしかすると主は私たちを憐れんで国を残して下さるかもしれない」とヨシヤは期待をかけたのです。大祭司ヒルキヤはヨシヤ王の命に従い、預言者フルダの元を訪れます。彼女は事情を聞くと次のように主の言葉を取り次ぎます「主はこう言われる。見よ、私はユダの王が読んだこの書のすべての言葉のとおりに、この所とその住民に災いをくだす。彼らが私を捨て、他の神々に香をたき、自分たちの手で造ったすべてのものによって私を怒らせたために、私の怒りはこの所に向かって燃え上がり、消えることはない」(22:16-17)。「主の怒りは消えない、ユダは滅ぼされる」と預言者は言いました。「ユダの罪はあまりにも大きいゆえに、もう滅ぼすしかない」と主は言われたのです。
・しかし、同時に主はヨシヤの悔改めを見て、滅びはヨシヤの時代には起きないと約束されました「私がこの所とその住民につき、それが荒れ果て呪われたものとなると言ったのを聞いて、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂き、私の前で泣いたので、私はあなたの願いを聞き入れた、と主は言われる。それゆえ、見よ、私はあなたを先祖の数に加える。あなたは安らかに息を引き取って墓に葬られるであろう。私がこの所にくだす災いのどれも、その目で見ることがない」(22:18-20)。ヨシヤは「主の怒りは消えない、ユダは滅ぼされる」と言う言葉を聞いて落胆したことでしょう。しかし同時に「あなたの時代に滅ぼすことはしない」と言う約束を聞いて、残された時間に為すべきことをしようと決意します。それが23章以下にありますヨシヤの宗教改革運動でした。
・詳細は省略しますが、ヨシヤは主との契約の更新を民に誓わせ、カナンの偶像であるバアルやアシェラの像を神殿から取り除き、またアッシリアの偶像である天の万象のための祭具を焼き捨てました。次に地方聖所を取り壊して偶像礼拝の温床を取り除き、アッシリアの支配下にあったサマリヤも奪回し、その聖所も清めました。改革の頂点は盛大な過ぎ越し祭りの祝いでした。カナン農耕神の影響下、刈入れ祭りである「七週の祭り」や収穫祭である「仮庵の祭り」は祝われていましたが、出エジプトを記念する「過ぎ越しの祭り」は忘れられていました。それをヨシヤは復活させたのです。宗教は人間の生き方の基本です。エジプトやアッシリアの神を拝むとは、強いものに従うことです。ヨシヤはそうではなく、正しいものに従う生き方を選択した、そこにヨシヤの改革の意味があります。

2.改革の挫折~救いの見えない中で
・ヨシヤ王は本気で悔改め、正しい方向へ国を導きました。それにもかかわらず、主はユダを滅ぼすとの決定を変えられませんでした。列王記は記します「しかし、マナセの引き起こした主のすべての憤りのために、主はユダに向かって燃え上がった激しい怒りの炎を収めようとなさらなかった。主は言われた『私はイスラエルを退けたようにユダも私の前から退け、私が選んだこの都エルサレムも、私の名を置くと言ったこの神殿も私は忌み嫌う』」(23:26-27)。ヨシヤの改革は挫折します。彼はエジプトとの戦いに負け、死んでいきます。39歳、申命記の発見から13年後のことでした。列王記は記します「彼の治世に、エジプトの王ファラオ・ネコが、アッシリアの王に向かってユーフラテス川を目指して上って来た。ヨシヤ王はこれを迎え撃とうとして出て行ったが、ネコは彼に出会うと、メギドで彼を殺した。ヨシヤの家臣たちは戦死した王を戦車に乗せ、メギドからエルサレムに運び、彼の墓に葬った」(23:29-30)。
・フルダは預言しました「私はあなたを先祖の数に加える。あなたは安らかに息を引き取って墓に葬られるであろう」。「安らかに息を引き取る」とは通常は年齢を重ねて長寿を全うすることを指し、戦いで戦死することを意味しません。しかしやがてユダに臨もうとする大殺戮が非常に恐ろしいものであったので、激烈な死であっても、通常通り埋葬されたことに、列王記は「安らかな死」を見ているのでしょう。彼の息子エホアハズはエジプト軍に幽閉されて処刑されていますし(23:33)、もう一人の子ゼデキヤは目の前で息子たちを殺され、彼自身は両目をくり抜かれて、青銅の足枷を嵌められてバビロンに連れ行かれ、その地で亡くなっています(25:7)。
・列王記の基本的な考え方は「神は正しい方であり、悪は必ず罰せられ、義は必ず報われる」というものです。そして列王記はヨシヤを「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった」(23:25)と賞賛しています。ヨシヤが「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った」のであれば、主は何故彼を志半ばで死なせ、改革を挫折させ、終にはユダ王国を滅ぼされたかという疑問が生じます。不信仰な人々は言うでしょう「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても、万軍の主の御前を喪に服している人のように歩いても何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ」(マラキ3:14-15)。「神に仕えることは虚しい」のでしょうか。私たちは与えられた運命を変えることはできないのでしょうか。

3.運命は変えうるのか
・今日の招詞に詩編87:4-5を選びました。次のような言葉です「私はラハブとバビロンの名を、私を知る者の名と共に挙げよう。見よ、ペリシテ、ティルス、クシュをもこの都で生まれた、と書こう。シオンについて、人々は言うであろう。この人もかの人もこの都で生まれた、と。いと高き神御自身がこれを固く定められる」。詩編87篇はユダヤ人が世界中に散らされた捕囚期以降の歌であろうと言われています。ここには自分たちを長い間苦しめてきたエジプト(ラハブ)に対する恨みも、自分たちの国を滅ぼし捕囚の苦しみを与えたバビロンへの憎しみもありません。また隣人として敵対してきたペリシテやティルスに対しても開放的です。そこには異邦人を排斥する民族主義や国粋主義はありません。同じ方を共に「父なる神」として礼拝する喜びがあります。詩編87篇は続きます「主は諸国の民を数え、書き記される、この都で生まれた者、と。歌う者も踊る者も共に言う『私の源はすべてあなたの中にある』と」(87:6-7)。
・イスラエルが地上の王国を持っている時は、彼らは民族主義的、国粋主義的で、エジプトやアッシリアはいつ侵略するかもわからない敵でした。しかし国を失うことによって彼らは諸国に散らされ、その地で彼らは主を礼拝し、宣べ伝え、異国の民からも改宗者が出て来ました。それを見て彼らは「シオンについて、人々は言うであろう。この人もかの人もこの都で生まれた、と。いと高き神御自身がこれを固く定められる」、主は国を滅ぼすことを通して私たちを諸国民に主の福音を伝える者とされた、そのことについての感謝がここにあります。亡国-捕囚-異邦人の支配という苦難がイスラエルを神の民にして行ったのです。ここに歴史を貫く神の摂理があります。
・私たちは与えられた運命から逃れることはできません。それぞれが、「命の終わり」という運命の下にあります。その時に、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(コリント上15:32)と思う人もいれば、「私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国に何も遺さずには死んでしまいたくない」(内村鑑三、後世への最大遺物)と思う人もいます。運命をどう受け取るかによって、人生は変わってきます。私たちは運命を変えることはできない、しかし運命の意味を変えることはできます。
・バビロンに捕囚となった民はその地で列王記を読み、ヨシヤが「主の怒りは消えない、ユダは滅ぼされる」と言う言葉を聞いても挫けずに、残された時間に為すべきことをしようと決意した記事を読み、その行為に励まされました。そしてヨシヤの見出した申命記の中にある言葉「私があなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、私が今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる」(申命記30:1-3)の中に希望を見出しました。その希望こそが異国での50年間の捕囚を超えてユダ民族を生き残らせ、神の民として復活させたのです。国の滅亡は裁きであり、滅びであるように思えましたが、実は神の摂理の中で、祝福に変わっていくことを見出しました。ヨシヤの生涯は無駄ではなく、彼の働きによって多くの人々が励まされたのです。ヨシヤはその信仰にふさわしく報われたのです。
・私たちは60年、70年、あるいは80年の有限の時を生きます。有限ゆえに見えない真実がありますが、歴史を振り返る時、そこに一本の大きな柱、神の摂理が貫いていることを見出します。このこと知る時に、私たちに生きる勇気が与えられます。例え「私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした」と思える時があったとしても、「私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」(イザヤ49:4)という信仰が私たちを支えます。そして与えられた運命を見つめ、その中で最善を尽くす生き方に導かれます。それをラインホルド・ニーバーというアメリカの牧師はみごとな言葉で集約しています「神よ、 変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。

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