1.「そんな人は知らない」と否認するペテロ
・今月からルカ福音書の学びに入ります。今日与えられましたのはルカ22章54節~62節の記事で、「ペテロの否認」として有名な個所です。ペテロは12弟子の筆頭であり、初代キリスト教会の中心的人物です。そのペテロが、イエスが捕えられ裁判を受けている時、イエスを三度知らないと否認したことを聖書は伝えます。しかも四つの福音書全てがペテロの裏切りを詳細に書きます。人間的に見れば隠しておきたいことを、なぜ聖書はあからさまに書くのでしょうか。一つの疑問です。また、ペテロはイエスこそ救い主と思い、3年間従って来ましたが、決定的な瞬間に、師であるイエスを裏切りました。自分は取り返しのつかない過ちを犯したという悔いと絶望が彼に残ったことでしょう。そのペテロが挫折から立ち直り、教会の創立者といわれるほどの者になります。その回復の過程を私たちは知りたい。この2つの視点から、今日はルカ22章を読んでいきたいと思います。
・イエスと弟子たちは最後の晩餐を終えて、一晩を過ごすためにゲッセマネの園に行きました。そこに大祭司から派遣された兵士たちが来て、イエスを捕えます。その時、一緒にいた弟子たちはみな逃げてしまいました。ペテロも逃げましたが、イエスのことが気にかかり、「遠く離れて従った」とルカは書きます(22:54)。ペテロは「イエスに従った」、イエスを愛していたからです。「遠く離れて」、自分も捕えられることを恐れていたからです。ペテロは邸の中庭まで入り込み、人々が火にあたりながらイエスを見張っている所まで行きました。イエスは夜中に捕らえられ、夜が明けるまで大祭司の中庭に拘留され、その間、兵士たちから暴行や侮辱を受けていたとルカは語ります(22:63-66)。その大祭司の中庭にペテロは忍び込んだのです。彼は目立たないように身を潜めて、イエスの様子をうかがっていました。しかし焚き火の明かりがペテロの顔を照らし出します。そこにいた女中の一人が、「この人も一緒にいました」(22:56)とペテロを告発します。ペテロは予想もしない所からの指摘にあわてて、「私はあの人を知らない」(22:57)と言いました。最初の否認です。
・ペテロは最後の晩餐の席上で、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(22:33)と言っています。彼はイエスと一緒に死ぬ覚悟だったのです。だから他の弟子たちが逃げ去っていった中で、危険を冒して大祭司の邸まで追って来ました。そのペテロの覚悟が女中の一言で吹き飛びました。女中に指摘されて、ペテロは身の危険を感じ始めます。すると火の周りにいた他の者が、「お前もあの連中の仲間だ」と告発します。ペテロは「いや、そうではない」と否定します。二回目の否認です。人々は疑わしそうにペテロを見つめ、別の人が言います「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」(22:60)。ペテロの言葉の中にガリラヤの訛りを聞いたのでしょう。ペテロはそれをも否定します「あなたの言うことは分からない」(22:60)。
2.そのペテロを見つめるイエスの眼差し
・「言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた」とルカは記します(22:60)。その鳴き声でペテロは我に帰ります。そしてイエスが言われた言葉を思い出しました。「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うだろう」(22:34)。その時「主は振り向いてペテロを見つめられた」とルカは記します。拘留されていたイエスが振り返られたのでしょうか。イエスの悲しげな顔がペテロに迫って来ました。ペテロは「外に出て激しく泣いた」とルカは記します(22:62)。ペテロはイエスを裏切りました。ペテロは砕かれ、何も無くなり、ただイエスの言われた言葉だけが残りました。イエスはペテロが裏切ることを予告された時、同時に言われました「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:31-32)。ここにはつまずきの予告と同時に赦しの予告が為されています。人は「心は燃えても肉体は弱い」(マルコ14:38)ことをイエスはご存知だったのです。
・「心は燃えても肉体は弱い」、聖書はペテロの弱さを否定しません。むしろこの弱さを認めることによって、本当に強い人間になれると主張します。自分のしたことは間違っていた、自分がイエスを十字架につけた、この悔改めをした時に、ペテロの上にイエスの言葉がよみがえります「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。イエスは全てをご存知です。私たちがいざと言う時には愛する人さえも容易に裏切る存在であることもご存知です。イエスが全てをご存知であれば、私たちは嘘をつくことも、自分を良く見せることも不要です。罪あるままで赦されたのですから、自分を正当化する必要はないし、全てを無かったことのように忘れ去る必要もありません。何よりも、私たちがイエスを捨ててもイエスは私たちを捨てられない。この赦しに接して、挫折からの回復が始まるのです。
・このペテロの絶望の涙を私も流したことがあります。私は50歳で勤務先を辞めて東京神学大学に入りましたが、それまでの4年間夜間神学校で学び、もう牧師としての訓練は受けたとの自負がありましたので、大学で学びながら、ある伝道所の牧師になりました。しかし1年で挫折しました。伝道所の信仰とそぐわないとの理由で、数名の方から牧師辞任を迫られました。その時、泣きながら主に祈りました「あなたが成れというから職業を捨てて牧師になったのに、1年で辞めろと言われるのですか。何のために職を捨てたのですか」。東神大の二年目は学びに専念し、卒業と同時にこの篠崎教会に招かれて来ました。牧師を1年で辞めたことは辛い経験でしたが、この挫折を通して、教会とは何か、牧師はどうあるべきかの基本を、学んだような気がします。「牧師になるために一度砕かれなければならなかった」、今ではこの挫折を恵みとして受け取っています。
3.ペテロの復活
・今日の招詞にヨハネ21:17を選びました。次のような言葉です「三度目にイエスは言われた『ヨハネの子シモン、私を愛しているか』。ペトロは、イエスが三度目も『私を愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った『主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます』。イエスは言われた『私の羊を飼いなさい』」。イエスが十字架で死なれた時、弟子たちは逃げました。イエスが死なれた以上、エルサレムにいても仕方がありません。弟子たちは故郷のガリラヤに戻り、そこで元の漁師に戻ったとヨハネ福音書は記します。そこに復活のイエスが現れました。イエスはペテロに「私を愛するか」と三度聞かれました。三度裏切ったゆえに三度確認されます。三度目の確認にペテロは悲しんで言いました「主よ、あなたは全てをご存知です」。
・「あなたは私の弱さを知っておられます。私はかってあなたを裏切ったし、これからも裏切るかも知れません。それにもかかわらず、私があなたをどれほど愛しているかを、あなたはご存知です」。この復活のイエスと出会い、罪を赦され、過ちを犯した自分に教会が委ねられた事を知った時、ペテロは生れ変りました。やがてペテロは、「イエスは復活された。私たちはその証人である」と宣教を始めます。イエスを十字架につけた大祭司はペテロに、「もしイエスを宣教し続けるならばおまえも殺す」と脅しました。その時ペテロは、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」(使徒5:41)と使徒言行録は記します。大祭司の女中の言葉に怯えたペテロが、今、大祭司の前で「イエスこそわが主であり、救い主だ。私を殺したければ殺しなさい」と告白するほどの者にされました。
・ペテロはローマで死んだと言われています。伝承に依れば、ネロ皇帝のキリスト教徒迫害が起きた時、ペテロはローマにいました。弟子たちはローマから逃れることをペテロに勧め、ペテロはローマを後にしますが、その途上でイエスに出会います。ペテロはイエスに尋ねます「クオ・バデス・ドミネ」、ラテン語で「主よ、何処に」という意味です。そのペテロに対してイエスは言われます「おまえが私の民を置いて去るならば、私は再び十字架にかけられる為にローマに行く」。この言葉を聞いてペテロはローマに戻り、十字架につけられて殉教して死んでいったと伝えられています(シンケヴィッチ作「クオ・バデス」岩波文庫)。ペテロが殉教したと伝えられる地にサン・ピエトロ教会(聖ペテロ教会、今日のバチカン)が建てられ、教会の扉には逆さ十字架につけられたペテロの像が彫り込まれています。ペテロは最期まで弱い人間でした。しかし、自らの弱さを知り、主を求め続けました。そして主によって強くされました。
・聖書はペテロがイエスを三度否認したことを何故、こんなに詳しく知っているのでしょうか。大祭司の庭にはペテロしかいなかったはずです。おそらくペテロは弟子たちに、自分の経験を繰り返し語ったのでしょう「私はイエスを傷つけた。イエスを失望させた。それでもなおイエスは私を愛し、赦してくださった。イエスはあなた方も同じ様に赦してくださるのだ」と。人は弱い、過ちを犯す、しかし神はその過ちを責められない。自分が弱いことを認め、その弱さをも神が受け入れてくださる事を知る時に、人は挫折から立ち直ることが出来ることをペテロの経験は私たちに教えます。同じようにイエスを裏切ったイスカリオテのユダは首をくくって死にました。ユダはイエスに絶望し、自分の力で何とかできると考え、破滅しました。ペテロは自分に絶望しましたが、自分の弱さを泣き、主を求めました。主を求め続ける時、その悲しみは「救いに通じる悔い改めを生じさせ」、主に背を向ける時、その悲しみは「死をもたらす」のです(�コリント7:10)。
・ペテロはイエスを裏切りました。イエスの後に従ったからです。他の弟子たちはイエスを裏切りませんでした。イエスの後に従わなかったからです。しかしイエスが、「私の羊を飼いなさい」と群れを委託されたのはペテロであって、他の弟子たちではありませんでした。従う故に挫折があり、挫折があるゆえに恵みがありました。ペテロの挫折は「勇気ある挫折」なのです。私たちの場合もそうです。従う故に挫折があるのですから、挫折を恐れる必要などない。むしろ挫折を通して私たちは主に出会うのです。挫折は神の火による潔めなのです。ペテロが弟子の手本とされているのは彼が失敗しなかったからではなく、彼が挫折から立ち直ったからです。神の国では失敗や挫折は恥ずべきことではないことを覚えたいと思います。