江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年10月23日説教(申命記7:6-11、イスラエルの選び、私たちの選び)

投稿日:2011年10月23日 更新日:

1.イスラエルの選び

・今日から私たちは、新しい会堂での礼拝を始めます。およそ40年前に私たちはこの地に会堂を建て、礼拝を続けて来ましたが、建物が老朽化したため、会堂建て直しを決議し、9カ月間の工事の後に新会堂が完成し、今日が新会堂での最初の礼拝です。その時に読むように示された記事が申命記7章です。申命記は40年の荒野の放浪の後に、約束の地カナンに入ろうとしている民にモーセが語った告別説教です。モーセは40年間民を導いてきましたが、彼自身は約束の地に入ることは出来ません。そこで、彼は民を集め、神がこの40年間何をして下さったかを覚えて新しい地での生活を始めるように、民に教えます。申命記は記します「第四十年の第十一の月の一日に、モーセは主が命じられたとおり、すべてのことをイスラエルの人々に告げた・・・モーセは、ヨルダン川の東側にあるモアブ地方で、この律法の説き明かしに当たった」(1:3-5)。私たちも宣教40年を経て新会堂が与えられた、イスラエルの民と同じように、40年間の荒野放浪の後、新しい地、約束の地に入ろうとしています。従って、モーセが民に語った言葉は、同時に私たちに向けられた言葉でもあります。
・申命記の中心的な思想は、エジプトから解放し、約束の地に導かれた神への感謝の思いです。だからモーセは民に命じます「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(6:4-5)。何故主を愛するのか、それは主が私たちを選び、愛して下さったからだと申命記は記します。その主の選びと愛を記しますのが、今日のテキスト申命記7章です。
・申命記7:6は記します「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」。「聖なる主」に選ばれた民は、「聖なる民」と呼ばれます。それはイスラエルが聖だからではありません。荒野のイスラエルは不従順な、かたくなな民でした。水が無くなると不平を言い、パンが欠乏するとエジプトが良かったとつぶやき、約束の地に入ろうとすると相手に怯えてエジプトに帰ろうとする民でした。そのような民を、主は、ご自分の「宝の民」と呼ばれます。申命記は続けます「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」(7:7-8)。
・イスラエルはどの民よりも貧弱であった。それは謙遜ではなく、事実です。当時の強国エジプト、アッシリア、バビロニア等に比べれば、イスラエルは諸国の中でも最小のもの、弱体の国でした。弱体ゆえにエジプトでは奴隷であったし、アッシリアの軍事力の前に何度も国を滅ぼされようとし、次のバビロニア時代には国は滅亡します。イスラエルの側には愛されるべき何物もなかったのに、主はイスラエルを愛して下さったと申命記は語ります。「主は心引かれてあなたたちを選ばれた」、この「心引かれて」という言葉はヘブル語「ハーシャク」、男性が美しい女性に心を引かれる時に用いる言葉です。「好きになる、主はイスラエルを好きになって、ご自分の民とされた」と申命記は記しています。人は価値あるもの、美しいものに心を引かれます。これが人間の愛、エロスです。しかし主は無価値なもの、取るに足らぬものを愛して下さった、一方的な主の選びによってイスラエルは主の民とされた、その選びは恵みとしか言いようがない。だからイスラエルよ、その神の選びに対してあなたは「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」とモーセは命じるのです。

2.聖なるものになりなさい

・そのように一方的に愛され、恵みを与えられたのだから、あなたたちも応答して行くのだ、神の戒めを守っていくのだとモーセは命じます。それが9節以下の部分です「あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。あなたは、今日私が、『行え』と命じた戒めと掟と法を守らねばならない」(7:9-11)。
・神の戒めを守れば祝福が与えられます。それが12節以下の言葉です「あなたたちがこれらの法に聞き従い、それを忠実に守るならば、あなたの神、主は先祖に誓われた契約を守り、慈しみを注いで、あなたを愛し、祝福し、数を増やしてくださる。主は、あなたに与えると先祖に誓われた土地で、あなたの身から生まれる子と、土地の実り、すなわち穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油など、それに牛の子や羊の子を祝福してくださる」(7:12-13)。現実のイスラエルの歴史は苦難の連続でした。約束の地に入ったイスラエルはそこに国を形成しますが、やがて国は分裂し、北王国はアッシリアに滅ぼされ、残った南王国もバビロニアに滅ぼされました。生き残った民がやがて国を再建しますが、その国はペルシャ帝国の支配下に置かれ、ペルシャなき後はギリシャ、そしてローマの支配を次々に受け、やがて紀元70年にローマに滅ぼされて、彼らは流浪の民になります。中世時代はキリスト教徒に迫害され、近世では寄留先の居住国から追われ、二次大戦中は民族虐殺(ホロコースト)の憂き目にあいました。どこに祝福があったのでしょうか。
・しかし3千年の歴史を振り返る時、そこに確かに祝福があったことを私たちは知ります。世界帝国となったアッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、全ての強大国は滅んできました。また当時カナンに住んでいたアモリ人、モアブ人、ペリシテ人、アラム人等の弱小民族も滅んできました。その中で、イスラエルだけが滅びず、今日まで生き残ってきたのです。プロイセンのフリードリヒ大王は啓蒙主義者で神を信じなかった人です。彼はある時、彼は侍医のツインマーマンに尋ねます「お前にできるなら神が存在することを証明せよ」。侍医は答えました「陛下、それはユダヤ人です」。
・イスラエルだけが民族として3千年間を生き残り、他の民族は全て滅亡しました。イスラエルは選ばれた故に苦難という鍛錬を受け、その苦難の中で主に祈り続けて来ました。この祈りこそ、イスラエルを生存させてきたものだと思います。イスラエルは苦難を通して、自分たちが神の民であることを証し続けて来たのです。まさにイエスが言われたように「地を受け継ぐのは強いものではなく、柔和なもの」(マタイ5:5)なのです。

3.神の選び

・イスラエルは神の民として選ばれましたが、それはイスラエルを通して、諸国民を救うためでした。そのためにイスラエルは選びの民としてさまざまの試練を与えられました。その試練の中で、イスラエルから神の御子キリストが生まれて行きます。そのキリストの十字架と復活を通して、新しいイスラエル、教会が生まれて来ました。教会はこの世の中で、「この世のものではない生き方」をするように呼び集められた群れです。しかしその教会もやがてこの世と同じ有様になっていきます。新約聖書の三分の一はパウロ書簡ですが、その手紙はいろいろな問題を抱える教会に宛てて出されたものです。コリント教会もそうでした。コリントの信徒への手紙は、使徒パウロが、自分が設立した教会内に分派争いが起きていることを聞いて、懸念して出した手紙です。コリント教会では初代牧師パウロにつくもの、2代目牧師アポロを慕う者、巡回伝道者ペテロに好意を持つ者等がお互いに覇権争いをしていました。そのような教会にパウロは信仰の原点である神の選びに戻れと言います。
・今日の招詞に第一コリント1:27-28を選びました。次のような言葉です。「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」。
争いを繰り返す教会の人々にパウロは語ります「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません」(1:26)。そのあなたたちが、「私は正しい、あなたは間違っている」とお互いを批判して教会を混乱させている。しかしあなたを選ばれた神は、知恵のある者よりも無学な者を、権力のある者よりも無力な者を、家柄のよい者よりも身分の卑しい者を選ばれたではないか。そのような者が神の召しを受け、信仰を与えられ、主の救いにあずかっているのに、「私が正しい」と争い合うのは何故かとパウロは語ります
・私たちは神から選ばれて教会に召されましたが、それは我々が正しいからでも信仰深いからでもなく、ただただ神の恵み、神の憐れみによるものです。だから「だれ一人、神の前で誇る」(1:29)ことは出来ないだとパウロは語ります。この神の選びと召しは、人間の一切の誇りを打ち砕きます。自分の立派さ、清さ正しさを誇る思いが、神の選びと召しの前では打ち砕かれるのです。そういう人間の誇りが全て打ち砕かれるところにただ一つ残るもの、それは神が私たちを選び、キリスト・イエスに結びつけて下さったという恵みの事実であり、そのキリストが、私たちにとって「義と聖と贖い」(1:30)となって下さったということです。だからパウロは言います「誇る者は主を誇れ」(1:31)。
・私たちは宣教40年の年に、新しい会堂を与えられました。私たちの40年間の歩みも決して順調な歩みではありませんでした。私たちの教会では、牧師交代の度に教会員が散らされていった歴史があります。民が散らされたということは、教会の中に争いがあったことを意味します。私たちは罪を犯し、裁かれたのです。私たちもまたイスラエルやコリントの民と同じ、「かたくなな民」なのです。しかし主はその私たちに新しい会堂を与えて下さった、主に背き続けた民に約束の地に入ることが許されたように、です。それは私たちが過去の人々に比べて、信仰が厚いとか、行いが優れているからではありません。「背いても、背いても、なお捨てたまわない神の恵み」があったからです。この会堂は私たちが快適な教会生活を送るために与えられたのではなく、私たちを通して福音が隣人に伝えられる、その拠点として与えられたことを、記念すべき今日の日に覚えたいと思います。

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