江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年10月2日説教(レビ記25:1-12、ヨベルの年)

投稿日:2011年10月2日 更新日:

1.ヨベルの年の規定

・今日から10月に入りました。私たちはこれからしばらくレビ記や民数記、申命記を学んでいきます。これらのテキストは現代の教会では学ばれることの少ない個所です。そこには古代の律法の詳細が記され、現代の私たちとの関わりが少ないと思われているからです。しかし、一つ一つの律法を丁寧に読んでいけば、そこには現代の私たちへの大事なメッセージがあります。今日はレビ記25章を通じて、そのメッセージを聞いていきます。
・レビ記25章を含むレビ17-26章は神聖法典と呼ばれ、聖なる者(神の民)としての生活の在り方を記しています。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主である私は聖なる者である」(レビ記19:2)という言葉が繰り返され、現代の私たちも聞くべき神の国の倫理が宣言されています。イエスは説教の中で最も大事な戒めとして、「神を愛する」こと、「隣人を愛する」ことの二つを挙げておられますが(マタイ22:37-40)、この「隣人を愛する」ことはレビ記からの引用です(レビ19:18「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。私は主である」)。そのような神聖法典の一つとしてレビ記25章がありますが、そこに記されているのは、7年ごとの安息年と50年ごとのヨベルの年の規定です。「あなたたちが私の与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑の手入れをしてはならない」(25:2-4)。7年毎に土地を休ませよと命令されていますが、弱った地力の回復のための措置です。連作すると、地力が衰え、やがて産物を産まなくなりますので、このような規定が設けられました。
・しかし人々は不安を感じます「7年目に収穫が出来なければどうやって食べていくのか」。この不安は私たちにも理解できます。東北大震災で多くの人々が職を失い、これからどう暮らして行ったら良いのかと不安を感じています。その人々に主は「私があなたたちを養う」と宣言されます。それがレビ記25:20-22です「七年目に種も蒔いてはならない、収穫もしてはならないとすれば、どうして食べていけるだろうかとあなたたちは言うか。私は六年目にあなたたちのために祝福を与え、その年に三年分の収穫を与える。あなたたちは八年目になお古い収穫の中から種を蒔き、食べつなぎ、九年目に新しい収穫を得るまでそれに頼ることができる」。
・この安息年の規定はやがて時代が下るに従い、単に土地を休ませる規定から、奴隷や債務免除の規定に変わっていきます。申命記15章は7年目ごとの安息年に負債を免除せよと命じ(15:1-2)、7年目ごとに奴隷を解放するように命じます(15:12-14)。経済的に行き詰って身を売らざるを得なかった債務者や奴隷を憐れみ、彼にやり直しの機会を与えるためです。
・8節からはヨベルの年が規定されています。「あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は四十九年である。その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る」(25:8-10)。7は聖なる数字です。その7の7倍、50年目にヨベルの年が設定されました。ヨベルとは雄羊の角笛を指します。角笛を吹いて解放の年の到来を知らせたからです。
・ヨベルの年には全ての負債は免除され、土地も返還されました。「ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける」(25:13)。約束の地に入り、時代が経るに従い、土地の占有化が進み、貧しい人々は土地を無くして小作人となっていきました。イザヤは土地を買い占める豊かな人たちを批判します「災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに、この地を独り占めにしている。万軍の主は私の耳に言われた。この多くの家、大きな美しい家は、必ず荒れ果てて住む者がなくなる」(イザヤ5:8-9)。土地を無くし、債務の返済に苦しむ人々を救済するために、土地を返還し債務を帳消しにするように命じ、社会正義を実現しようとした試みがヨベルの年の規定でした。しかし、実際には土地は返還されず、ヨベルの年の解放が実行されたことはなかったようです。戒めが与えられても人は自分の損になることはしないからです。

2.イエスとヨベルの年

・安息年やヨベルの年の規定は法制化されましたが、実際には誰も守らず、富める者がますます富み、貧しい者がますます貧しくなるという社会になっていきました。貧富の格差の問題です。そのような貧富の格差に憤られたのがイエスです。今日の招詞にルカ4:18-19を選びましたが、この箇所はイエスがヨベルの年をどのように理解されていたかを示しています。「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。
・イエスは宣教の業をガリラヤで始められました。イエスの言葉といやしは多くの人々をひきつけ、評判は高まっていきます。やがてイエスは生まれ故郷のナザレにお帰りになりました。郷土出身の名高い預言者の話を聞くために、大勢の人が会堂に集まりました。イエスは渡された巻物、イザヤ61:1-2を朗読されました。それが今日の招詞の言葉です。人々は食べるのがやっとの貧しい生活を強いられていましたが、「貧しい人々に良い知らせが語られる、税金が払えなくて獄に入れられていた人は獄から解放される、病に苦しむ人は病がいやされ、土地を持たず小作農として苦しむ人には土地が与えられる」とイエスは宣言されました。最後の言葉、「主の恵みの年」はヨベルの年を指します。50年ごとに債務が免除され、奴隷は解放されるとする出エジプトに起源を持つ規定です。それは、エジプトで奴隷として苦しんでいたのを主が救われ、現在の安泰があるのだから、今苦しんでいる人を助ける為にその債務を赦してあげなさいという規定です。その「主の恵みの年が今来た」とイエスは言われたのです。
・人々は約束の成就を待ち望んでいました。ユダヤはローマの植民地であり、ローマと、ローマの任命する領主の双方に二重に税金を納めなければなりませんでした。税金を払えない人は妻や子供たちを売り、それでも払えなければ投獄されました。多くの人々は土地を持たない小作人として働き、貴族や祭司等の大地主に収穫の半分以上を小作料として取られていました。豊作の時でさえ食べるのがやっとの生活で、天候不良で不作の時には大勢の餓死者が出ました。病気に罹れば、治療を受けることも出来ず、死んでいきました。人々は約束されたメシヤ(救い主)が来て、自分たちの生活が良くなることを待望していました。その人々にイエスは言われたのです「私がそのメシヤである。あなた方の救いは、今日、私の言葉を耳にした時に成就した」と。
・人々はその言葉に感動します。「彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆した」(ルカ4:22)。しかし、人々は続けて言います「この人はヨセフの子ではないか」。大工のヨセフの子、私たちと同じく貧しく、学問も権力もないヨセフの息子が何故このような約束が出来るのか、人々はイエスの言葉を信じることが出来ませんでした。これは他の場所でもそうでした。イエスは人々に抑圧からの解放を告げられました。しかし、多くの人々にとって救済とは社会的・政治的救済でした。ユダヤはローマの植民地として苦しんでいましたから、人々はメシヤが現れてローマからユダヤを解放してくれることを願いました。土地を奪われて生活が苦しかったので、メシヤが土地を取り戻してくれる日が来ることを願いました。そして、イエスがそのようなメシヤでないことがわかると、人々はイエスを十字架につけて殺しました。

3.私たちとヨベルの年

・イエスの試みは挫折しました。ヨベルの年は来ませんでした。しかし、私たちはそれでもヨベルの年を信じていきます。何故ならば西暦2000年にジュビリー2000の運動を推し進めた人たちがいることを知っているからです。ジュビリー、ヘブル語のヨベルの年です。西暦2000年、つまりイエス生誕2000年を世界中の教会が、大聖年、ヨベルの年、主の恵みの年として何ができるかを協議し、発展途上国の累積債務免除運動を具体化し始めました。アフリカや中南米等の最貧国の国々は、先進国からの債務の返済が国家予算の半分以上を占め、教育や福祉のお金を削って債務の返済を行っています。その結果、貧しい者がさらに貧しくなるという悪循環の中にあり、これを打破するには累積債務の免除を行うしかないとして、国連や先進諸国に働きかけました。99年のケルンサミット時には1700万人の署名を集めて、累積債務の一部700億ドルの債権が放棄されました。2000年の沖縄サミットでは貧困国のためのエイズ基金の設置が合意され、エイズ治療薬を無料で配布できるようになり、この基金の創立により、多くの命が救われるようになりました。ジュビリー2000の運動は、世界の民がキリストによってすべての束縛から解放されるという神の約束のうちにあることを祝うものであり、祈りが行為となったのです。
・私たちは、神の言葉は無力ではないと信じます。イザヤは主の言葉を伝えました「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者に糧を与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしく私に帰らない。私の喜ぶところのことをなし、私が命じ送った事を果す」(イザヤ55:10-11)。イエスは「私がこの地上に来て神の国は始まった」と言われました。2000年後の人々がその言葉を自分たちに言われた言葉として聞き、最貧国の累積債務問題を解放の具体化として取り組みました。その結果、不十分であれ、目に見える解放が為されました。私たちは、主の祈りを唱えますが、その祈りは「御国に行けますように」ではなく、「御国を来たらせたまえ」との祈りです。「御国に行けますように」、私たちは救いを求める必要はありません。もう救われているからです。そうではなく「御国を来たらせたまえ」、貧しさや苦しみにあえいでいる人がいれば、その人々への器として私たちを用いてくださいという祈りです。この祈りを具体化する場所が教会なのです。小さな教会は小さいなりに出来ることがあります。そのために私たちは今、集められているのです。

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