1.子に追われて都を落ちるダビデ
・先週に引き続き、詩編の学びをします。今日は詩編3篇ですが、この詩の冒頭には「ダビデがその子アブサロムを逃れた時」との表題がついています。表題は多くの場合、詩編編集者がつけたもので、直接には詩の作者や内容を示すものではありません。しかし詩編3篇では、この表題に沿って読んだ時、作者の心がより伝わって来るような気がします。ですから今日は、詩編3篇を「ダビデがその子アブサロムを逃れた時」の心情を歌ったものとして解釈していきます。
・ダビデはイスラエルを統一した王ですが、晩年に息子アブサロムの反乱により、王位を追われ、都落ちするという出来事を経験します。事件の詳細はサムエル記下15-17章にありますので、最初にサムエル記を読んでみます。サムエル記は記します「アブサロムはイスラエルの全部族に密使を送り・・・『アブサロムがヘブロンで王となった』と言うように命じた・・・陰謀が固められてゆき、アブサロムのもとに集まる民は次第に数を増した。イスラエル人の心はアブサロムに移っているという知らせが、ダビデに届いた。ダビデは・・・言った『直ちに逃れよう・・・アブサロムがすぐに我々に追いつき、危害を与え、この都を剣にかけるだろう』・・・こうして王は出発し、王宮の者が皆、その後に従った」(サムエル記下15:10-16)。
・アブサロムがダビデに反逆したのは父を恨んでいたからです。ダビデは多くの妻たちに多くの子を産ませ、その家庭の乱れがいろいろな問題を引き起していきます。ダビデの長子アムノンは欲望のままに腹違いの妹タマルを辱めます。しかしダビデは自分もかつて姦淫を犯した引け目があるゆえに、アムノンの不法行為を処罰できません。タマルと母を同じくするアブサロムは怒り、異母兄アムノンを殺します。ダビデは兄を殺したアブサロムを許さすことができず、宮廷から追放します。疎んじられるようになったアブサロムは父を憎み、宮廷の重臣たちを懐柔して自分の味方にしていき、時を待って反乱を起こします。アブサロム陣営の中心になったのは、ダビデの側近、アヒトフェルでした。彼はバテシバの祖父です。ダビデはかつて美しい人妻バテシバに心迷い、彼女を手に入れるためにその夫ウリヤを殺しています。全ては彼が他の人の妻を欲したことから生じていることを知ったダビデは、主の前に祈ります「私が主の御心に適うのであれば、主は私を連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう。主が私を愛さないと言われる時は、どうかその良いと思われることを私に対してなさるように」(サムエル下15:25-26)。ダビデは子と争うことを避けて、エルサレムから脱出します。
・ダビデのエルサレム脱出によって情勢は大きく変化します。今やダビデが王ではなく、アブサロムが王になったのです。多くの者たちは保身のためにアブサロム陣営に走り、人々の心もダビデを離れ、逃亡するダビデに石を投げます。「負ければ賊軍」、負けた者からは世の人々の心は離れるのです。前のサウル王の一族につながるシムイはダビデを嘲笑します「出て行け、出て行け。流血の罪を犯した男、ならず者。サウル家のすべての血を流して王位を奪ったお前に、主は報復なさる。主がお前の息子アブサロムに王位を渡されたのだ。お前は災難を受けている。お前が流血の罪を犯した男だからだ」(サムエル下16:7-8)。
2.世から捨てられた時
・詩編3篇は裏切られ、失意の中にある者の嘆きの歌です。「主よ、私を苦しめる者はどこまで増えるのでしょうか。多くの者が私に立ち向かい、多くの者が私に言います『彼に神の救いなどあるものか』と」(3:2-3)。人々はダビデを嘲笑します「主がお前の息子アブサロムに王位を渡された、お前に神の救いなどあるものか」、お前が王位を奪われたのは罪を犯したからだ、罪を犯した者に神の救いなどあるものか。イエスも十字架上で同じ呪いを受けられました「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『私は神の子だ』と言っていたのだから。」(マタイ27:43)。「お前に神の救いなどあるものか」、ダビデはやがてその子孫イエスに与えられる嘲笑を今ここに聞いているのです。
・しかし、ダビデは屈しません。確かに彼は罪を犯し、その罪の実が今彼を苦しめています。しかし、彼は言います「主よ、それでもあなたは私の盾、私の栄え、私の頭を高くあげてくださる方。主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます」(3:4-5)。「私の頭を高くあげてください」、私の正しさを人々に示して下さいとダビデは叫びます。ユダヤの人々は祈る時に頭を下げるのではなく、頭をあげ、天を見つめて祈りました。祈りは神への叫びなのです。自分の息子が自分を殺そうとして命を狙っている、お前に神の救いなどあるものかと人々が嘲笑する、その中で、ダビデは「主よ、それでもあなたは私の盾、私の栄え」と神に呼びかけます。「私の盾」、敵からの矢が前後左右から降り注ぐ中で、神が盾となって守って下さる、そして呼べば答えて下さるとダビデは言います。
・四面楚歌の孤独に追込まれれば、多くの人は夜も眠ることができません。しかしダビデは神の守りを信じますから、敵の前で寝ることが出来、元気を取り戻すことが出来ました。どのような状況にあっても、眠ることさえできれば、心は回復します。安らかな眠りこそ、回復の力なのです。彼は歌います「身を横たえて眠り、私はまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。いかに多くの民に包囲されても、決して恐れません」(3:6-7)。「主が支えていてくださいます」、人に捨てられることがあっても神は共にいて下さる、この確信があれば人はどのような苦難も耐えることができます。そして彼は神に訴えます「主よ、立ち上がってください。私の神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち、神に逆らう者の歯を砕いてください」(3:8)。「人々は私があなたから見捨てられたと言っています。どうか立ち上がり、そうでないことを示してください」と彼は叫びます。詩篇3編は敵への報復を求める詩ではありません。神の守りを確信できる者は、自分を呪う者を祝福できるのです。故にダビデは歌います「救いは主のもとにあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように」(3:9)。
3.罪の実は刈らなければいけない
・今日の招詞はサムエル記下19:1です。「ダビデは身を震わせ、城門の上の部屋に上って泣いた。彼は上りながらこう言った『私の息子アブサロムよ、私の息子よ。私の息子アブサロムよ、私がお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、私の息子よ、私の息子よ』」。息子アブサロムが死んだ時、ダビデが嘆いた言葉です。「私の息子」という言葉が繰り返され、息子を亡くしたダビデの悲しみが伝わってきます。
・ダビデの子アブサロムは父を追放して王位につきましたが、若い彼は権力を握ると、傲慢になり、何でもできると思い、周りの意見を聞こうとしなくなり、人心は次第にアブサロムから離れていきます。そしていよいよダビデ軍とアブサロム軍が対決します。ダビデは自らも出陣の支度をしますが、部下たちはダビデの出陣を退けます。戦いの主眼は、父ダビデと子アブサロムの王位をめぐる争いであり、ダビデが死ねば全軍が崩れる危険性があるからです。ダビデは部下たちの助言に従い、後方に残りますが、出征する将軍たちに「息子アブサロムを絶対に殺すな」と命じます。ダビデはアブサロムを憎んでいるのではなく、愛しているのです。
・戦いは一方的にダビデ軍の勝利に終わり、アブサロムは捕えられます。ダビデの部下たちはアブサロムを殺すことをためらいますが、将軍ヨアブは躊躇せずアブサロムを殺します。彼が生きていればまた王国に災いが臨むからです。やがて「ダビデ軍が勝利した」という使いがダビデの下に届きますが、その使いは同時に「アブサロムは死んだ」との報告ももたらします。ダビデはそれを聞くと、戦勝を喜ぶこともせずに、城門の上の部屋にこもり、息子の死を嘆きました。ダビデはバテシバと姦淫を犯したために、同じ姦淫を犯した長子アムノンを処罰することが出来ず、そのことがアブサロムに復讐としての兄殺しをさせました。そのアブサロムをダビデは許すことが出来ず、アブサロムは父に反乱を起こし、彼は死にました。自分の罪で二人の息子が死んだ、ダビデは罪の実を刈り取らなければいけませんでした。
・ダビデは再び王位につきます。アブサロムを支持したイスラエル諸部族もダビデに従いました。しかし、本心からダビデに服従したのでありません。そもそもアブサロムの反乱が一時的に成功したのは、ダビデの治世に不満を持つ者たちがアブサロムを支持したからです。以後のダビデは王国を維持するために、冷酷な政治をします。かつては「神の人」だったダビデは、今は計略の人、政治家になります。不満を持つ部族は力により押さえつけられていきます。この部族の不満が、やがて爆発し、北イスラエル10部族は、ダビデの死後、自分たちの王を擁立してダビデ王朝から独立します。南北王国の分裂です。
・晩年のダビデについて列王記は書きます「ダビデ王は多くの日を重ねて老人になり、衣を何枚着せられても暖まらなかった・・・美しいこの娘は王の世話をし、王に仕えたが、王は彼女を知ることがなかった」(列王記上1:1-4)。アブサロム事件以降、ダビデは魂の抜け殻のような晩年を送り、やがてはただの老人になって死んでいきました。ここにおいて、救いとは何かを考えさせられます。ダビデの晩年を見た時、十字架の購いを知らない旧約の限界があるように思います。十字架により赦され、神との平和をいただいた者は、晩年のダビデのようにはならないでしょう。詩編3篇を詠った時のダビデには一途な信仰が、神との平和がありました。しかし、晩年のダビデにはそれはありません。根底的な赦し、十字架の購いなしには、真の救いはないのです。
・イエスは言われました「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(マタイ20:25-28)。「権力は腐敗する」、支配者はやがて自分が神となっていき、その時心の平安は彼から離れます。支配する人生には救いはないのです。たとえ他者との争いに勝って支配者となってもそこに本当の喜びはありません。
・ダビデは苦境を脱して再び王になりました。しかしその勝利は息子の死を通してであり、苦い勝利です。ダビデはかって祈りました「主よ、立ち上がってください。私の神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち、神に逆らう者の歯を砕いてください」(3:8)。その通り、ダビデの「敵の顎は打たれ、神に逆らう者の歯を砕かれ」ました。しかしダビデに喜びはなく、彼は「私の息子よ」と泣くだけでした。アブサロム事件以降、ダビデの精神は死に、残ったのは抜け殻だけです。救いは、「支配する」側に立つのではなく、「仕える」側に立つことによって与えられるのです。そして、仕えることができるように、私たちに試練が与えられます。この詩を詠った時のダビデは王を追われ、人心は離れ、自分の息子から命を狙われているという失意の中にありました。しかし、神は共にいて下さった。だから彼は「身を横たえて眠り、私はまた、目覚めます。主が支えていてくださいます」(3:6)と詠うことができました。救いとは「苦難からの解放」ではなく、苦難の中にあっても「主が共にいて下さる」ことを知ることなのです。「救いは主のもとにあります」(3:9)、まさに主が共にいて下さることこそ、救いなのです。