1.御国への門は狭い
・聖書教育に基づいて聖書を読んでいます。4月から聖書教育はマタイ福音書に取り組んでおり、過去三回にわたって、「山上の説教」を読み進め、今日が山上の説教の四回目、最終の箇所です。イエスはガリラヤ湖ほとりの丘の上で、人々に教えて言われました「貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」(5:3)。「あなたたちは貧しいことを卑下することはない、貧しい人こそ救いに入るのだ」とイエスは言われました。次にイエスが言われたのが「敵を愛しなさい」という言葉でした(5:44)。敵を愛することによって私たちは他者と和解し、共に生きることができるようになる。先週教えられたのは主の祈りです。私たち一人一人は弱くとも、共に祈ることによって誘惑から解放されます。そして今日、教えられますのは、「私の言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人」(7:24)だという言葉です。何でもない時は、苦労して岩の上に家を建てる事は愚かに思えるかもしれないが、暴風雨が来た時にその真価が問われ、岩の上に建てられた家は倒れないだろうとイエスは言われます。では、「岩の上に家を建てる」とはどのような生き方なのか、それを今日は聞いていきます。
・5章から述べられてきました山上の説教は7章からまとめの段落に入ります。そこで最初に述べられるのは、「狭い門から入りなさい」という言葉です。イエスは言われます「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(7:13-14)。此処で言う門とは天国の門、命の門です。「広い門」、それは誰でもが求める生き方、この世の栄光を求める生き方、富や地位こそが私たちを幸せにするという考え方です。しかし、そこには本当の命、救いはありません。何故ならば、世の栄光を手に入れた人は人生に満足し、神を求めないからです。それに反対する生き方が「狭い門」です。人生において起こる困難や苦難を避けないで、それを神から与えられたものとして受け入れていく、そこに御国への道が開けていくとイエスは言われます。「貧しい人々は幸いである」、人は貧しさや悲しみを通して神に出逢うのであれば、貧しさや悲しさは呪うべきものではなく、命に至る祝福となります。アンドレ・ジッドの小説に「狭き門」というのがあります。そこでは「天の国に至る道はなんと狭いのか」という嘆きが描かれていますが、小説に描かれているように、狭い門から入るということは、禁欲して難行苦難を乗り越えていく道ではありません。イエスが私たちのために十字架と言う狭い門を通って下さった、そのことを知り、感謝していく、喜びの道なのです。イエスは言われます「私は門である。私を通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」(ヨハネ10:9)。狭い門とはイエスを通る門、イエスに従って行く生き方なのです。
2.イエスに従う者だけがその門をくぐる
・どのようにイエスに従っていくのかが、次の段落に描かれています。救いは「狭い門の先にある」、つまり、本当にイエスに従わない限り、そこに救いはありません。マタイは書きます「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」(7:21)。それを聞いた人々は反論します「私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」(7:22)。しかしイエスは彼らを知らないと拒絶されます「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ」(7:23)。厳しい言葉です。現代の言葉に翻訳すれば、クリスチャンであること、洗礼を受け、教会生活をしていることは、御国に行く救いの保証ではないということです。
・私たちの心の中に、善行を積めば天の国に入れるという考えがあります。しかし、イエスはそれを否定されます。「人が天の国に入れるかどうかは、天の父なる神の御心によるのであって、人間の業によるのではない。逆に自分の正しさ、自分の行いを拠り所に、天の国に入れるに違いないと思う時、そこに神はいないではないか。自分の行いに拠って天の国に入ろうとする時、見つめているのは神ではなく、自分ではないか、だからあなたがたは天から締め出されるのだ」とイエスは言われます。
・では誰が救われるのか、イエスは最後の審判の例えの中で言われます「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(25:34-36)。言われた人たちはびっくりします。イエスに食べさせ、飲ませ、宿を貸した記憶がないのです。イエスは彼らに言われます「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(25:40)。自分の救いのために何かをしたことよりも、他者のために何かをする、そしてしたことさえ忘れる者だけが神の国にいくということです。「良いことをした。私がそれをした」と思い始めるとき、良いことさえもサタンの業になっていくことに留意する必要があります。先に申しましたように、バプテスマを受け、教会生活を送っているだけではだめなのです。それは自分の業であり、神の業にならない。「隣人を自分のように愛しなさい」(22:39)、思いが自己を超えて隣人に向うようにならないと、それは神の業にはならないのです。
3.土台のない家は倒れる
・そしてイエスは最後の締めくくりとして言われます「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」(7:24-25)。人生はしばしば建築に例えられます。建築において大事なのは土台です。土台は見えないから、それにお金と時間を掛けるのは勿体無いと思う人も出てきます。土台を問題にしなければ建物は早くたち、費用も少なく、外見上は分かりません。しかし、この見えない部分が見えるようになる時が来ます。雨が降り、大水が押し寄せ、風が吹きつける時です。その時、きちんとした土台工事をしていない家は倒れます。イエスは言われます「私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(7:26-27)。
・「岩の上に家を建てる」とは、人生の土台石をイエス・キリストに置く生き方です。今日の招詞に1コリント3:10-11を選びました。次のような言葉です「私は、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」。
・コリント教会はパウロの開拓伝道によって建てられた教会です、その後、アポロが二代目の牧会者になりましたが、教会の中にパウロ派とアポロ派が対立し、パウロは悩み、コリント教会に手紙を書きます。彼は言います「私が立てた教会の土台石はキリストだ。それなのにあなた方は、私はパウロに、私はアポロにと言っている。それではイエス・キリストはどこにおられるのか」。パウロはイエス・キリストと言う土台の上に、コリント教会という上物を築き、アポロはその一部を改築しましたが、土台石になられたのはあくまでもキリストです。「そのキリストを忘れるから、私はパウロに、私はアポロにという愚かな争いをするのだ」とパウロは言います。今日でも多くの教会で内部の争いがあります。それは教会の土台石をキリストではなく、人に(牧師や執事)に置くからです。人に土台を置く教会形成は「砂の上に家を建てる」愚かさを犯しています。
・私たちの信仰も同じです。信仰の中心を自分に置く時、その信仰はもろいものになります。前に、クリスチャンの精神科医・赤星進先生のお話を紹介したことがあります。彼は多くの心の病を持つクリスチャンを診察し、その分析から、信仰には“自我の業としての信仰”と“神の業としての信仰”の二つがあるとの結論に達しました(赤星進著「心の病気と福音」)。自我の業としての信仰とは、自分のために神をあがめていく信仰です。熱心に聖書を読んでいる、教会の礼拝も欠かさず参加している、人に非難されるようなことはしていない、だから救って下さいという信仰です。つまり救われるために信じる信仰です。私たちが最初に信仰に導かれる時も、この自我の業としての信仰を通してです。この病を癒してほしい、この苦しみを取り除いてほしいとして、私たちは教会の門をたたき、聖書を読み、バプテスマを受けます。しかし、この信仰に留まっている時は、やがて信仰を失います。なぜならば、自我の業としての信仰は、要求が受け入れられない時、例えば重い病や死や経済的破綻の危機が迫り、祈っても解決されない時、その信仰は崩れるからです。自我の業としての信仰とは、イエスが言われた「砂の上に家を建てる」信仰です。
・もう一つの信仰のあり方、神の業としての信仰とは、赤子が母親に対してどこまでも信頼するように神に信頼する生き方です。生まれたばかりの赤子は一人では生きていくことができません。ただ一方的に母親の愛を受け、その中で安心して生きていきます。イエスが示された信仰は、この神への基本的信頼の信仰です。イエスは言われました「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな・・・あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(6:30-32)。そのような信仰を持つ人にも、重い病や死や財政危機は迫ります。その時、彼は祈ります「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに」(26:39)。病が癒されないのならそれを神の御心として受け入れていく。財政破綻をするのであれば、それもまた御心と受け入れていく。そして、その破滅の底から神を呼び求めていく。それは「狭い門」かもしれませんが、救いに至る門でもあります。その道こそ、「岩の上に家を建てる」生き方なのです。
・三浦綾子さんは大腸癌に冒された時、次のように言いました「神を信じる者にとって、神は愛なのである。その愛なる神が癌をつくられたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとはいえないのではないか。“神の下さるものに悪いものはない”、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」(三浦綾子「泉への招待」)。癌さえも喜ぶことのできる信仰、それが「神の業としての信仰」です。その信仰に依り頼んでいく、それが「岩の上に家を建てる」生き方です。ですから、岩であるキリストから離れない、キリストの言葉が記されている聖書から離れない、キリストの言葉が語られる教会から離れない、そのような選択を私たちがする時、「あなたは賢い」(7:24)とイエスは言って下さるのではないでしょうか。