江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年11月14日説教(ローマ7:15-25、罪にある者の叫び)

投稿日:2010年11月14日 更新日:

1.パウロのうめき
・人生にはどうにもならない不条理、自力では解決の方向が見えない苦しみがあります。勤め先を解雇されて職を探しても見つからず、どうしてよいのか分からずに悩んでいる人がいます。健康診断で癌が発見され、病状が進行してもはや手術では対処できずに抗がん剤治療を受け、後遺症に苦しめられている人がいます。仕事や家庭のストレスからうつになり、外に出ることも出来ずに家に引きこもっている人もいます。病いや貧困や死、あるいは罪という限界状況にぶつかった時、私たちはどうすれば良いのでしょうか。そのような時に、ローマ書は私たちに一条の光を示してくれます。何故ならば、ローマ書の著者パウロもまた苦しみの中から立ち上がった人だからです。彼はローマ書の中でうめきの叫びを上げています「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。何がパウロにこのようなうめきを上げさせたのか、そしてパウロはどのようにして、この地獄から解放されていったのでしょうか。今日はローマ7章を通じて、人間の根源的な問題、「罪と救い」の問題を考えて行きます。
・パウロはキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人でパリサイ派に属していました。裕福な家庭の出身で、著名なラビ・ガマリエルのもとで律法を学び、律法学者として立ちます。彼は自らをこう語ります「同年輩の多くの者たちに比べ,はるかにユダヤ教に進んでおり,先祖からの伝承に人一倍熱心であった」(ガラテヤ1:14)。彼は「人は律法を守ることによって救われる」と信じ、その律法への熱心が、律法を軽視するキリスト教徒の迫害に走らせました。彼にとって、十字架で殺されたイエスを救い主として仰ぎ、その死と復活を通して救われるという信仰は許しがたいもの、邪教としか思えなかったのです。ですから彼は、そのような異端を撲滅するために、「家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に送って、教会を荒らし回った」(使徒8:3)のです。その彼がキリスト教徒を捕縛するためにダマスコに向かう途中で、突然の回心を経験します。天からの光に打ちのめされ、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」という声を聞きます。彼は問います「主よ、あなたはどなたですか」。それに対して答えがありました「私は、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:5)。
・使徒言行録にその次第が詳しく書いてありますが、具体的に何が起こったのかはわかりません。わかることは、パウロが復活のキリストに会い、キリストの迫害者から伝道者に変えられたという事実です。そのパウロがキリストに出会う前にどのような状況に置かれていたかを記すのが、このローマ7章です。律法に熱心な者として戒めの一点一画までも守ろうとした時、彼が見出したのは、「律法を守ることの出来ない自分、神の前に罪を指摘される自分」でした。だからパウロは言います「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(7:15)。キリストの光に照らしだされた時、以前の自分の状態があからさまに見えて来たのです。律法を守ろうとしても守りきれない自分がいたのです。
・「律法によって人は救われない」、これは律法を熱心に守ろうとした人だけがわかる真理です。律法は最終的には二つの言葉に要約されます。「神を愛しなさい」、「隣人を愛しなさい」。隣人を愛するゆえに「殺すな」とか、「盗むな」といかいう戒めが生まれて来ます。しかし人は隣人=他者に対して純粋な愛を持つことはできません。愛の中にどうしてもエゴイズムが生まれてくるからです。私たちの愛は相手の中に価値を見出すゆえに相手を愛する愛です。だから相手に価値が無くなればもう愛することはできない。実際の結婚生活においても相手の価値が無くなれば、例えば夫が失業したり、妻が病気になれば、もう結婚生活の維持は難しくなる。二組に一組が離婚するという社会の現実は、結婚生活が「価値の取引」であることを示しています。ところが律法は相手に価値があろうとなかろうと愛することを求めます。その時、自分は律法を守ることが出来ない存在であることが明らかになってきます。だからパウロは嘆きます「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです」(7:18-20)。

2.私の中に住むもう一人の私
・「私の中に住んでいる罪」、これこそエゴ、自分さえ良ければ良いという人間の本質です。そしてそのエゴを見つめて行った時に、自分の中に「もう一人の自分」がいることが見えて来ます。理性では制御出来ない、心の中から突き上げてくる罪の衝動に動かされる自分です。11月4日NHK「クローズアップ現代」で衝撃的な映像が流されました。ウィキリークスというNGOが入手したアメリカ軍の秘密映像が放映されたのです。それによれば3年前のバクダッドにおいて、空から警戒していたアメリカ軍ヘリコプターがカメラマンの持っていた大型カメラをロケット砲と誤認して銃撃し、十数人のイラク市民を殺害した時の映像でした。しかしその事実は伏せられ、今回内部告発によって世界中に映像が流れました。映像が示すものは「恐怖に駆られた人間は自己を守るためであれば何でもする。仮にそれが誤解であり、その結果被害が出ても、謝ることができない」と言うことです。戦争の本質=殺し合いを象徴するような映像でした。ここに人間の罪があります。パウロは言います「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」(7:22-23)。自分の力によって、救いを得ようとした時、パウロが出会ったのは裁きの神でした。律法を守ろうとしたパウロが見出したものは、自分が罪人であり、その罪から解放されていない事実でした。だからパウロはうめきの声を上げました。そのうめきが24節の言葉です「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」。
・「私の中にもう一人の私がいる」、本来の私は損得抜きに愛したいと願っているのに、「愛するのは損だ、やめろ」と足を引っ張る存在が自分の中にいます。先の米軍の映像では、殺されるかも知れないという恐怖がカメラをロケット砲に誤認させ、それが殺りく行為に導き、それが誤解であり、その結果多くの人が亡くなっても謝ることが出来ない私たちがいます。私たちは罪が支配する世に住んでおり、その中で「罪から解放されて生きる」とはどういう生き方かを求めています。そのような私たちに、マザーテレサは語りかけます「今日最も重い病気は、人々が互いに求めあわず、愛しあわず、互いに心配しないという病です。この病を治すことができるのは、ただ一つ、愛だけです」。どうすれば人を本当に愛せるのか、マザーは言います「神がいかにあなたを愛しているかを知ったとき、あなたははじめて、愛を周りに放つことができます」。

3.罪からの解放の喜び
・今日の招詞にローマ8:2−3を選びました。次のような言葉です「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(8:2-3)。
・先に見ましたように、キリストを信じて平和を見出す前のパウロは、「神の怒り」の前に恐れおののいていました。彼は律法を守ることによって救われようと努力していましたが、心に平和はありませんでした。この罪にとらえられているという意識、その結果神の怒りの下にあることの恐れが、パウロを「律法を守ろうとしない」、罪人と思われたキリスト教徒への迫害に走らせたのです。しかし、復活のイエスとの出会いで、パウロの思いは一撃の下に葬り去られました。パウロは死を覚悟しました。ところがパウロを待っていたのはキリストの赦しでした。恐ろしい神との敵対は一瞬のうちに終結し、反逆者パウロに神との平和が与えられました。だから彼はローマ5章で次のように告白します「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった・・・私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(5:6-8)。キリストは「不信心な」私、「神への反逆者」であった私のために死んでくださった。そのことを知った時、パウロの人生は根底から変わらざるを得なかったのです。
・キリストが命を捨ててまで救おうとされたのは、善人でもなく義人でもない、キリストの迫害者として憎んでも余りある自分のためであった。ダマスコで復活の主イエスにまみえた時、パウロはこの驚くべき真理によって打ちのめされ、彼はキリストの迫害者からキリストの伝道者に変えられていきます。そのことによって、彼はユダヤ人からは「裏切り者」として命を狙われるようになります。苦難が彼を訪れたのです。しかし彼はその苦難を喜ぶことができる者に変えられました。神との平和があるからです。だから彼は宣言します「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(5:2-4)。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」、なんと素晴らしいことでしょうか。この信仰を与えられている人は苦難があっても動揺しないし、光が見えなくとも希望を失わない。そのような人生に私たちは招かれているのです。このパウロの体験は「人生のどうにもならない不条理、自力では解決の方向が見えない苦しみ」の中にある人への慰めになるのではないでしょうか。
・マザーテレサも苦しみの意味を別の言葉で表現しています「私たちは皆、多かれ少なかれ精神的、肉体的になんらかの苦しみを体験してきます。それは主の十字架を知るために各自に恵まれた自分の十字架なのです。私たちの他人に対する愛はまず理解から始まります。他人の気持ちを理解したとき同情心が起こり、それが愛に発展します。他人を真に理解するには自分も他人と同じような立場にたつこと、すなわち他人の苦しみを経験しなければなりません。だから私たちが試練を受けることは神の恩寵です」。神の愛を信じることが出来るようになった時、苦しみもまた恵みとなっていくのです。

-

Copyright© 日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会 , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.